ビハイン・ロックドアーズ
05
「お前だけじゃねぇんだよ、黄瀬。ここで、始めたらオレが止まんなくなるから。――でも、お前にこんな寒いとこで余計な体力使わせるわけにはいかねぇし、だから」
ここでは、したくないんだと続けた笠松の煮えるような欲情した眼と、それを裏切るような声の静けさに、黄瀬はどうすればいいのか判断に迷った。惑いは指にも表れて、潜り込ませた指先をそれ以上深く埋めることも躊躇われ、そうと引き抜いた。
それでも腰を抱く手を外さなかったのは、自身がこのまま終わりにできるような聞き分けのいい人間でない自覚があったからだ。半端に熱を持った身でこのまま引き下がれるはずもなかった。
「でも、センパイ、オレは」
笠松がここまで自身の欲を曝け出した上で、ここでの行為を拒んでいる。それを汲むべきだと思う心も確かにあったが、ならば後のことなど考えずに溺れてしまえばいいのだと進みたがる心もあった。欲情に果てはないのだから、二人で一緒に行ってしまえば、それでいい。それだけでいいのに。
言葉で伝えることがもどかしく、黄瀬は笠松の肩口に顔を埋めた。言葉ではなく熱で伝えようと、自分の躰と笠松の躰の隙間をなくす。密着した躰の間で擦れるシャツの音に、こんなのもさっさと剥いでしまえばよかったと後悔した。この熱を直に肌に触れさせてしまえば、笠松とて無碍にできなかったはずだ。
「……センパイ」
甘える声に絆されてくれやしないかと期待もするが、笠松は苦笑を一つ零して黄瀬の後ろ髪を掬うように梳いて言った。
「……言っただろ。お前だけじゃないって、オレもだって。だから、駄目だ」
「何でスか? 別に二人ともならいいじゃないスか。何で駄目なんスか。オレそんなに柔でもないっスよ」
笠松が自分のここのところの仕事量を見て、なるべくなら早く多く躰を休める時間を取るべきだと言うことは解っている。
ただ、いくら躰を休めたところで、この欲は鎮まりようがない。往生際が悪いと言われることを覚悟で尚も言い募ろうとした黄瀬の言葉を遮ったのは、――オレも我慢できなかったから、ゴム、なんて見に行っちまったんだろ。
「最近……してねぇなって思って、そしたら何か段々芋蔓式で思い出して、そうしたらもう、次あったら絶対そうなるって思ったから。……用意、しとこうかなとかそういうので」
その言葉を口にしたときの笠松の顔はどんな風だったのか。笠松自身が絶対に見せまいと黄瀬の頭を抱く腕に力を込めてしまったので見ることはかなわなかった。ただ、その瞬間に吐き出された震える息に共鳴するように、黄瀬の躰の中心がぶるりと震えた。
「センパ、い」
呼んだ声が途切れ途切れになってしまったのはどうしようもなかった。既に躰の関係を持っているとはいえ、普段あまりにも性のにおいを感じさせない人が拙い言葉で口にする欲に、自分がここまで反応するとは思っていなかった。それこそ久し振りだったからだろうか、それだけでも一杯になってしまっていたのに、だから、その、お前の家じゃ駄目か。
続いたのは思いもよらない一言だった。
「……はい?」
「や、だからだな、ここじゃ結局その……だ、体勢とか互いにきつくなるの多いだろ。だったら、さっきあんなこと言った口で何だけど、その、だ、だから、だ――察しろボケ!!」
「あだっ」
いきなり惚気られて呆然としているところに威力抜群のデコピンを食らい、黄瀬は大きく仰け反った。体調のことには気を使ってくれるくせに、こういうところでは遠慮のない一撃をくれることが専らの恋人を、黄瀬は涙目のまま睨んだ。
「流石にいきなりは酷いっス! 痛いじゃないスか!!」
「お前がオレに皆まで言わせようとするからだろうが! 察しろ、慎ましやかにそれとなく察してみせろ!!」
「だっていきなりデレられたら吃驚するでしょ!? そんな、顔真っ赤にしてセンパイ自らお泊まり志願なんて――いてっ」
「お泊まり志願言うな!!」
笠松自身、こういうことを口にする人間ではないという自覚はある。性格的なものも十分あったが、ただひたすらに恥ずかしかった。世間一般で言う甘えだの誘うだの、そういったことをどのように行えばいいのか解らなかった。
だからこそ言うことが躊躇われたのに、どうして黄瀬はそれを殊更強調するような返しをしてくるのか。新手の辱めなのか。
(でも今のは絶対素でやりやがったよなこいつ、本当、腹立つ……!!)
中断していた抵抗を再開する。黄瀬の腕の拘束から逃れようと身を捩じらせれば、条件反射だろう、即座に拘束をきつくしてくるので「オレは束縛の強い男は大嫌いだ!」と叫んでやった。
「……っそんな」
黄瀬が怯んだ隙にベンチから離れ、乱された服を手早く調える。笠松の言葉がむしろ比喩的な意味合いを含んでいるものだということにも気付かずに、直ちに腕の拘束を緩めた年下の男の単純さと素直さに、呆れていいのか微笑ましく思っていいのか解らなくなる。
先まで笠松を抱いていた腕の行き場に困ったのか、それとも中途半端に放り出された熱の行き場に困ったのか、眉尻を下げて暫し縋るような眼で笠松にその後の始末を乞うていた黄瀬だったが、返されることがないのを察したのか軽く頭を振った。
「……センパイ、本当に今日、ウチ来てくれるんスよね?」
そうして口にされたのがその言葉だったことに、笠松も思わず「どんだけ溜まってるんだ」と突っ込みを入れたくなったが、見上げてくる視線の欲の強さと深さにぐっと息を呑んだ。欲に呑まれるより、まるで試合の前のような緊張感に襲われ、同じ強さの視線で返す。
「――男に二言はねぇ」
「……スよね」
ぎしりベンチを軋ませて立ち上がった黄瀬はショルダーを肩に掛けたが、逆に笠松はきしり先まで座っていた椅子を引いて腰を下ろした。
「……あの、センパイ?」
「お前が馬鹿なこと抜かして部誌書き途中だったんだよ。これ書くまで帰れねぇ」
「え、いや、それは別に後日でも」
この流れで何故部誌記入に拘るのか。それは明日でもいいものではないのか。今直ぐにでも家に笠松を連れ込もうとしていた黄瀬の計画が、途端に頓挫する。
「駄目だ、こういうのはその日に書かなきゃ」
きっぱりした物言いに、そんなぁと嘆いて見せるも、笠松は完全に頭を切り替えてしまっている。
ここで駄々を捏ねることと、大人しく待つことのどちらを選ぶべきかなど考えるまでもなかった。ここでごねれば、確かに家には来てくれるだろうが、何もさせてもらえない公算の方が大きい。水をかけられてぶすぶすと消えかかった己の中の種火を少しでも残すべく、笠松の背後に回ってべったりと貼りつこうとした。せめて熱だけでも感じていたい。仔猿みたいだなぁと自分でも思いつつ、その背中に己の胸元を押し付ける。
「――っあ」
手元を覗こうと伸ばした首、垂れたネクタイをぐいと引っ張られて前のめりになったとき。
唇に触れたものは何なのか。
「え――っえ!?」
口元を押さえて頬を朱に染めた黄瀬に、笠松はしてやったりといわんばかりの笑みを見せる。今し方座ったばかりなのに、また立ち上がって脇に置かれていたエナメルのショルダーを斜め掛けにすると、置物のように立ち尽くす黄瀬の膝裏をがくり膝で軽く蹴り上げた。
「馬鹿、部誌の記入なんざとっくに終わってるっての。後は提出しに行くだけだ」
「っなら、何であんな意地悪……」
「妄想癖激しい犬への躾の一環だ」
躊躇いなく口にされた言葉に、オレは犬じゃないスよと反論することができない。
「ほら、部室も閉めっから。さっさとお前は昇降口行け。門のところで待ち合わせでいいだろ」
「……逃げ」
「ねぇって言ってんだろ。っつか――オレだって限界だってんだろうが」
解れ馬鹿。ぶっきらぼうに言い捨てられた言葉には、可愛げよりも開き直った清々しさが見て取れた。腹を括ったら誰よりも潔くなる。こういうところが格好良いんだよな、と黄瀬は恋人の魅力を再確認したが、しかしこのままやられっぱなしでいるのもどうにも癪だった。
センパイ、と呼びかける。前にいた笠松は、部室のドアノブに手をかけたまま、首だけ捻って黄瀬を見た。
「ンだ――っ」
「――お返しっス」
一瞬だけ触れ合わせものは、先程の笠松と同じ。
黄瀬がまさかそんなことをしてくるとは思ってもいなかった笠松は、鼻の頭と頭がくっつく至近距離で、ふふと笑う黄瀬を茫然と見つめていた。
「おま、お前ってやつは……っ」
「センパイだっておんなじことしたでしょーが」
「違、オレのは褒美だ! キチンと大人しく待つ素振り見せたからちょっとは飴もやらねぇとって! 鞭ばっかじゃ、またお前妙な方向に勘違いして拗ねんだからよ!」
「……褒美、だったんスか?」
「そう――……」
時既に遅し、笠松が口走った言葉を復唱した黄瀬は、笠松の同意の言葉を最後まで言わせることなく、躰を反転させるとその口を優しく塞いだ。弄るのは舌先で下唇を撫でるだけに留める。
「っお前、人が話している最中に何いきなり」
「――センパイ、早く校門まで来て下さいっスね。オレの方も、色々と限界なんで」
んで、ちゃんと待ってたその分のご褒美は家でもらうんで。
耳元で囁かれた言葉は睦言に似ていた。だが、それはまさしく今自分が口走った言葉。それが黄瀬にとって都合の良い免罪符になってしまった事実に、笠松は眼を瞠った。
「おま、お前って奴は……っ」
どうしてそういうところでは咄嗟に機転を利かせられるのに、あんな妙な勘違いをするんだ。怒鳴る前に黄瀬に先手を打たれた。――男に二言は、ないんスよね。
「センパイ」
確かめるような、脅すような、宥めるような、甘えるような声に眼に、ぐっと詰まってしまったのがいけなかった。
「センパイ」
追い打ちとばかりに重ねられた言葉に返す代わりに、笠松は眼を瞑ってその唇に前払いで褒美をくれてやることにした。
bihind locked doors:内密に、秘密裏に