黒子のバスケ

ネオテニーW

02

割合手狭とはいえ、高校生の一人暮らしのくせに1DKの必要性が一体あるのかと、初めてこの家に来たときに笠松は思った。今でも思う。新築ではないというが、オートロックの時点でご近所付き合いの希薄さにまで思考を及ばしてしまう辺り、自分は一昔前の人間に近かった。それは黄瀬がモデルという職業の人間であっても同じこと。
いっそ六畳一間の共同便所で風呂は銭湯で済ませろと黄瀬に肩パンをくれてやると、どうにもこれでもモデル業界とやらでは控え目な方らしい。六畳一間に住む人間もいることはいるようだが、それが好きだからの暮らしらしく、笠松の思うところとはまた違った。
『――でも、環境的に厳しいっスけど、多分オレ皆と暮らすってのは好きなんスよ』
一人暮らしって実はあんまり好きじゃないんス。そんな言葉が笠松には聞こえた。――独りでいるのは、あんまり好きじゃないんス。言葉にされなかった言葉を感じた。
にへらっと炭酸の抜けたソーダのような、どうにも気の抜けた笑みに滲んでいるのは、寂しいことを知っていて隠そうとする、大人として振る舞おうとする子どもの意地のようなもので、こいつ馬鹿だな。笠松はそのとき改めて、黄瀬の何にも包まれていない核の部分を垣間見た。馬鹿だなぁ、こいつ。
試合中に誰の手の届かないところにまで軽々到達してみせる姿の一方で、彼自身の手はいつだって誰かに触れようと揺れていた。触れ方を知らないわけではないはずなのに、本当は触れられたい相手に、それが叶わないなら自分から触れようと手を伸ばすことが酷く不得手な男だった。
大丈夫だと胸を張りながら後ろに回された手の指先はもじもじと落ち着きない。誰かと絡めたい指を、己の指と絡めることで誤魔化そうとする。不安定なまま、成長してきた年下の男。――そんな風に見栄を張られて、気付かない振りをしてやった方がいいときと、そうでないときがあるのを笠松は知っていた。
見栄を張らなければやっていられないときが多々あることを、同じ男だ、知っていた。武士なんてものでなくても、空かした腹で高楊枝を銜えるのが恰好良いとか思ってしまうのだ。――いつもだったら鼻で笑い飛ばすことも多いそういう馬鹿馬鹿しい見栄が、可愛くいじらしいものに思えてしまった辺り、笠松も黄瀬と同じくらいに馬鹿になっていることを改めて感じた。オレ、相当馬鹿になってっかも。漏れた溜息は軽かった。
『――黄瀬』
だからこのとき、笠松は躊躇いなく後者を選んだ。笠松からその薄くて柔らかな唇に触れたのはこのときが初めてだった。そう記憶している。驚く黄瀬の指先が自分の肩辺りを撫でて、触れたいのか突き放したいのか、その半端さに自分から躰を押し付けた。固い胸と胸を突き合わせて、広い背中に腕を回して強く抱き締めて、滑らかな首筋に触れた耳で、どくんどくんと脈打つ血を感じた。少しずつ大きく、速くなっていく音に薄く笑みが浮かぶのが解った。
『センパイ』
そのときになって、漸く自分の背中を恐る恐る抱いてきた黄瀬に、お前、そんなんでいいのか。煽るように仰ぎ見て笑ったのを覚えている。
『オレは結構、欲深なんだ』
今度は尖らせた舌を、固まった恋人の口元を溶かすようにくるりと一周這わせた。舌も軟らかいが、唇というのはそれ以上に柔らかく、薄いながらにふっくりとした感触の唇の奥に、経験の浅い不器用な舌をそろり差し込んでみたとき、いきなり視界が反転した。
『――スミマセン、けど、センパイ』
オレの方が、比べらんないくらいに欲深で、ワガママなんスよ。背景に天井、部屋の灯りに陰になった顔、けれどその眼は先までにはなかった火を点していた。いつも蕩けている蜜の甘さはすっかり影を潜め、欲に濡れて光る金の眼は、まるでライオンのような傲慢さと獰猛さに満ちていた。飢えを満たそうとする獣そのままで、柄にもなく食べられる、と思った。抱かれるでも襲われるでもなく、骨の一片、髄の一滴も残さず食べられる。そう思って震えた。恐怖を感じ、恐怖以上に興奮し、躰は震えた。――自分もまた、この男を肉の一片、血の一滴も残さず食べ尽くすのだと思って、震えた。爛々と、骨の髄から煮立たせるような熱を持って光る金の眼に、尾てい骨の辺りから頭の天辺までを震えが突き抜けた。
先程までの子どもは何処に行ったのか、自分を押し倒した男は、先に濡らされた跡を辿るようにちろり舌舐め擦りをした。その熱い赤に、舌ってこんなに赤かったっけ。まるで血そのもののように赤い内臓に笠松は、眼も、その先の思考も掬われて奪われた。
『センパイ』
言葉を知っているだけで、その本質はさながら獣。人の眼を奪うだけでなく、心も言葉も奪う、欲に無垢な美しい獣。そういう生き物に、その日笠松は全部を食われた。





「――寝てなかったのか」
適当に盛りつけた雑炊を二膳、盆に乗せて寝室に入ると、上体を壁にもたれさせて黄瀬は起きていた。おそらく、ずっと入り口の方を見ていたのだろう、笠松が部屋の扉を開けた途端に、センパイ、と喜色の滲んだ声を上げた。
「黄瀬、お前」
ひょこんと旋毛辺りから立っている髪の毛に、親鳥の帰還を察知する雛鳥のセンサーか何かみたいだと思って笑ってしまう。普段癖の一つもなくさらりと流れる髪を知っているだけに、この寝癖姿は貴重だった。部活内では駄犬扱いされることも多くなってきている黄瀬だが、やはり血統の良さだけは折り紙付きだった。ともすれば冷めた感じすら与える外見の端正さは、主にその言動によって粉々にされた。
こりゃ携帯電話で写真を撮っておきてぇくらいだな。そう思ったのは、何でもかんでも写真に残しておきたい親馬鹿の心境に近かった。言動ではなく、その外見が少しでも崩れている事実に、どうしても愛嬌しか感じない。目許口元が緩むのは仕方がなかった。
すると、黄瀬は何を勘違いしたのか、柳眉をきゅっと歪ませ小さく唸った。
「……センパイ、オレ、まだどっかおかしいスか……?」
「はぁ? 何でンなこと聞くんだよ」
ローテーブルに雑炊をよそった椀と箸、それから一応好みも考慮しての調味料各種を適当に配置して、それからペットボトルを二本隅に置く。盆を床に置いてベッドの上の男を見やると、白肌をほんのり朱に染め、日本人男子の平均をはるかに超える図体の雛鳥、もとい、黄瀬はすぅと眼を伏せた。よく見ると、瞼も淡く色づいている。
「だって……」
あんな風に笑うことなんて、あんまないじゃないっスか。
「――は?」
あーもー、無自覚のなのが本当タチ悪ぃすよね! と赤くなった頬を両手で覆い、不満げに唇を尖らせてこちらを軽く睨んできた彼が、実際は照れているだけなのだ、ということに気付いて笠松はにやりと左の広角を持ち上げた。
「……今度は、何スか。その笑いは」
「いーやー、別にー? 唯、今日の黄瀬君は随分可愛らしいなぁと思ってなー?」
「なっ」
予想外の言葉だったのだろう、二の句を接げずに口を半端な形に開いて固まったのは、仮にも二冊目の写真集を出したというそれなりの人気モデルで、それがまたおかしくて笠松は吹き出した。
「――っな、何なんスか、もう!」
「イヤ、悪ぃな。ちょっと、面白くて」
「つ、次は面白いって……!?」
「まぁ落ち着けよ。飯、食おうぜ」
黄瀬の反論をお茶漬けのようにさらさらと流し、黄瀬を手招く。むぅと不満気な顔のまま、それでも聞き分けよくベッドから降りると、笠松の隣にちょこんとさも当然のように座った。そればかりではなくずいずいと躰を寄せてくる黄瀬に、笠松は横を向いて制止をかけた。
「……いや、ちょっと、離れろよ?」
拒絶ではなかったのであくまで優しく、すっとその肩を押すと、ことり首を傾げて黄瀬は笠松センパイ? 問うてきた。
「どうしたんスか?」
「いやいや、おかしいだろこの密着感。向かい合って食おうぜ、何でこんな隣同士でぎゅうぎゅうになって食おうとして……」
そこで笠松はそうか、と先程気付いたことを思い出し言葉尻を濁した。途中で切られた言葉に、普段の黄瀬ならば喰い付いてくるだろうにそれもなく、行儀の良い子どもの顔で大人しく笠松を待つ。
向かい合えるくらいにはこの部屋もローテーブルも面積がある。わざわざ図体のでかい男二人が隣り合う必要性は皆無であることは、火を見るより明らかだったのだが、今の黄瀬にはそういうことは関係ないのだろう。その笠松の予想が正しいとすれば、今の黄瀬には直接的な言動は禁物だった。だが、このまま甘やかしてしまうのも流されているような気がして抵抗があった。どちらにせよ黄瀬は、今は何でも丸ごと飲み込む雛なのだから。くるり丸くした眼を瞬かせて、笠松センパイ、と聞いてくる眼の幼さにそうだ、と思い付く。
「黄瀬、お前さっきから何にも飲んでないよな」
ペットボトルの一本を取ると、黄瀬の前に寄せたグラスにほんの少しだけ注ぐ。あっという間に鼻腔がきついにおいで満たされ、つんと脳にまで沁みたが、先に飲んでいたこともあり顔をしかめることはなかった。舐めるという言葉が適当な、極微量のそれを持って口元にまで持っていってやる。
「ほら」
笠松に促された黄瀬は、グラスを受け取るとすんとにおいを嗅いだ。ひくり鼻の頭が動き、途端に眉間に深い皺が刻まれる。不安を一杯に湛えた眼に見つめられ、笠松は苦笑を一つ零した。素直に飲んでくれるかと思ったが、どうにも本能の部分が剥き出しになっているきらいがある。外れた思惑を胸にしまい、笠松はさくっと思考を切り替える。
「やっぱ、こっちのにすっか」
もう一本持ってきておいたペットボトルに手を伸ばそうとすると、……大丈夫ス。黄瀬が口を開いた。あ、と思う間もなくぐいとグラスを傾けて一気に咽喉に流し込んだ黄瀬は、直後噎せた。
「――っ……ぅっ!!!!」
「おま、何故に一気飲み……!?」
涙で眼の縁を一杯にしてごほごほと咳き込む黄瀬の背中を擦ってやる。空いた片手でもう一本のペットボトルの口を器用に開けると、それをそのまま黄瀬の口に押し当てる。
「オラ、口の中これでさっぱりさせろ」
「うぅ……っだ、いじょーぶ、す……」
「いやいや、何その無駄な見栄は。飲めよ、お前苦いの苦手なんだろうが」
「それも、そうなんすけど……眼、覚めました」
「――頭も覚めてくれてりゃいいんだけどな」
こめかみを親指で揉みながら、いや本当、覚めたんで大丈夫っス。涙目の情けない顔で笑う黄瀬に、あぁ漸くいつもの黄瀬になった、と笠松は安堵した。人差し指の背で零れそうになった涙を拭ってやる。
「……センパイ?」
ぱちくりと笠松を見た眼には、普段ならパンチの一つくらいきてもおかしくない状況なのに、と不思議に思っているのがそのまま現れていた。瞬いた所為でぽろりと落ちそうになった涙を反射でまた掬ってしまい、それを誤魔化す代わりに、泣くなよ馬鹿とつい乱暴な言葉になった。あのなぁ、黄瀬。言い聞かせるべく、黄瀬の濡れた眼を真っ直ぐに捉えた。
「そんなに苦手なら、何で作っておくんだよ。ブラックのコーヒーなんざ」
しかも、明らかに限度を超えた苦みじゃねぇか。渋い顔を殊更意識して作ってみせると、黄瀬は困ったような笑みで返してきた。コト、と空のグラスを置くのを視線だけで追い、よくもまぁ一気飲みするな、あれを。呆れ半分で視線を戻した。
「……センパイ、も、飲んだんスか」
「おーおー、うっかりな。余りの苦さに噎せたわこの野郎」
コーヒーは砂糖入りでも無糖でも飲める笠松だったが、このコーヒーは論外だった。もし粘度というもので苦みを測定できるのならば、このコーヒーは間違いなくどろどろと評されるレベルだろう。固めの水溶き片栗粉レベルといっても良いかもしれない。咽喉を指す棘と頭の真後ろまで突き抜ける硬さは非常に冴えたそれだったが、未だ首根辺りに留まる苦みの残滓は、澱みを伴って下へ下へと落ちている最中だった。
「まぁ、後はあれだ、飯食いながら聞く、――から、取り敢えずまず離れろ」
「えぇ、いいじゃないっスかこんく……っスミマセン離れます!」
背中を擦ってやっていたのが裏目に出かけ、ペットボトルを頭の上で傾けようとした笠松の本気に黄瀬が飛び退く。もーと可愛くない拗ね方をしながらごそそと膝を摺って向かいに座った黄瀬は、つと卓上の料理――とは言っても雑炊しかなかったが――に眼を止めると、へにゃっと相好を崩した。
「――……」
短い間ではあったが、その一連をつぶさに見た笠松は、崩れるという言葉を表情の変化に初めて用いた人間を凄いと思った。崩れる、のだ。顔の筋肉がゆるり弛緩して、意識して作れない顔になる。無意識に作られてしまう表情に、柄にもなく胸の奥が疼いた。――こんな幸せだけの顔を見せられたら、こちらにまで幸せが感染してしまう。
気恥ずかしくなって顔を背けた笠松の耳に、ふふっと零れた笑みが落ちてきた。
「センパイの手料理……へへ、何か新婚さんみ……いや、ちゃんともう眼覚めてるんで、だから胡椒の蓋開けないで、オレに向けないで!」
「覚めてる方が余計始末に負えねぇんだよボケ!! 黙って掻き込め! その後ワケを聞くかんな!」
「え、さっきは飯食いながらって……」
「揚げ足取んな、生意気によぉ!?」
食材を無碍にすることは笠松の信条に反していたので、テーブルの下からの攻撃を選ぶ。裏切られた気分の分、何割か増しで臑を踵でごんと突くように蹴ると、ひぎゃっと情けない声があがった。
「……っもう、センパイ容赦の欠片もないっスよ……」
白々しくぐすんと鼻を啜るモデルに、お前モデルでも俳優にはなれねぇよな、演技力ないしそもそも台詞覚えられねぇ馬鹿だし。辛辣な言葉を矢継ぎ早に放つと、一層酷い演技でだうだうと泣き出した。目許に手を当ててぐずり始める様は図体に見合わない、まるきり子どもだった。
「センパイがーぁ、いじめるーぅ!!」
「ガキみてぇなこと抜かすな馬鹿野郎! 食え、さっさと食え!!」
「ううう、関白亭主じゃないスかまるで……あ、でもベッ……本気でスマッセン本当スミマセンだから殺さないでオレのむす……っ」
最後まで言わせるはずがなかった。伸ばした足の親指人差し指でぎゅううと脹脛を――当初はそれこそ黄瀬の股間を狙っていたのだが、流石にやめた――容赦なく抓る。声のない悲鳴を上げた黄瀬を尻目に、笠松は手を合わせていただきますと頭を下げて一人先に食べ始めた。


(20100726)