夏目友人帳

秘色を縁取る雫がぽたり

夏目、夏目と声がして誰だろうその声は誰だろうこの声は。たゆたう那由汰の時間の中で世界の縁取りが柔らかく現の葦が萌えている。一体何だろう。髪の先に触れるものを感じてでも実際髪の毛になんか神経は通っていない。髪の毛、根元、そこに通じて初めて触れられている事を知る。夏目。誰だろうと思ってだれだと言葉にしたはずの一語は多分夢の中の一語だった。これは現ではない。言うならばうつつ。夢でもなく現でもなく、うつつというその狭間、その世界。
夏目、優しく熟れていく声は優しく髪に触れ耳に触れ額に触れた。熟れていくのは濡れていく様に似ている。その躰は内部にでっぽりと栄養価の高い液体を溜めていく。糖分の高い液体、果汁。声は全身余すところなく濡らして、滲み込んで、溜まって。躰を濡らす果汁は荷重となって段々この身をうつつから現に沈めていく。落ちていく。堕ちていく。――堕ちる。


「――なつめ、」
顔を上げれば眼の前で田沼が苦笑いを浮かべながら、寝るなよ、まだ課題一つだって終わってないのに。ひらひらとプリントを翳した。「それとも大人しく課題追加の道を進むのか?」
そうだった、この課題を仕上げて提出しなければ更なる課題が待っている。だから古文の得意だという田沼に教えてもらうべく、彼の家にまで来たというのに。彼が飲み物を新しく取りに行ってくれているその僅かな時間に眠ってしまっていたらしい。
眠気を振り払うように頭を振って、ごめん田沼、折角教えてもらってるっていうのに。まぁお前も疲れてるんだろうからさ、無理はするなよ。ほらこれと言いながら差し出されたコップには麦茶。このまま持ってきたのだろう。有難う、言いながら伸ばした指先はコップを持った田沼の指を掠めた。――そういえば田沼、お前おれの髪に触ったりした?
「いや、してないけど、……何で?」
逆に問われて、誰かに確かに髪の毛を触れられていた気がするんだ、そう言えばいいだけではあったが、田沼ではないとするとその誰かは存在しないか、もしくは存在はするけれども、逆接で続くそういう存在かもしれない事を思って、いいや、気の所為だったみたいだ。手渡されたコップを机の上にことん、置いて夏目は小さく笑った。
「――何でもない、ごめん」
触れた田沼の指先が思っていたほど冷たくなかったのに気付いていた。


田沼と夏目:「やさしい嘘」

(20080903)