ビハイン・ロックドアーズ
03
主将としての一日の最後の仕事、部誌にかりかりとペンを走らせていた笠松は、ふっと顔を上げ横に向けた。
「……いつまでいるつもりだよ、お前」
「センパイが部誌を書き終わるまでっスね」
笠松の使う書き物用の机と同じ並びにある、窓の下の壁に寄せて据えられたベンチに座り、携帯電話を弄っていた黄瀬は目線だけ上げて答えた。
「着替え終わってんだろ。さっさと帰れや」
今は窓を閉め切っているとはいえ、外の冷気がガラス越しに侵入してくることは避けられない。一括管理されている暖房もこの時間には切られてしまっており、部室にいればいるだけ躰も冷え込んでくる。体調管理の面からも、長居は無用の場所の場所だった。久し振りに黄瀬と二人きりでいるということ以上に、笠松は黄瀬の体調が気になった。
この後輩はただでさえ忙しない日々を送っているのだから、休める時間は最大限休むべきだと笠松は考えていた。だから今こうして部室で携帯電話を弄っているくらいならば、さっさと帰宅すればいい。ここ数日は特に、部活の後も仕事が入っているというので校門にまでマネージャーという人が車で迎えに来てすらいた。幾ら何でも躰を酷使し過ぎだろう、と一言言いたかったのを、しかし笠松はずっと我慢していた。――黄瀬はそこまで子どもではないことを、そうではなくなったことを誰よりも知っていたし、解っていたからだ。
「――帰って欲しいって言うなら帰りますけど、でも」
センパイ、オレに言うことあるでしょう。
そういう笠松の心中とは裏腹に、黄瀬はカシャ、と携帯電話を納めるとなおざりに制服のズボンのポケットに突っ込む。それだけにもかかわらず、笠松は空気が変わったのを肌で感じる。光の弱くなっている蛍光灯がじじっと揺らめいて、もう直ぐ変え時かと頭の隅で考えた。
「センパイ」
今度は顔ごと上げて、黄瀬は笠松を見た。射抜くよりも射殺すような視線に、ぴりと首筋が緊張した。
「……別に、今この場で言わなきゃいけないことなんか一つもねぇよ」
「センパイになくても、オレには言ってもらいたいことあるんスよ。言い訳して欲しいこと、でもいいスけど」
「――まぁ、確かに一つ、あるっちゃあるけどな」
黄瀬が先程の話題を蒸し返そうとしているのは解ったため、敢えて話を切り上げようとした笠松だったが、後輩の癇に障る横柄な態度にペンを置いて部誌を閉じた。椅子を引き、黄瀬を真正面に見据える。
「誰が『嘘吐き』だとコラ? 随分舐めた口利いてくれるじゃねぇか一年坊主が」
沸々煮え立ち始めた怒りをぐっと胃の底で堪え、睨み据えた先の男は無表情。それに面食らい、続けようとした言葉を飲み込んだ。
黄瀬の、飽きることなく愛を紡ぐ唇も、その唇以上に雄弁な眼も、存外求めるものに対して臆病な指も。全てが今この場で何も語ることはなかった。黄瀬の全部から何も読み取れず、一瞬どこを見ればいいのか視線が惑う。唇も、眼も、指も何も語ることはない。平素彩り豊かな表情を乗せる顔が全く色をなくしている様に、怒りとも焦りともつかない何かがぞわりと心臓を撫ぜた。
(……何だよ、本当)
詰まった言葉が咽喉に絡み、口腔内が乾いていくのを感じる。掻き集めた唾を飲み込んでも、一層緊張を感じただけだった。
笠松が沈黙すれば、そこには重苦しい空気だけが澱んでいく。その空気を吸うことが躊躇われて、呼吸が浅くなった自分に笠松は気付いていた。吸えば吸うだけ言いたかったはずの言葉が躰の奥に追いやられ沈んでいき、二度とそれを話せなくなるような気がした。だから、呼吸がまた浅くなる。先とは違って、酸素を求める金魚そのもので口をはくはくと開閉させる。血が、下がっていく感覚すら覚えた。
黄瀬の沈黙、それだけなのに口も手も足も出なくなる。そういう滑稽な自身を、しかし相変わらず表情なく見るこの状況を打破する一言も一撃も出ない。笠松は黄瀬に完全に呑まれていた。肌を撫ぜる冷気は部屋の寒さの所為だけではなかった。
「……黙っちゃうのは、ズルいっスよ」
漸く口を開いた黄瀬は、責める以上に一抹の寂しさが混じった声で笠松を見た。瞬きの後に表れた眼は柔く緩んでいて、それは笠松が知るいつもの黄瀬を彷彿させた。
「センパイ、ホントずるい」
重ねられた言葉は更に弱く柔く笠松を責め、それでいてどこか縋るような色合いを帯びていた。弱々しい光に舐められた琥珀は泣き出す寸前のようにも見えた。普段明るく煌く黄色が今は褪せて灰みがかっているからだ、と気付いたが、それを蛍光灯の所為にはできなかった。そうと伏せられた眼が語りたかったことを知ることも、できなかった。
笠松には黄瀬がどうしてそんな風に自分を見たのかが解らない。解らないから戸惑いがそのまま顔に表れてしまって、今自分はとても情けない顔をしているんだろうと思った。怒り狂う獣の眼差しで睨み据えてきたかと思えばただ能面を着けたかのように表情を見せず、そして今は泣きそうな気配すら醸し出す黄瀬を前に、笠松はどうすればいいのか解らないのだ。
この激しい感情の変遷に着いていけず、笠松の内心は困惑一色になる。癇癪を起こした子どもの心を理解することができない大人の気持ちで途方にくれた。
(何、何でこいつ、こんな寂しそうな顔するわけ?)
伏せられた眼は何を憂いているのか、笠松には尚も解らないままだったが、しかしだからといってこのままでいることも埒が明かない。
「……センパイ?」
丸くなった眼は不意を突かれたからか。普段だったら野性の獣さながら近付く人の気配を敏感に察する男は、完全に今気を抜いていた。
ベンチに座る黄瀬の足の間に立て膝を突き、仰ぐようにしてその顔を正面に捉える。右手をそっと頬に添えると、汗も引いてひんやりとしていた。この寒い部室にいれば、当然だった。
主将としての条件反射でだから早く帰れって言ったんだ、と言いたくなったのをぐっと堪えて、笠松は自分の体温を分け与えるように両の頬を挟み込んだ。咄嗟に逃げるように後ろに引かれた頭を、ぐっと押さえる。ここで逃がすわけにはいかなかった。
「あのさ、もう解んねーから聞いちまうけど。――お前何で怒ってんだ?」
オレはお前に何かしちまったのか、と問えば、黄瀬は涙が零れていないというだけで、もうほとんど泣いている顔で笠松を見つめた。
何を突然こいつはこんなに不安がっているのだろう。笠松は訝しく思いながら、頬を撫で上げた両の掌でそのまま頭を撫ぜた。笠松はしょっちゅうこうして黄瀬の頭を撫ぜる癖があり、今のもまた癖で、日々の流れの中の自然な動作の一つとして、してしまっていた。それだけだった。
それだけなのに、黄瀬は今度こそ零れそうになった涙を閉じ込めるようにぎゅっと眼を瞑った。震える唇が紡いだセンパイ酷いっス、という一言の語尾は、間違いなく涙で滲んでいた。
「黄瀬……?」
(何だよ、だから、何でそんな風に泣くんだよお前)
塗れた眦を拭おうとした手は、しかし黄瀬に掴まれてしまった。黄瀬、という何度めか解らない呼びかけは、最早応えを乞うような響きすら伴い始めていることに、笠松は気付いていた。楽に聞き出そうと思えば、いつものように鉄拳制裁という実力行使に出ればいい話だった。
だが、それをしなかったのは黄瀬が、――黄瀬が、本当に傷付いているように、感じられたからだった。
その状態のまま、どれくらい時間が経過したのだろう。……だって、と黄瀬が小さく小さく呟いた。
「……だって、センパイ、だって、」
他に付き合ってる女の人、いるんでしょ?
「――――は、」
い?と疑問符付きの最後まで音にすることができなかった。は、と吐き出した言葉さえ、呼吸に偶然音がのっかってしまった結果に過ぎなかった。
(何、こいつ、何言ってんの?)
笠松の困惑をよそに、一言吐き出してしまったらもう抑えが効かなくなってしまったのだろう。堰を切ったようにという言葉そのままに、黄瀬は止まらなくなった。
「ゴム見てたってことは、そういうの使う相手が他にいるからでしょ? オレ相手には絶対そんなの必要ないじゃないスか。だったら他にいるからじゃないスか、も、――もしかした、ら、女の人じゃなくて、男なのかもしれねぇ、け」
最後まで言わせなかった。振り下ろした拳は過たず黄瀬の脳天を直撃した。
「――――っ」
声もなく悶絶した黄瀬だけでなく、加減を考えなかった所為で、笠松自身への跳ね返りも大きかった。拳から腕へ、皮膚と肉の間を駆け上がった震えの後に残ったのは、手の側面に残ったじんじんとした熱を伴う痛みだった。だが、それ以上に痛かったのは頭だった。
(この駄犬はぁああ!!)
勝手に話を捏造してくれた件に関しても言いたいことは山ほどあったが、それ以上に情けない気持ちで一杯になった。
(何一人で勝手に盛り上がって盛り下がってんだよ!)
自分の気持ちを置き去りにして突っ走る黄瀬の幼稚さを笑い飛ばしてやる余裕が、今の笠松にはなかった。溢れた黄瀬の言葉に溺れる寸前、笠松も一杯一杯になる。
「――っきなり、何で殴るんスか!」
眦に涙を浮かべながら文句を言ってきた黄瀬に被せて、うるせぇと怒鳴り返す。笠松だって泣きたい気分だったのだ。
「お前がとんちんかんな飛躍した論理で人責めるからだろうが! どうしたらそんな風になるんだよ、お前被害妄想力豊かすぎだろ!」
「い、言うに事欠いて被害妄想力って、何スか! だって、最近ちっとも二人きりなんてなかったし、そしたらコンビニでゴム見てたとか聞いて、――やっぱり女の人の方がいいのかなって、そう思っちゃうでしょ!? センパイだって男なんだし!」
負けじと頬を紅潮させて返してくる黄瀬はすっかり子どもで、その子ども相手に普段ならば働く大人の理性というやつを笠松は完全に脱落させていた。更に声を張り上げて応対する。
「お前と付き合ってるのにどうしてだからそうなるんだ! オレどんだけお前に信用されてねぇんだよ、少なくともオレは別れ話を切り出した覚えは一切ねぇよ!」
「オレだって切り出した覚えないスよ!! 切り出された覚えもないから、だから浮気されたって、そう考えることのどこが飛躍してんスか!?」
「オレが使うやつじゃねぇよ! ってかお前の台詞全面的にオレが言うべきだろうが!!」
「……へ?」
「やっぱり女の方が、す、するときとか気持ちいいんじゃねーのかなとか、どう足掻いたってオレ、男だし、躰硬いし」
「何バカなこと言ってんスか! オレ毎回毎回気持ちよすぎて抑えるの大変なんスから、もう、センパイ許してくれるんなら抜かずに何度でも――って、いや、その、センパイ、あの、」
オレが使う奴じゃないって、どういう意味っスか。
恋人の恥知らずな吐露に拳を固めた笠松より一足早く、落ち着きを取り戻したその恋人からの指摘に、笠松は自分が墓穴を掘ったことに気付いた。固めた拳が凍り付く。
「……え、っと」
ここまできてもまだ笠松には抵抗があった。誤解というのも烏滸がましい、馬鹿馬鹿しい勘違いを正したいのなら、この流れで噂の真相を白状するのが賢明だろう。
だがどうしても躊躇してしまうのは、実際の場面が連想されざるを得なくて、そのときの自身のいいように翻弄される様に大声を上げてのた打ち回りたくなるからだ。
(――ってだから思い出すなオレぇえええ!!)
内での羞恥で百面相になりかけた己を、ぐっと奥歯を噛み締めて耐える。兎にも角にも後一押しが笠松には必要だった。できれば前向きな、一押しが。
だが、笠松のそういう懊悩は呆気なく雲散霧消した。
「――も、しかして、浮気相手の男のため」
「そこまで考えついてまだ疑うんかお前は! ちげぇよ、お前用だバカ!!」
黄瀬という男を笠松はどうも勘違いしていたらしい。どうしてこうも一人で逆走ができるのだろう。
道を間違えたことに気付かずに走り続けるマラソン選手を見る気持ちで――予想外に悲観的な方向に走りがちなその思考を断つように吼えた笠松は、ここでもう一気に打って出ることにした。胸倉を掴み殴りかかる勢いで怒鳴る。
「いいか黄瀬、耳の穴かっぽじってよく聞けよ!? あれはお前のだっての!! それ以外の利用法考えてねぇってのこの馬鹿! 阿呆!! 駄犬!!!」
「――はい?」
「だから、お前が、――お前に、いっつも負担掛けっぱなしじゃねーか! するときは大体お前ん家だし、シーツとかそういう洗濯とか、後あの油みたいなのとか、ご――ゴム、とか!! そういうの、全部お前負担なのおかしーんじゃねぇかって思ったんだよっ。ンでゴムくらいならどこにでも売ってるしオレでも買えるだろって思ったんだよ馬鹿! 阿呆!! 駄犬!!!」
恥ずかしさを誤魔化すために語尾がワンセットで罵倒する言葉になってしまう。そもそもこれは部室でする話なの
かと冷静な自分が斜め上の辺りから突っ込みをする声が聞こえたが、それに答える前に黄瀬が次の口火を切った。