クロザクロ

傷が欲しいからつけろ、と御形は言った。

「何を言い出すんだ、お前は」
蘇芳に借りている離れの一室、九蓋と御形は二人きりだった。
「傷だよ、傷。切り傷なんかは直ぐに消えちゃうからさ、出来れば言葉攻め希望で」
何でもござれでどうぞー。大した事のない様な口調で、とんでもない言葉を言い放った御形に、九蓋はこれ以上ないくらいに眉間に皺を寄せ不快感を露わにした。
「お前、これ以上莫迦になってどうするんだ」
「安心して、お前より莫迦にはどう足掻いたってならないし、なれないから」
「そういう事じゃなくてだな……!!!!!」
九蓋の長引くだろう説教、それを説く口をすかさず手で塞ぐ。そのまま顔を寄せ、九蓋の右の眼の上、瞼を走る傷口に舌を這わせた。引き攣った皮膚は、その部分だけ薄く赤みが増し。初めて出会った時からある、その傷。
「傷、っていうのが、俺は欲しいんだ」
欲しいんだよ、九蓋。
繰り返し呟く御形の、その首に巻かれた白い包帯。その内側には恐らくもう傷がないのだと知れた。
「……そんなに、傷がある事が重要なのか」
お前にとって。問えば、「当たらずとも遠からず、」 御形は九蓋と視線を合わせ答えた。
「たとえばさぁ、初めて北極に到達した人間って言うのは、母国の旗とかを立てるだろ?」
ここに初めて到達したのは自分達です、ってな感じでさ。
「そういうの」
独占というか、占有というか。ごろりと、柔らかな髪を頬を首筋に摺り寄せられ、九蓋は擽るその細い髪を優しく梳いた。時折、御形が九蓋にする猫の様なその振る舞いは、恐らくは何の他意もなく。そうして九蓋自身の行為にも、その後の言葉にも何の他意もなかった。
「……もしかしてその傷は、俺以外の人間にはつけられたくない、と言うのか」
俺に、つけて欲しい、と。
自分の腕の中にある躰の動きが、止まり。
「――っ、何をするんだお前はいきなり!!!」
不意打ち。左の耳、上部を齧られ、全身が跳ねた。
「お前、ホント莫迦。莫迦過ぎて涙出てくる」
莫迦莫迦大莫迦大莫迦九蓋め。直接鼓膜を震わせる至近距離でのその罵倒に、九蓋は御形の頭をがし、両手で挟むと眼の前に合わせた。
「何だその子供並の言い草は!」
きっと睨み据えながらの九蓋の言葉に、頭を固定されたまま御形は片頬を膨らませた。
「だって莫迦じゃないかお前」
今のお前の言葉ってさ、妊娠した奥さんに「それは俺の子供か」って聞く最低夫と同じだよ。
「そういうたとえは止めろ! お前はどうして」
「でも、」
俺はお前のその莫迦さが好きなんだ。
――唐突な告白に、九蓋は言おうとしていた言葉を見失った。
「だから、お前に傷をつけて欲しいんだ」
解れよ、と。そのまま視線を逸らされ、九蓋が御形の頭を掴んでいた手を緩めれば、投げ出された躰。白い布に巻かれたその躰には、九蓋の躰にある様な傷は一つも見当たらず。自分より遥かに多くの死線を潜ってきただろう男の「綺麗な」躰が語る今現在の彼の状態は、決して望ましいものではなかった。
「九蓋、」
俺の躰の傷なんてすぐ消える。心につけられた傷だってすぐ忘れる。そんなの一々覚えてなんかいられないし。でも、多分お前は、
「――お前は、俺に傷をつけた事を絶対に忘れないだろ?」
何せ大莫迦だからねー。最後の言葉にだけ、僅かに笑いを含ませて俯き、御形は包帯をぐるぐるに巻かれた九蓋の腹の辺り――自分が過去につけてしまった傷の場所をかり、と尖らせた爪で引っ掻いた。瞬間のぴり、っとした引き攣る感覚。既に慣れたと九蓋自身は思っていたのにも拘らず、それは微かな痛みを伴って腹部に散った。
「――俺も、お前につけたこの傷だけは忘れられなかったから」
俺もお前ほどじゃないけど、莫迦って事だ。
お前の莫迦菌がうつったんだ。言いながら九蓋のその古傷の辺りを、親指の腹でなぞっては反す爪で裂く様に撫で上げる。そればかりを暫し続けた後に、
傷、――つけてくれるだろ?
短く放られたその言葉は、懇願めいた口調でも命令口調でもなく、寧ろ何かを――九蓋の拒絶の言葉を恐れ、それでも気付かれまいと強がって見せている様でもあり。見える細い項は唯白く。傷一つなく。
――外に傷はなくとも、その内は、恐らく。
「……」
九蓋は、何一つ言わず、御形の躰を片腕で抱き締めた。傷つける言葉も癒す言葉も、語る言葉を何も持っていなかった。言おうと思えば言えた言葉すら、どうしてだか飲み込んでしまった。
唯、傷つけた苦味で御形の事を覚えておくくらいなら、抱きしめた苦味で彼の事を覚えていたかった。


九御:躰に傷が欲しいのではなく