黒子のバスケ

ネオテニーW

01

ごめんなさいと繰り返す。ごめんなさい、ごめんなさい。図体は通常の人間よりも大きい、けれども小さく丸まって縮こまるその姿は、まるきり子どもだった。
長い手足をぎゅっと折り畳み、膝を抱え背を丸め、この空間における自身の体積を最小限にしたがっている黄瀬を前にして、おかしい、笠松はそう思った。違和感を覚えた、と言った方が正しいかもしれない。
確かに謝り癖がついている男で、蹴ればスミマセン殴ればスミマセン、怒るよりも前に謝るくらいだから、根の部分で人が好いのだろう。楽観的というか、物事を深く考え過ぎないと言うか、良くも悪くも素直な性格だった。――だが、今までこんな不安定さを露呈することはなかった。
「大丈夫だから、もう横になれ。一回ちゃんと眠れば、すっきりすんだろ」
ゆっくりと頭を抱き、背中に回した腕で少しだけ強く黄瀬を抱き締めてやる。近くなった肌の熱さに、これはもう躰の方が眠りたがっている、ということを笠松は改めて感じた。元々色が薄い所為もあるが、黄瀬の項や耳がほんのり朱を帯びている。そういえばこいつは皮膚も薄いから、一層白肌に朱が映えるんだった、とつられるように思い出す。
――もしかして風邪なのか、と先にベッドに引き摺り込まれた際に触れた額は、さほど熱を持ってはいなかった。病気ではないようならば、笠松がこの場に留まる理由というのはなかった。このまま静かに寝かせておいてやればいいだけの話だ。――だが。
「お前がまた起きてくるくらいまでならいてやるから」
ぎゅうと膝を抱いて顔を上げようとしない黄瀬は、しかし笠松の言葉に微かに身じろいだ。自らの腕の檻の中から漸く顔を覗かせた。
「……ホント、ですか」
「嘘吐いてどうすんだ」
肩口にかかる息の弱さに、思わず苦笑してしまう。何でこんなに弱々しい、生まれたての雛鳥のようになってるんだか。黄瀬が顔を上げた所為で、柔らかな金糸が耳朶を擽って仕方がない。そういえばこの色は、ひよこのそれにとてもよく似ている。指通りの良い髪の毛を遊ぶように梳いてやりながら、笠松は安心させるように黄瀬に返してやる。
「風邪ってわけでもなさそうだから移る心配もねぇしな。……あぁ、でもお前ちょっと腹に何か入れてから寝るか? その様子だとずっと何も食ってないだろうし」
待ち合わせ、もとい黄瀬の家に到着したのが十一時五分前、それから何だかんだで昼を回って一時近くなっていた。この状態の黄瀬を外に連れ出すことは考えられないから、何かまともな食材はあるかと尋ねると、多分あるっスという何とも頼りない答えが返ってきた。
「最近、外で済ませてたから……」
自炊する余裕もないくらいに忙しかったことを笠松は全く知らなかった。一から十まで全てを把握したいとは到底思わないが、今日のようなことがあると心配にもなる。親元から離れて暮らしている黄瀬に半ば無理矢理に渡された合鍵の意味を、もう少し真面目に考えなければならなかった、と笠松は後悔した。きっと黄瀬は単純に恋人に渡した気でいるのだろうが、渡された笠松にとってはそればかりではない。
気分は完全に親のそれで、躰を離し、目線を黄瀬と合わせる。目許も若干赤みがかっていて、こちらのはおそらく恥ずかしさからくる紅潮なのだろうと見当をつける。
「あー、それじゃ、ちょっと勝手に漁るぞ? ついでに悪ぃけど自分の分も作らせてもらうから」
「……スミマセ、ん」
「よりも礼の方がオレは嬉しい」
どうせなら謝る姿よりも喜ぶ姿を見たい、と思うのは何も自分ばかりではないと笠松は思う。真ん丸く開かれた眼は笠松の好む蜜の色で、中心の黒が普段よりも大きくなっている。その境界線は明瞭、くっきりと分かれていて、もうまともになっている。笠松は内心ほっとした。
「――ありがとうございます、センパイ」
泣く前のようにくしゃり黄瀬が顔を歪めた。笑いたいのか泣きたいのか判然としない部分はあったが、黄瀬がそう言ったことに取り敢えず満足して、笠松はあったかくして寝てろ。言い置いて部屋を後にした。





ベッドの上に引っ張り込まれる前、覚悟を決めたとはいえ恐る恐る開いた眼に映ったのは、笠松の確信に反して尚も溶けた蜜に浮かぶ、滲んだ大きな黒の瞳だった。ぎらぎらと瞳孔が開き切っていて、思わず何をそんなに興奮しているんだと口を開いた。
『何かお前、おかしいんじゃねぇのか』
『おかしくなんかないよ。だって綺麗だから、うれしいだけ』
綺麗に弧を描く唇は赤く、笑う様は無邪気であると同時に妖しさに満ちていた。感情を読ませない笑みの裏側に隠されているものが、躊躇いを含まない鋭利な刃であることを笠松は頭よりも先に躰で解った。
普段の黄瀬からは到底想像できない微笑に、くらり、と下腹から胸元までを鋭く研がれた爪で一直線に裂かれるような錯覚を覚えた。いくら鍛えているとはいえ、一切骨に守られていない腹を、柔らかな内臓を収めているそこを淀みなく切り開かれ晒される感覚に、全身が粟立った。
こいつは、何だ。その怯んだ隙を突かれ、笠松は呆気なくベッドの上に引き上げられ、そのまま仰向けに組み敷かれた。
――ねぇ、どうしてなめてないのにぬれてるの。
耳を擽る声の甘さに腰の部分が溶けそうになる。敢えてのその言葉の選び方だったのか、無意識だったのか、どちらにせよ多分に色を含んだ声は、ねぇどうして。聞きたがり知りたがりの子どものように重ねてきて、再び眼を食われるように舐められて。
まさか、このままする気なんじゃないだろうか。よぎった不安を打ち消すことなど到底できるはずもなく、黄瀬、声を上擦らせた。
『きせ』
黄瀬と何度も躰を重ねた。だから今更、抵抗する理由もなかった。笠松から誘うこともあった。好きな相手と触れ合えることを、それで満たされ、満たすことを知っていた。躰だけでなく、言葉でも重なり合うことを知っていた。距離を一つずつ少しずつ埋めて、縮めて、二つを一つにするその過程の方が笠松には気持ち良いものだった。
――けれども、こんな風に、言葉が通じないような相手とどうして重なり合えるのだろう。言葉が遠く、近付いてもなお擦れ違い、距離は変わらず存在していた。躰の近さを感じる以上に、黄瀬が遠くて怖くて声が震えた。
『きせ、』
すぅと顔が首根に埋められる。青のリングピアスがひやり頤に触れる、その近さに心臓が冷える。躰にぐっと重みがかかる。背中に腕を回される。慣れ親しんだはずの重みと近さに、声が詰まる。まるで鉛に押し潰されているかのような圧迫感に、強張った腕をぎりぎり音を立てて持ち上げ、黄瀬の肩に指を掛けた。
『……っ黄瀬』
ゆっくり躰をずらし、己の顔の真横、見目整った顔を真正面に捉える。
『き、せ――……?』
頬に触れたのはさらと流れる呼気、眼が捉えたのは影ができるくらいに長い睫。溶けた蜜が流れ出ないようきっちり覆っている柔らかく盛り上がる瞼。
黄瀬はすぅすぅと規則正しい寝息を立て始めていた。





「――ったく、何だってんだよ」
愚痴混じりの溜息を零しながら、手際よく野菜を刻んでいく。何を作れるかと冷蔵庫にあった食材を一通り見て、笠松は雑炊を作ることにした。体調が悪いのか否かは別にしても、躰が驚かないようなものの方がいいだろうと考え、かつ笠松でも作れそうなものというと雑炊辺りが妥当だった。
ラップに包んであった白飯はまだ固くなる前で、異臭もしない。自炊していなかったと言うほどではないようで、黄瀬はその見た目から想像される性格に反して、実に生真面目な部分を持ち合わせている男でもあった。バスケットの選手としても、モデルとしても、食事に気を配ることはマイナスではない。レパートリーで言えば、おそらく黄瀬の方が余程料理のできる男だった。
それでも料理を作ってやると言った手前、取り敢えず麺つゆだの出汁だのを適当に入れて沸騰させ、火の通りにくい野菜から電子レンジで軽く温めた白飯までを順繰りに鍋に放り込んでいく。後は蓋をして十数分待ちの体勢だ。
森山に言わせれば、笠松の調理方法は見事なまでに「一人暮らしの男の料理」らしい。なまじ手際が良いため、できあがる極普通の料理に若干詐欺にあったような気分になるとまで言われたことがあったのを思い出す。そのときは勝手なことを言うなと一喝したが、これを機会にもう少しレパートリーを増やしてみようかと思案し始めたとき、咽喉の奥が渇いていることに気付いた。
「……何か飲み物でももらうか」
黄瀬の家に来てから何も口にしていない。うっかり黄瀬に抱き枕にされてしまい、完全にタイミングを失った所為でもあった。先に食材を確認した際に、ペットボトルの飲料が何種類かあったのを見た。相変わらずミネラルウォーターも購入しているようだったが、その中にラベルも何も貼っていないものが一本あったのを思い出す。黄瀬の家にあることを考えると、それは幾分珍しいものだった。
どうせならあれを飲んでみよう、と冷蔵庫を開けて件のものを手に取る。笠松用として置かれて久しい黒のコップを足下の引き棚から出す。最初この場所が解らずに何度か臑をぶつけて悶絶したこともあったのだが、慣れとは恐ろしいもんだな。内心独り言ちる。
――コップに半分ほど注いだそれを一口飲んだ直後、笠松は激しく咳き込んだ。たった一口で舌を痺れさせた強烈な刺激、頭の裏側にまで一直線に突き抜けた電気に似た何かは、後頭部辺りでぶわりと破裂して脳内に満遍なく広がった。眼の裏側がちかちか点滅し、涙腺がじわり満たされて、頬の辺りに急速に熱が溜まるのを感じた。
自分は一体何を飲んだのか。それを正しく理解したときに、今日の黄瀬の不可解な行動の原因も朧げながらに見えた。


(20100721)