ネオテニーW
03
笠松が来るときまできちんと眼を覚ましていたかった。けれどもやはり疲労が溜まっていて、何とかしなければ、と思ったとき、ここ最近朝の眠気覚ましにコーヒーを飲んでいることを思い出した。苦いのが苦手なので、牛乳で九対一程度に割り、それでも本当にお猪口一杯程度も飲んでいなかったのだけれど、これはたくさん飲まなければならない、と思って、牛乳で割ることをせずに、ちびちびと一杯辺りの量は変えずに回数を多くして飲んで暫くしたら、いつの間にか眠っていた。
文字通り雑炊を掻き込んだ後、腹ごなしの麦茶を啜りながらの黄瀬の話を要約するとこのようなもので、笠松はまず突っ込んだ。
「……お前、いくらコーヒーは苦いって認識あっても、あれは苦過ぎるだろうがよ……」
苦手だからと避けていたのは解るが、だからといってコーヒーに対しての認識を無駄に悪化させているのはどうかと思う。あれは最早コーヒーではない。コーヒーを超えた何かだった。笠松はじんわり舌の上に甦りかけた味を咽喉の奥に流し込むべく、麦茶を呷った。
「――まぁ、原因解ればいいや。お前、取り敢えずあのコーヒー原液をもっと薄めろ。絶対あれ今のままで飲むなよ」
「へ、原因って?」
同じように麦茶を片手に持っていた黄瀬がきょとんと何を言っているのか解らないという顔をしたので、だから、今日のお前の変な言動の原因だよ。言い募った。
「お前、要はあれだ、やっぱり酔ったんだよ」
「酔ったって……コーヒーにっスか? え、でもそんなの聞いたことないッスよ?」
「オレだってねぇよ」
間髪入れずに返した言葉に下唇を突き出した黄瀬は、意味解んねぇスと納得のいってない顔をした。それは当然だろうと思ったので笠松も指導の一打はやめた。麦茶で咽喉を潤すと同時に、思考の方も冷やしていく。吐いた息は存外深く、視線は床に置いたコーヒーの入っているペットボトルに向かった。
黒というよりは、とても濃い茶色のそれに、宇宙はカフェオレの色で、深海はコーヒーの色だと聞いたことを笠松は思い出す。混沌と未知の世界が、今透明な密閉空間の中にあるものと同じ色をしているとはにわかに信じられない。けれども、この焦茶の液体が恐らく今回の混沌の原因なのだ。
コーヒーで酔うなんてあり得るのかと笠松自身思わないでもない。黄瀬という色々とあり得ないキセキを目の当たりにしている日々を過ごしていても、やはりコーヒー酔いは判断に困った。これが頭痛がするとか、吐き気がするといった不快を伴う症状だったのならば、コーヒーが原因だの一言で済ませられたと思う。そういう話は聞いたことがあるからだ。
だが先の黄瀬のあれは、むしろほろ酔い状態に近かった。思い出して、眼がすぅと細くなる。熱くなった躰に、浮揚した思考、剥き出しの欲求。定まらない視線に滲んだ黒の瞳。些細な事柄に対しての過剰な反応。生まれたて、純真無垢そのものの獣は、それ故に恐ろしかった。何も知らない――恐怖すら知らない故に恐怖そのもので、何をされるのか皆目検討付かずに笠松はそれの心を恐れた。一体笠松をどうしたいのか、考えることが恐ろしかった。
――その今日の黄瀬、と平素の黄瀬、の違いをできる限り拾い出した結果が、コーヒーの摂取の如何ならば、たとえ間違っていたとしても一つの決着をそこに見出したかった。無理矢理なのは承知の上で、コーヒーの所為にしなければならなかった。行為の理由を捉えあぐねた一方で、それの端っこでも良い、何かしらを掴まなければ笠松は今後この部屋で、黄瀬と二人きりの空間で、落ち着くことなどできそうになかった。
そう、再びあの黄瀬と対面するなど、到底できそうになかった。考えたくもなかった、と言った方がより適切だった。次にあの状態の黄瀬と向かい合ったとき、そのとき笠松は全部を食われるに違いなかった。確信だった。食われるだけ、貪られるだけの、餌になる違いなかった。
初めて黄瀬とした日、あの日も食われた。だが、笠松は食べられただけではない。笠松もまた食べたのだ。あの美しい獣の肉を食み、白肌に傷を創り、互いに互いを暴いて貪り合った。一番柔らかな部分に鼻先を突っ込み、その熱さに目眩を起こしながら、相手だけを欲しがった。
その無垢な欲にすら、言葉があった。それなのに、先の黄瀬にはそれがなかった。何もかもが通じずに、唯笠松を欲しがる心のままに行動していた。笠松の心など構うことなく、自身の心をそのまま行動に移すだけの黄瀬が怖かった。実のところ、笠松の本心はそれだけだった。怖かったのだ、黄瀬が。
ぽたり、グラスが流した汗が卓上に落ち、跳ねた。音もないそれは、しかし確かに笠松を我に返らせた。暫し放心していたことに気付き、慌てて過ぎた時間を取り戻すように呷った麦茶が食道から胃に落ちていく流れを、冷たさの跡を辿ることで知る。ことり置いたグラスには、もう麦茶は残っておらず、ペットボトルに手を伸ばしかけて再び気付く。
それまでの流れに、黄瀬が一切口を挟んでこないことを笠松は怪訝に思い、黄瀬、と疑問符を付けて顔を上げると、それこそ苦虫を噛み潰したかのような顔で自分を見ていて、視線が合った瞬間にへらりと申し訳なさそうに眉尻が垂れた。
「…………うん。そう、すね。今度から気をつけるっス。――ごめんね、センパイ?」
怖い思い、させたんでしょう?
伸ばされた指に頬を優しく撫ぜられて、親指の腹でくいと下の眼の縁、眦までを辿られる。確かめるように何度か往復した指は舌先よりもずっと軽く、皮膚一枚の下にあるはずの肉の厚みを感じさせない、羽根でなぞるような触れ方――それをさせた黄瀬の心に、笠松の波立つ心はそうと凪いだ。
「まだ、ちょっと赤いスよね、瞼の方も……」
そっと生まれたてのものを扱う慎重さで人差し指が触れたのは、起き抜け直後で酔いの真っ最中だったときに舐められていた場所だった。薄く視界に靄がかかり、晴れる。テーブルを挟んで向かい側の黄瀬は、再度ごめんね、と口にした。離れていく指に寂しくなった。
「……別に、そんな大袈裟なことでもなかったしな」
だから謝らなくていい、と言外に告げて顔をふいと背ける。寂しいって、何だよ。そう自問自答すれば、直ぐに答えは返ってくる。だって、こいつはまた手を伸ばしあぐねている。まだ、触れていいかどうか迷っている。
「センパイは優し過ぎるっスよ。……あんまり、優し過ぎると、オレなんてバカなんスから直ぐに調子に乗りますよ?」
黄瀬の方が困ったように笑い、逃げるように、これ片してきちゃいますねと中腰になって盆を卓上に置き、空けられたものを乗せていく。ぞんざいに動く手は、恐れていないからだ。笠松の前の椀と箸に伸びた手につぅ、と触れた。
触れた一点だけでも解る肌理細やかな肌は滑らかで、白磁を思わせる。大人の肌と子どもの肌、男の肌と女の肌。それくらいの違いしか解らず、正直今でもそうだったが、この男のだけは特別だった。ひたりと自分の肌とくっつくあの癒着感が欲しくなって、ぐっと手首を掴んだ。掌に感じるのは、やはり特別。
「……センパイ?」
首を傾げ、そっと盆から手を離す。笠松センパイ、という再びの声に続いたのは、頭を撫でる優しい掌だった。捕まれている反対で、労ろうとしている。怖くさせた分、優しくしようとしている。あぁ、こいつはまた大人の振りをしている。
「……遠慮してんなよ、馬鹿なんだろ」
甘えろよ。掴んだ手首を持ち上げて、緩く開いた手、人差し指の先を口の中にゆるり誘い込んだ。ぴくと引っ込められる前に更に強い拘束の力で身動き取れなくしてしまう。目線を下げてすらりと長い指を見る。熱い口咥内にある異物に舌を絡め、熱を少しずつ移していく。ちろりと舌先で指の腹を擽って、はねた指を今度は舌全体で包んでしまう。舌触りの良い肌は濡れてしっとりと落ち着いていくが、つるりとした爪の部分だけは口の中に馴染みにくい。けれども、それすらも溶かすように今度は執拗に先端だけを舐る。センパイ、黄瀬の声に混じる戸惑いは黙殺する。
そうやっていくら温度を分け与えて同じになっても、あの癒着感とは到底比べようもなかった。隙間なく貼り合わせた皮膚と皮膚の境が溶けて、感じられるのは芯の部分だけで、二つあるはずの躰も意識も、全てが一瞬だけなくなる。全部、なくなる。あの瞬間。外が内に、内が外に、収斂と拡散が同時に起きているようなあの瞬間の、心臓までべったりと貼り合わせ癒着させたような、自分が消える感覚には、程遠かった。
人差し指は人体で一番敏感な部分だったっけ。そんなことを笠松は黄瀬の指を根本まで含みながら思う。一番感じやすく、反応する、受け身の部分。外のものを確かめようとするときに、真っ先に触れる場所。人差し指で安全を確かめて、徐々に緊張を解いていく。
そう考えていくと、黄瀬は笠松に対して恐れを抱いていないのだ。指は既に溶けかけている。だから、この指を躊躇わせるのはその心だった。指も、肌も、心臓も、全部が一つになることを知っているのに、いつだってこの心だけが遠慮する。否、怖がっている。――この後に及んで、何を恐れて怖がっているのか。
「――ねぇ、センパイ、」
誘ってるんスか? 耐えきれなくなったのかと思いきや、存外冷静な声に、笠松はどうだかな、と嘯いた。
「いくらこっちが誘っても、誘われてくれなきゃ意味ないだろ?」
指を含んだまま喋る所為でがじがじと噛むことになっても、黄瀬は変わらずに笠松の好きにさせていた。獣の仔のじゃれるような甘噛みと思っているわけでもないだろうに、返ってこない期待を捨て切ることはできずに、わざと音を立ててしゃぶる。粘着質な水音がやけに大きく耳に響き、くっと全身が緊張した。そのとき、ふっと空気が緩む気配がした。
「……睫、震えてるっスよ」
くいと口の中の指が曲げられて、舌を強く押された拍子に緩んだ唇にもう一本、親指が突っ込まれた。
「――ぅっ」
舌の腹を強く挟まれ、反射で引っ込めようと躰ごと後退る。その動きに合わせて、ずいと膝を進めた黄瀬に肩を押されベッドの側面に縫い止められた。
「――何でまた、いきなりその気になったんスか。珍しい」
指を引き抜き、覆い被さってきた黄瀬のもう片方の手は、既にその気になっている。シャツの内側にそうと忍び込んだ掌に脇腹から肋骨までを撫で上げられて、笠松は色付いた息を細く吐いた。
「……お前が、馬鹿だからだろ、バカ」
「理由になってないっスよそれ。それだったら、毎日ヤらしてくれてもいいじゃないスか」
「……馬鹿だってところを否定しろよ」
シャツをたくし上げられながら、先に馬鹿なんだから遠慮するなと言ったことを思い出した。その結果がこれならば、馬鹿の部分を否定できるはずもない。外気に曝された胸元に顔を埋められる。軽く息を吹きかけられぴくりと反応した胸の突起を、自身が濡らした指で摘まれて腰が跳ねた。
「……遠慮すんなって、言ってましたよね」
見上げる顔には殊勝さの欠片もなく、拒絶されることを寸毫も考えていないその傲慢に、笠松の口の端はゆっくり持ち上げられた。このくらいの衒いのない率直さが、この男には似合う。半端に大人の振りをするよりも余程、笠松の気に入る姿だった。けして純真でも無垢でもない、情けない部分も、下らない見栄も、強がろうとする滑稽さも丸抱えにして、その上で自分を欲しがるこの男を、笠松も欲してやまなかった。拒絶されるかもしれない、嫌だと言われるかもしれないことを怖がり恐れるばかりの子どもが開き直った様にも似た、この男の不器用で極端な欲しがり方が愛しかった。
「――――安心しろよ」
頭をぐしゃっと撫で回す。さらさらと絹のように指に流れる髪の毛を一房掴み、ぐっと引っ張った。……センパイ、爛々と輝く眼がぎらりと光を返した。癇に障ったのか、それとも煽られたと感じたか。正直どちらでも良かった。黄瀬、と呼んだ自分の声に滲んだ欲に、どうしようもないなと笠松は内心自嘲し、諦める。食べたばかりなのに、と頭の端で思ったことはそのまま膨れ上がる欲で外に押し出された。
「遠慮されるような、柔な作りしてるわけでもねぇしな」
さっさと、来い。背を丸め、ぐいと上半身を黄瀬に被せる。
「センパ、」
こういうことは先手を打つに限る。まずは大きく開いた口で、最後の一音も一緒くたに黄瀬の薄くて柔い唇を食べた。
neoteny : 幼形成熟;幼形進化の一つ