字
名前は何かと問われれば、「御形」と答えられるものはあった。
当然の如くそれは本当の名前などではなく仮初のものではあったが、日々暮らしていく中で名前がなければ困る事もあったので、取り立てて不満もなく彼は「御形」でいた。
物心ついた時には既に「御形」であり、「御形」以外の名を持たずに。
最初は音だけの「ゴギョウ」、そして字と共に役目を与えられ「御形」になり。
その一連の流れに欠片の違和感も抱かぬままに、「蛇合眼」を持つ「白爪の御形」として、組織が動く為の部品の一つとして存在していた。
欠けたら暫くの間は困る、しかし、直ぐに替えの利く部品の一つとして。
組織は必ずしも精密機械の様なものではなく、螺子の一つの損傷くらいで揺らぎはしないと知っていた。
だから彼は「御形」だったのだ。
全てに不満を抱く事のないようにと、固く密閉された世界の中で。
彼は取り敢えずは「御形」以外の何者でもなかった。
なのに、どうしてだろう。
唯一人だけ、「御形」を唯一の存在の名として呼ぶ男が存在し。
呼ばれる度に「御形」の名に執着してしまいそうになる自分に酷く呆れては懼れるばかりなのだ。
「御形」が「御形」として、自分の躰に滲みこみ、時には擦り付けられる様にして。
「自分の名」を呼ばれる心地の良さに、自分を「御形」にしてしまいそうになり、片足爪先で滲みこんだ其処に触れた瞬間に走る絶望に恐れ戦き、どうしようもなくなって突きつけられた現実に唯泣きたくなる。
――自分は決して「御形」では在り得ないのだと。
解ってはいる。
それでも。
「御形」と。
その声で呼ばれてしまえば、彼は「御形」でしかなかった。
執着してしまう自分を哂っては棄て切れない。
いつかは捨てなければならない、次の「ゴギョウ」に引き継がれ、奪い去られるだろう名なのに。