滲む深紅、霞む真意
貴方の式に、と口にした言葉は自分でも驚くほど平坦で、抑揚の無いものだった。誰かに言わされているかのような無感情の声は自身の耳にも確かに届いていたので、眼の前の背中にもきっと届いていただろう。微動だにしないその背中にも。
空は太陽が溶けて赤く滲んでいて、彼の色素の薄い肌や髪も同じように赤く染められていた。血のように赤い、そんな物騒な事を思う。血に染められているように、赤い。血の赤は見慣れている赤だった。そんな過去を思い、あぁ本当に大きくなった。男の背中を見つめた。
自分より広い背中には見覚えなかったが、つぅと彼の項に現れた影には見覚えがあった。ちろちろり、忙しなく動き回るヤモリの黒は、赤の肌によく映えた。肢体を尻尾を左右に振って、ふと何を思ったのか、彼はくるりと男の首に巻きついた。まるでその首を縊り、落とすかのように。
――あ、
思い手を伸ばしかけたが密やかな暗殺者はするり彼女の指先から逃れた。その代わりかさついた指先が一瞬だけ捉えたのは温い人肌。滑らかに動く指に掴まれたのは己の冷えた手首。
「……いきなり、首に手をやるのかい」
淡々とした声に、女は違うのだと言いたかったがそれは言わせてもらえなかった。自分を見下ろす眼は自分以上に感情を映していなくて、この視線は何なのだろう。まるで彼女が彼の命を狙う者であるかのように断じる、この容赦のなさは何だろう。掴まれた手首は、しかしそれだけで、その気になればこの間に彼は自分を祓う事も出来るだろうにどうしてこんな風に問いかけてくるのだろう。しゅるり、藍が滲み始めた視界の端で影が揺れた。
そもそも影が己の尾を食むには幾分か長さが足りなかった、それの鼻先と尾の先の間には微妙に距離が空いていた。その事に漸く思い至って、女は俯いて小さく、申し訳ありません、口にした。
「貴方の首に、……影が」
影が。その先は彼女の早とちりもいいところだったから、口を閉じた。貴方の首に影が巻きついて、貴方を。
貴方の首を落とさんとしているかのように、見えたのです。
それは彼ではなく彼女自身の昔だ。遠い昔、でもあり今先刻までの彼女自身の姿だ。彼は何者にも束縛されていない身だと言うのに、何を錯覚してしまったのだろう。沈黙を言葉の代わりにした。
……お前の名は。頭上に唐突に降ってきた声に、咄嗟には反応できなかった。お前の名は、何と言うんだ。それは間違いなく男の声だった。上げた視線の先には、男の能面のような無表情。手首の拘束を静かに解かれた。
「……名は、」
私に名は、ありません。答えた声は語尾が擦れて、その理由を自身でも解っていた。
「――名がないのか。忘れたのか、それとも、」
私に教えたくないのか。
最後の言葉だけは否定しなければならなかった。だから解りません、あったのかもしれない、けれども解らないのです。忘れていたとしても、その事すら忘れているのです。矢継ぎ早に口にした。だから恐らく――ないのです。私に名は、ないのです。言い切った直後に、あぁ駄目だ、思った。駄目だ、私は、駄目だ。頭を垂れた。
自分は彼が手にするべき名がないほど落ちてしまった妖で、彼の式になったところで一体どれだけ役立てるというのか。彼が、名取が自分に使役する価値を見出すというのか。女は自身の思考が辿り着いた泥底に身を沈めた。こんな妖を、己の名も知らない妖を、どうして彼が使役してくれるだろう。
――ひいらぎ。
再び、降ってきた言葉にすぐに顔を上げる事は出来なかった。名が無いのだろう、なら、お前の名を私が与える、お前はその名の分だけ、仕えてくれればいい。それで契約とする。――それで、いいか、柊。
男の言葉を最後まで一語一句漏らさず聞き取って、口の中で反復した柊という言葉。それは咀嚼にも似て、彼女は幾度も幾度もひいらぎという音を言葉を噛んでは飲み込み、反芻して、それを繰り返した。
ひいらぎ、ヒイラギ、柊、――柊。
――それで、いいな。自分を見下ろしていた視線は尚鋭く。ゆっくり、それと自身の視線を交わらせた。妖の姿を見る事の出来る眼。妖の声を聞く事の出来る耳。妖と話す事の出来る口。妖の躰に触れる事の出来る手。言い換えればそれは、妖を睥睨する事の出来る眼で、妖の悲鳴を聞く事の出来る耳で妖を嘲笑う事の出来る口で、妖を祓う事の出来る手、で。彼は彼女の存在を認める事が出来る故に否定出来る者。ちろり、頬を這う影が揺れた。――主様、とお呼びすれば良いのでしょうか。
「……好きに呼んでくれて構わない」
それだけを口にして歩き出した名取の背中は、暗紅の空の色をそのまま映していて、それは何処か死人の色に似ていた。落とされた首から噴き出し、そして黒ずんだ血の色のように見えた。――彼は死人か。否。彼は妖か。否。では彼は何だ。彼は、私にとって何だ。
「――主様、」
柊と名づけられたばかりの女は二三歩離れ彼の跡を辿った。
名取と柊:「名も知らない」