黒子のバスケ

ビハイン・ロックドアーズ

02

「で、結局何だったんだよ」
練習が終わり、部室に入るなり笠松は森山をとっ捕まえた。五センチ上にある男の眼をぎっと睨み上げる。
「洗いざらい白状してもらうからな、言え、森山」
部室には先に引き上げていた部員がまだ多く残っていたが、全員が笠松の声にぴくりと耳をそばだてた。同時に露骨に振り返った者もいたし、森山がどう言うのか興味半分恐怖半分でそわそわしだした者もいた。各々反応は違えど、結局思うところは一緒だった。
(笠松主将、噂は本当なんスか!?)
聞きたいけれど、聞けない。そのジレンマの解消を森山に託し、皆が皆じっと息を殺して二人の動向を伺っていた。
森山はそういう部員達の心中を察していたし、恐らく笠松の噂になっている行動の真意も解っていたので、さてどう切り出してくれようかとニヤリ笑った。
「……あのさぁ、笠松、ところで昨日お前夜何処にいた?」
森山の婉曲的な物言いには慣れているので、このときも状況を忘れ、ついいつものように返した。
「夜? そんなの、家にい――……」
そこで言葉を途切れさせる。否、途切れてしまった。昨晩は、そう、確かに家にいた。家にいたが、一度外出した。自宅から少し離れた、コンビニへ向かって。
(何か、嫌な予感が、する)
このまま引き下がった方がいい、と脳内でちかちか青信号が点滅し始めた。赤信号になるからもう進むな、止まっておけ。警報もなり始めた。
(でも、ここで引き下がったら下がったで、嫌な予感も、する)
ばっくりと口を開けた見えない前門の虎と後門の狼に、挟み撃ちにされているような心境になる。どちらに進んでも食われるのは自明で、身動きがとれずに笠松の口の端がひくり、と引き攣ったのを認めて、森山は両方の口角をきっちり対称に吊り上げた。
「――近藤さん、見てたんだって?」
「――――はい?」
森山の二言目は全くの予想外のものだった。話の繋がりも一切見えなかったが、これまた対森山時の習慣で「誰だよ近藤さん」と聞き返してしまう。話の方向が見えずに訝しげな顔になる笠松に、森山は言葉を重ねる。にっこり笑った眼と口と、三つの綺麗な孤を描く線で構成された顔は、胡散臭いこと甚だしかった。
「だから、近藤さん。じっと見て顔を赤くしたり眼を泳がせたりしてたっていうのを、見てた奴がいるんだけどさ」
「何だよ、近藤なんて知らねぇよ。さん付けしてるって、女だろ? 何、それともOB?」
きゅっと眉間に皺を刻んだ笠松は、自分の知り合いの近藤という名の者を何人か思い浮かべたが、該当するような者は誰もいなかった。
それよりも、と話を元に戻そうとはせずに森山の不可解な言葉に乗ったのは、笠松が無意識の内に地雷を避けようとしたからだった。このまま話が違う方向に流れることを、笠松は心のどこかで願っていたから。
だが、部室にいる面々の、信じられないといった驚きの顔、あるいは呆れの混じる訳知り顔に気付くのに、そう時間はかからなかった。
「……何だよ、お前ら」
珍獣を見るかのような眼差しを向けられて、今度は不機嫌故に顰め面になる。部員達をぎっと睨みつければ、皆慌てて視線を逸らした。この先の話の展開によっては、要らぬ被害、もといとばっちりを被ることになるかもしれないことを、部員達は全員解っていた。
(オレは別に、見世物じゃねーぞ!)
自分に対する部員達の態度が気に食わなくて、腹の底もむかむかし始める。そのとき、今の今まで沈黙を保っていた男が口を開いた。
「……森山先輩」
部室の奥の方のロッカー――笠松の使っているものと向かい合わせにあるロッカーをばたん、と閉めた黄瀬は、部室の入り口にいる森山と笠松をゆっくりと躰ごと振り返った。着替えも終えていて、後は帰るだけの状態になっている黄瀬を見て、そこで初めて笠松は、彼がこの場では一度も自分達を見ていなかったことに気付いた。
「何だ、黄瀬」
「笠松センパイにそういう言い方してても絶対解んないっスよ?」
センパイ、バスケ以外基本鈍いんだから、と続けられた言葉と自分を見る眼は呆れの色を湛えていた。
それだけならば他の部員と同じだったし、すぐさま跳び蹴りをかまして怒鳴りつけていただろう。だが、笠松はそれにもう一つ別の色が混じっているのを見つけた。それが跳び蹴りも怒鳴ることもできなかった理由だった。
(……怒ってる?)
普段は犬っころのように愛嬌があって、ぎゅっと甘さの凝縮された蜜色の眼。それが今は、獲物を狙う獰猛で飢えた獣の金の眼に思えて、笠松は困惑した。
一体自分が何をしたというのか。この状況の理不尽さを打開する方法は一つしかなかった。
「……森山」
観念して、話題を最初のものに戻すべく森山に視線を戻したとき、


「……センパイ、何でコンビニでコンドームなんて見てたんスか?」


背後からぶん殴られる、というのは、こういうことを言うのだと思った。
「な、んで」
お前がそれを知っているんだ、と続けたくても続けられなかった。
振り返ることもできずに、視線が足下に落ちる。言うべき言葉を見つけられなかった口を、金魚よろしくぱくぱくさせる。顔が一気に熱を持ち始める。耳に、頬に、首に血が集まった。もし本当に金魚だったら、煮魚状態で死んでいる。
その様子を見た部員達が、やっぱり本当だったのかという顔をしたことに当然笠松が気付くことはなかった。
あの笠松が……と意外に思う気持ちと同時に、これまでそういう噂を聞いたことがない方がおかしかったんだよな、と納得する気持ち、半々くらいの割合で真っ赤な主将の純情振りを見やる部員の眼差しは、どちらかというとやんちゃな弟に理解のある兄目線に近かった。
しかし、そんなことに気付ける余裕を完全に失っている笠松は、ただ狼狽えていた。
たとえば「見てたって本当スか?」と問われれば、でたらめ言うなとぶん殴れば済んだだろう。実際でたらめではないのだが、この場を鎮圧することは可能だ。
だが、黄瀬はそうは言わなかった。何で見てたのか、と事実であることを前提に理由を問うてきた。
(つ、つーかこれが原因か……!?)
今日の部活で感じ続けた違和感の原因がこれだったのならば、実に恥ずかしく、そして情けない。恥ずかしさは主将たる身で部員に示しがつかないという思いから。情けなさを感じた理由もそこに多分に含まれていたが、それ以外に。
(……オレが、そういうの見てたら悪いのかよ……?)
笠松とて十八の男なのだから、見ていたとしてもここまで大事扱いされる謂われはない。ラブホテルから出てきた、ならまだ解るが、所詮、そう所詮避妊具を見ていた程度なのだ。本当に見ていただけで、買うどころか手に取ってすらいないのが事実だった。
問題は何故部員達がそれを知っているのかということだったが、それを抜きにしても練習に集中することの妨げになるほどの事柄には思えなかった。妨げ具合でいったら、黄瀬のファンの存在の方が余程妨げになっている。
そう考えていくとこの状況がますます理不尽に思えてきて、怒りのボルテージも上がってきた。顔が赤みを帯びていく理由が、ぐにりと方向転換した。取り敢えず、黄瀬にあんな眼で見られる理由は露ほどにもない。後程黄瀬はシバくことを決めて、笠松はきっと眼の前の森山を睨み付けた。
「……今黄瀬の言ったことが、理由か?」
「ご名答ー。オレがもーちょっと引っ張って遊ぶつもりだったんだけどさ、わざわざ死語まで使うという遊び心を見せ――って、いやいや、笠松、そんな怖い眼で見っ痛ぇっ」
ふざけたことを抜かす森山の肩に手加減なしの一撃。痛い痛いと喚くのを無視して、こそこそと様子を伺っていた部員達を一瞥すると、大きく息を吸い込んだ。
「――んな下らねぇことに意識向けてる余裕あんなら、明日からもっとしごいてやる! 全員覚悟しとけ!!」
まさかの主将の一言に、兄目線で微笑ましい空気を作り出していた部員一同の顔面が蒼白になる。
そりゃあんまりだ、とムンクの叫びよろしく悲愴な顔と眼差しを向けられた笠松は、ふんと鼻を鳴らした。
「余裕なんざ徹底的に絞り尽くしてやっからな、――一日浮ついた分を取り戻すのに一週間はかかると思え」
冬まで日数もないのに、一体部員連中は何を考えているのか。笠松にはさっぱり理解できなかった。それは自分自身にも言えたことだったのだが、この場では一旦棚に上げておく。部員達の縋るような視線を無視し、憮然とした表情のまま大股でロッカーの前まで到達すると、ぎりと横目に黄瀬を睨んだ。
「……特に森山とテメェは徹底的にすっからな、急な腹痛と用事は一切認めねぇぞ」
「……」
怒りに燃え熱くなった見上げる視線、ただ冷えている見下ろす視線。互いに弱めることなくぶつけたそれは、二人の丁度中間でぶつかって弾ける。
(……いい度胸じゃねぇかおい)
試合以外で黄瀬の冷えた様を見たことなど数えたほどしかない。それでも、事前にある程度の理由が想像つくもので、今回の件に関しては黄瀬が何故こんなにも怒っているのか、笠松にはさっぱり解らなかった。
「……」
薄い唇が窄まり、縦に少し開いて閉じて、左右に引き攣るような動きを見せた。音はなくとも、何を言ったのか、笠松には解った。かっと腹の底が熱くなり黄瀬の胸元に手を伸ばそうとした、そのとき、森山の気の抜けた声が割って入った。
「急なデートは駄目か笠松!? 運命の出会いはいつなんどき起こるか解らないからな……!」
「一番駄目に決まってんだろーが!!」
馬鹿なこと抜かしてんじゃない、と躰を反転させて黄瀬に向けた拳をそのまま森山にぶつける。
「おふっ」
「わ、悪ぃっ」
平素は肩の厚めの筋肉の部分を狙うが、勢いあまって胸に直撃してしまう。そこを打たれるとは思わなかったのだろう、構えることもできずに衝撃を胸に留めてごほごほと咳込む森山は、眼の端に薄く涙を浮かべさえしていた。
「……こ、この怪我を理由に明日休むことは……」
「許すわけねぇだろーが!」
背中を擦り、顔を伏せる森山を覗き込んだ直後の台詞に脱力しつつ、そんだけ言えるなら容赦はしねぇよと、ある程度加減して背中をばんと叩いた。掌によく馴染んだ衝撃具合に、自然息を一つ吐いた。
「痛、痛ぇよ笠松!」
喚く森山を後目に、笠松は漸く着替えを始める。背中に刺さる視線は当然の如く無視をした。


(20101016/1104)