セント・エルモの火を奪った兎
いまいち乗り気じゃないにも拘らず誘われれば思わず一呼吸置いてからじゃないと憎まれ口の一つも叩けやしない。
「それじゃ、センセーも頑張ってねー!」
「こら浜田、教師に向かってその言葉遣いは何だ!!」
仮にも元担任なんだぞ!! 校庭に響く野球部の掛け声に覆い被さる様に聞こえた、懐かしい自分の元担任でもある教師の怒鳴り声に、既に背を向け帰りかけていた泉は躰を反転し「すみません、こいつどこまでもバカなんです」、強引に浜田の頭を押さえつけそのまま下げさせた。普段自分より高い位置にある頭が同じ目線になり、柔らかな髪が肌にあたった。染められた薄い色の髪は、初夏の風にそよいでは泉の頬を擽った。
「イテっ、痛ぇよ泉!! 髪の毛引っ張ってる引っ張ってる!!」
「あぁ、泉もソイツの事宜しく頼むぞ。10年ぶりの留年の知らせを聞いた時泣けたからな……」
「オレもクラスに元先輩がいた時は泣けました……」
訴えを全て無視され、元担任と元後輩の間に生まれた――実際それは在学時からあったものだが、また新たに再確認されたもので――「浜田は莫迦」という共通認識を見、「そりゃないよセンセー……」、およよ泣く真似と共に溜息を吐いた。いつものような軽口めいた口調、変わらない口調――中学の時、と。頭を押さえ込んでいた手を放し一歩、後ろに下がる。背を伸ばした浜田は頭半分ほど高く少しだけ背が伸びたように感じたものの、それでも実際は変わっていないのかもしれないとも思った。
先輩として、エースとして見ていた背中は、いつだって遠かった。
「――浜田もいいな、くれぐれも泉に迷惑をかけんじゃないぞ!!」
「それって本来は俺が迷惑かけられるべき立場にある時に言う言葉だよなぁ……」
「お前より断然泉の方がしっかりしとるんだからしょうがないだろう! そんな文句垂れるくらいなら、少しは進歩せんか!!!」
至極もっともな意見に反論の余地もなく、浜田が進歩してますよぉ、ちったぁ、小さく零せば「どこかだ!」 間髪入れずに怒鳴られた。
「――あ、先生。そろそろ部活終わる時間じゃないですか?」
グラウンドに広がる茜、そこにばらばらに散っていた黒い影が列をなし、整列し出したのを見て泉は声をかけた。
「ん、あぁ、そうだな」
久々に後輩に会っていくか? 元担任でもあり、顧問でもあった教師の言葉に、泉が答えるより早く「止めときます」、浜田が苦笑いで言った。
「流石に将来ある若者に、爛れた先輩の姿を見せちゃならないでしょう」
「――」
ひゅっと、空気を切るような音の後、「そう、か、」 ぎこちないながらも笑顔を作った元顧問は、「……悪かったな」 視線を外したまま呟いた。その視線の先を追えば、浜田の右の、肘。泉は眼を逸らし、遠く後輩達の逆光で黒く見える姿を捉えた。――二年前まで、自分と浜田もあの中にいた。
「謝る事なんか何一つありませんって〜」
辛気臭い場面にする為に言ったんじゃないんすよ? 浜田が困ったように後頭部を掻きながら続けた。「あれは、オレが納得してやってたんすから」
だから何も。
そう言って再び、笑った。
「泉どうしたのさ」
無言で先を行く元後輩に声をかけるも、尽く無視をされ浜田は情けない声を出した。
「いーずーみー」
怒ってるのかよー? その言葉に泉は勢いよく振り返り、自分より背の高い浜田を睨み上げた。戸惑っているのを隠しもしない顔。口の端を僅かに上げ、苦笑いを含んだ、その顔。
――いつだって、どんなに苦しくても辛くても笑みを浮かべてしまうその顔に、無性に腹が立った。
「解ってるんだったら、話しかけるんじゃねぇよ」
「でも泉、」
何でお前が怒ってるのかは解らないもんよ。
――この時の、衝動。自分自身ですら説明できない衝動。
「――っざけんじゃねぇよ!!!」
オレはお前に解ってもらいたいなんて欠片も思っちゃいないんだよ!!!
声は擦れて、気道が狭まった、ような。咽喉が渇いていたのか、浅い息を二、三回した後、口の中の唾をかき集めて飲み込み、咽喉の奥を湿らせた。
泉が大声を張り上げた瞬間、大きく見開いた眼をゆっくりと眇め、浜田は低い声音で呼びかけた。
「――泉、」
「話しかけるなって言っただろ!」
背を向け全身で浜田を拒絶する意思を露わにし。それでも背中に浜田の声は降った。
「泉、お前」
何でそんな眼でオレを見るんだよ?
「――……っ」
ぶる、と。肩が触れたのか震えたのか自分でも解らない。
浜田に背を向けた自分は当然浜田の顔を見る事はなく。それでも少し、少しだけ首を捻って上半身を捻って振り返ればそこにあるだろう、彼の姿を想像して振り向く事はできなかった。
ただ押し黙る泉の背中が僅かに震えているのを見、浜田は小さく短く言葉を継いだ。
「――ごめんな、泉」
きっとお前はオレが思っている以上に、オレの事を解ってしまっているんだろうな。
ごめん、以外は口には出さずに。解ろうとしてくれているから解ってしまうのか、解ろうとしなくとも解ってしまうのかは判らないけれど、それでもお前は解ってしまっているんだろうな。――オレはお前の事、こんなにも全く解らないのに。
「……何で謝ってんだよ、」
何で怒ってんのか、解ってないんだろ。微かに滲む怒りに、「確かに、解らないけれどさ、」 続けて、――苦味を含んだ、高校に入ってからよく聞く笑った声で。
「お前にそんな表情させちまったからな、」
多分、お前は怒れないオレを怒って、代わりに怒ってるんだと思うから。――泣きそうな顔、して。
「別にお前にいちいち左右されてるわけじゃ、ねぇよ」
自惚れてんじゃねぇ。
届くか届かないかの毒吐かれた言葉を一字も零す事なく浜田は拾い、「そう言いなさんなよ、」 落日の中に沈む間際の背中に返した。
自分より小さな背中だった。