黒子のバスケ

ビハイン・ロックドアーズ

04

「いや、だって普通に考えてセンパイの方が躰きっついでしょ負担でかいでしょ!? オレばっか気持ち良いんだから場所とかゴムとか油って多分クリームとかローションのことなんだろーけど、そんなの負担でも何でもないっス! むしろそこは全面的に彼氏特権でオレに任せて欲しいとこなんですけど!!」
「気持ち良いのはオレもおんなじだっての! そこはお互い気持ち良いんだからいーんだよ、プラマイゼロなんだよ!! ってかオレは別に彼女じゃねぇよ、オレだっていわば彼氏だろーがコラ!! そうだ、お前毎回オレの躰までちゃんと綺麗にしてくれるけど、あれもだ、あれもお前しなくていいっての、オレ起きたら自分でやるわあんくらい!!」
「センパイ起きたときって、それ精液とか全部かぴかぴに乾いて洗うの面倒になっちゃうでしょ!? シーツも同じっスよ、逆に大変なんスよ! というか意識飛ばしてるセンパイの躰弄繰り回すの楽しいんだからそこは譲れねーっス!!」
「い、弄繰り回すってテメェ、オレに何してんだ!!」
「そこを言ったらおしまいなんでいくらセンパイでも言わないっスよ!」
「オレ当事者なんだから教えろテメェ、オレに何してくれてんだコラ!!」
「嫌っス!!」
「こっの……!!」
分からず屋の年下の恋人を前に、息が続かずに大きく肺を酸素で満たす。
息継ぎも無視した、まるで撃ち合いさながらの言葉の応酬など久しくやってこなかった笠松は、いっそ手を出した方が簡単に決着が着くのではないかとそのとき思い至って立ち上がった。だが、それは少しばかり遅く、一度空になった弾倉に再び弾を込めたのは黄瀬が先だった。
その声も、表情もそれまでのものとは一転していて。
「――センパイ、」
すみませんでした、と。
溜息とは違う、体内で滞っていた黒く澱んだ空気を細く吐き出して、黄瀬は漸く笑った。笑うと言うよりは緊張の糸が緩んで顔が緩んだ、そういう意図しないことの結果、というように見えた。
「……ごめんなさい、ホント、疑って」
緩く弧を描く唇以上に緩んだ目許と垂れた眉尻に、先まで剥き出しにされていた黄瀬の獣の歯が完全に隠されたのを解る。
先までの沈黙を重圧に変える、獣そのものの存在感を払拭して、まるで従順な飼い犬のような穏やかな眼で自分を見る黄瀬に、笠松は殴るか蹴るかの選択肢に一つ新たに付け加えた。
「――本当にさ、お前勝手に突っ走るなよ」
どうしようもない方向にばかり思考を及ばせる頭を両腕で抱き止める。
部屋の中は相変わらず寒いままだったが、シャツ越しに触れた首筋はそれでも熱く、笠松は笑った。黄瀬の後悔と反省が、全てこの熱くなっている躰に反映されているようだった。
(何、こいつ。ダッセェの……)
恥ずかしさにこんなに躰を熱くする黄瀬に対して、呆れよりも強く沸き上がってきたものを、笠松は恐らく正しく解っていた。
腹の底がむず痒いような、脇腹が擽ったいような、首の裏がじわりと熱を帯びていく、ような。
もどかしさにたまらず腕の中に緩く閉じ込めれば、黄瀬の方からも強く額を押し付けてきた。丁度骨に覆われていない部分、腹の辺りを吐息が擽り、シャツ一枚隔てても伝わるその熱さに、思いの外躰が震える。
「……センパイ、」
それが伝わったのか、黄瀬は鼻先で器用に差し込んで笠松のシャツの合わせ目を開くと、今度は一枚分近く息を吹きかけてきた。アンダーシャツ越し、かさりと肌を撫ぜるだけの感触は擽ったいだけで、笠松は口角を僅かに上げる。少しずつ距離を詰めてくる黄瀬の態度に、それなりにこいつも学習してるんだな、と面映くなり、誤魔化すようにぶっきらぼうにおい黄瀬、名を呼んだ。
「擽ってぇんだけど、おい、コラ」
だからと言って自分はまだ黄瀬の頭を抱いたままだったし、黄瀬もゆるりとその長い腕を笠松の腰に巻きつけることで答えてきた。こういう言葉と裏腹な態度を取っても、黄瀬は敏くどちらが笠松の真意かを解ってくれる、ということを笠松自身も解っていた。
(……大概オレも、解りづらいのかもしんねぇけど)
素直に甘えることができないのは生来のものと年上の矜持故で、そこも込みで解って欲しいというのもまた甘えの一つで、結局これが今回の黄瀬の勘違いの原因にもなってしまったのだ。大分黄瀬の暴走の方が酷かったとはいえ、黄瀬ばかりを責めるのも違うような気がした。
たとえば、メールなり電話なりを、部活絡み以外で一回でもしていれば良かったのだろう。躰をもっと休めろ、少しくらい甘えてもいい。飲み込んだ言葉は数多く、その内の一つを用件のみのメールの最後に入れておくだけでも、随分と違ったのかもしれない。
自身の言葉の足りなさを笠松は心の中でだけ苦く笑い、それを隠すように光る金糸に鼻を埋め、頬を擦り寄せた。
脱色されたものではない、生来の細く癖のない髪はきらきらと陽光を含んで柔らかく見えるときもあれば、今のように、蛍光灯のような漂白された光の下、冴え冴えとして冷たさを感じさせるときもある。
同じはずなのに違う印象を生じさせる金の髪は、それでもよく馴染んだ柔らかさや指に掛かる具合だとかは同じで、ふっと心が落ち着いたのが解った。眼よりも多くの感覚器官で黄瀬の変わらない部分を確かめて安堵し、触れる首筋の熱さに大型犬を抱き締めている気分になる。その気の緩みを、黄瀬が見逃すはずがなかった。
アンダーシャツごとシャツを捲られ、急に冷えた外気に晒され粟立った肌を掠めた指先よりも、肌の上を擽る吐息に躰が震えた。直接、肌に触れた息、舌先より軽い、一瞬で掻き消える呼気の熱は、しかし久しく他人の熱に触れていなかった身には十分だった。たった一息分の熱、それだけで腹の底に沈んでいた火種がぼっと熾きる。
「――っ黄瀬」
生まれた熱に身を竦ませた笠松に構うことなく、黄瀬は笠松の腰に片方の手を回すと尻から腿までを線を確かめるようにそうと撫ぜた。
その探るような指先に、解すような掌に込められた意志に気付かないはずがなかった。困惑に揺れた腰をぐいと引き寄せられ、片足が黄瀬の腿に乗り上げる形になると、完全に黄瀬の領域に取り込まれてしまったような気分になった。滲む熱に慌てて黄瀬から躰を離そうと肩を押したが、押せば押した分だけ拘束の力は強くなった。
「黄瀬、待て、き……っ」
「センパイ、オレがどこのゴム使ってるかとか、知りませんよね?」
遮る声より、そのあからさまな内容に言葉をなくす。
「……今、確かめません?」
「おま、どこの親父……っ」
スマートには程遠い露骨な誘い文句に顔に血が上った笠松は、条件反射で握った拳を黄瀬の肩に振り下ろす。丁度厚い筋肉の部分にぶつかりさしてダメージが与えられなかったが、黄瀬の指の動きが止まった。
僅かに緩くなった腕の拘束に少しだけ緊張の糸も緩んだが、それもまた黄瀬の掌の内。「センパイ、」と呼ぶ声に視線を下げた先、小首を傾げ、縋るような上目遣いで見つめてくる様は犬そのもので。
「――駄目?」
そんなことを、甘えた声で言うものだから。
駄目じゃない、と言いそうになった笠松は寸でのところで我に返った。首を左右に振りながら全力で否定する。
「っ駄目だ、黄瀬、今は駄目だ、だからまた、また今度、」
こんな寒いところで、部活の後に更に躰を酷使するような真似をさせるわけには――するわけにはいかない。だけど、それこそ黄瀬の部屋なら、と最大限の譲歩を含ませた言葉に返ってきたのは、予想外に切羽詰まった声だった。
「――どうして、また今度なんて言えるんスか?」
「……え?」
「オレだって、センパイと二人っきりにもなれない間、また明日、また今度って思ってて、でも無理で。でもまた、って思ってるときに、センパイが深夜にこそこそゴム見てたとか聞いて。……また、なんて結局先延ばしの一言だったんだって。もう取り返しつかなくなっちゃったんだって思って。――センパイ、」
腰に回された腕に込められる力が、ぐっと強くなる。だがそれよりも強く露わにされたのは、笠松を求める心だった。
「無理っスよ。また今度なんて、無理。今したい。今、ちゃんと」
今でなければ、と繰り返す黄瀬は、ともすれば兎に角躰を繋げたいだけのようにも思えたが、笠松は黄瀬にそれを言わせたものに、心臓がぐっと引き絞られたのが解った。
餌を求めて咽喉を掻き毟り、苦しみながらそれでも口を開閉させる、瀕死間際の獣の様に似て酷く切実な欲求。食べたい、というそれだけ。口に物を入れ咀嚼し嚥下し、消化して栄養を搾り取って排泄する、自らの体内に取り込むその過程。
裏には種の保存だとか生存欲求だとか、より根本的なものがあることくらい笠松にも解る。だから本来、同性の笠松に求めても意味のないことなのだ。
だから、今の黄瀬のこれは躰の欲求以上に、彼の心の欲求なのだ。裏も表も策略も偽りも真実すらない、唯一つの事実としての欲求。
笠松が欲しいのだ、と。
心のどこかに冷えた部分を持ち続ける男の、焼くような言葉の激しさに、抵抗する力が抜けていく。
「……センパイ」
自身の肩に掛かる指の力が弱まったのを感じ取り、黄瀬は指を更に奥に潜り込ませようと、止めていた動きを再開しようとした。ズボンの内側、直接触れた肌はもうずっと触れたくて仕方がなかったもので、それだけで自分の熱が一段と高くなったのが解った。
「センパイ」
語尾が熱で掠れる。もう言葉など必要なく、後は躰で、行動で示せば十分――むしろそれでしか伝えられないものの方が大きかった。
躰の奥深く、黄瀬以外を知らないだろうそこに指をそろりと這わすと、肩に掛かったままの指が震えた。
「――笠松センパイ?」
目線だけ上げた黄瀬は、そのとき自分の語尾が高くなったことに後から気付いた。最後の一押し、もう逃げることは叶わないのだと笠松に知らしめるように甘く呼んだ名、縋り絡め取るような眼に返されたのは、しかし酷く静かな声だった。
「――――やっぱり駄目だ、黄瀬」
だから離してくれ、と。
先までの感情の起伏を一切感じさせない、波一つ立っていない凪いだ海のように静かに、しかしはっきりと笠松は言った。肩にかけていた指をすとんと落とし、黄瀬の視線を受け止めた笠松のその眼差しに、固唾を呑んだ。
「黄瀬」
ひたひた、と。抑揚を欠いた声に反して、溢れそうなほどの色を湛えた黒がそこにあった。
ひたひた、と。まるで夜の海だ、と思った。夜の色を飲み込んで暗く黒く、深く広く、一度足を踏み入れれば最後、冷たい触手に足首を掴まれて腰にしがみ付かれて口を塞がれ、二度と戻って来れないような、ただただ畏怖だけを覚える果てのない海。
「ここじゃ、駄目なんだ」
その眼に滔々と湛えられた感情を、黄瀬は知っている。否、感情ではない。これはもっとはっきりした輪郭を持っている。もっとしっかりした要求、欲求を持っている。この眼を黄瀬は知っている。
だってこれは、
「オレが止まんなくなっから、駄目なんだ」
自分と同じ眼だった。


(20101207/0109)