黒子のバスケ

ライク・ア・ヴァージン

0729(age17&19...if)

誕生日を知らない、ということに寂しさを覚えたのは初めてだった。彼の誕生日を自分は知らない。そして、どうしてだか今の今まで知ろうともしなかったのだ。それは自分の誕生日が余りに知られ過ぎていたからかもしれない。
雑誌をめくれば、インターネットに名前を打ち込めば、あっという間に出てくる自分の情報。自分ですら知らないような自分の情報が氾濫していて、最初自分の名前を好奇心で検索してみたとき、怖くなって直ぐにブラウザを閉じた。
学校で、街中で、自分を見つめる眼がそこにはあった。ずらりと並んだ自分の名前を含むコンテンツ。ホームページ、ブログ、ツイッター、あらゆるツール上に乗せられた四文字の漢字。「黄瀬涼太」への好意と悪意が綯い交ぜにされ、清濁合わさり、嘘も真も一緒くたになったものが、全ては見た側の判断に丸投げされている世界。
薄い画面の向こう側の無尽蔵の情報はさながら混沌で、画面はクリアなのに一歩踏み込めば澱みに足を取られて抜け出すのが困難な世界――そう思った。
〇と一で成り立っているだけの世界の裏に、それを成り立たせている人間の、割り切ることなどできるはずもない欲と業の深さがあって。
見えないものが見えた、と思った。自分が見せようと思っていなかったもの、見せたくなかったものすら、そこにはあった。本能的に後退り、背を向けた。その世界を知るには、まだ早過ぎたのかもしれない、と今なら思う。
それからだ。他人の情報を知ろうとすることが何故だか酷く悪いことのように感じられた。
知りたいのなら自分から聞く。それ以外の方法で彼についてを知りたくなかった。しかし、どうやって聞けばいいのかも解らなかった。
二人は恋人で、自分は彼の誕生日を、聞こうと思えば、知ろうと思えば知ることはできた。きっと今からだってメールなんなり電話なんなりで聞けば教えてくれるだろう。
それでも自分はちゃんと、相手と一緒にいるときに聞きたくて。
だって誕生日を知らない、ということに寂しさを覚えたとき。
今まで他人の誕生日なんて欠片の興味もなかったのに、そんな気持ちを抱いた自分にも驚いたが、それ以上に自分にそんな気持ちを抱かせてくれた相手の存在の大きさをまた思い知らされて。
これまで知ろうとしなかったのは、きっと彼の存在が余りに近過ぎて、そこにいることが当然で、そんな彼がいないときがあった、なんて思いもしなかったからだった。
――高校生と大学生、距離も離れて時間も合わなくなって、いないときがあると身をもって知らされてしまったからだった。
去年の夏、一緒に帰った道。一緒に迎えたインターハイ開幕式。
今年の夏、一人で帰った道。彼がいないチームで迎えた開幕式。
一年前の今頃はまだ恋心を自覚していただけで、彼と付き合うなんて考えてもなかった。彼と付き合う未来、である今を想像だにしていなかった。
そうかといって殊勝に忍ぶ恋として思うだけで終わらせる気もなかった。一度触れてしまえば、触れられない部分があると知ってしまえば、全部に触れたいと思うようになるのを抑えられなくなった。
その思いが溢れて零れてしまったのは、インターハイのあの日。準決勝敗退、全国八位という戦績は決して悪いものではなかった。それでも、望んだものではなかった。
一人になった彼が、灯りを消した控え室で何を思ったのか。バスの乗り場に現れた彼の目許が赤くなっていることを誰もが見て見ぬ振りした。自分もそうした。彼の頬を濡らしたものは既に渇いていたけれど、その一滴が自分の心の縁一杯にまで張っていた感情を溢れさせた。
好きだ、と告げたのは卒業式。
春は別れの季節で、自分と彼も別れの季節だった。卒業していく彼の背中を追って、振り向かせて、向き合って告白した。
それから四ヶ月近く経過して、昨年はちっとも興味を持たれていなかった自分の誕生日を祝ってもらって、それで一杯になってしまって。
つまり、黄瀬はまだ自分のことで手一杯になってしまう子どもだった。それに気付いたのは、自分が彼の誕生日を知らないことに気付いたときだった。
誕生日、彼が生まれた日。
恋人の誕生日を知らないなんて、あまりにも。


だから、黄瀬は笠松に聞いたのだ。
センパイって、誕生日いつなんですか。
インターハイ二日目、会場から宿へ戻る合間。観戦に来てくれた笠松を捕まえて二人きり。橙の夕陽に染まった道にぐいんと伸びる黒い影二つは付かず離れずの距離。夏の影は濃いけれど、境界線は何処かぼんやりしてもいて、熱気に滲んでこのまま夜の中に溶け込んで行くのだろう。
このままセンパイと溶け合えたら、なんて、未だに躰を繋げたことがないのにも関わらず、そしてのことをちらり頭の片隅で考えたとき。
笠松は吃驚したようにその大きな眼を更に見開かせて、それから破顔した。夕陽に照らされた顔は、子どものように、嬉しそうに楽しそうに、そしておかしそうに。
「今日、だよ」
オレの誕生日。お前、何、狙って言ったわけじゃねえだろ? ってかこんなときに何言い出すんだよ、本当解んねぇなぁ。
恋人の誕生日を、恋人の誕生日に知って、二人は並んで歩いていて。
思いも寄らない告白に一瞬呆けて、七月二十九日と口の中で転がして。
思い出したのは、二年前の、そして永遠に彼の中に残り続けるだろう出来事。
もしかしたら。
もしかしたら、彼は。
散り散りのピースが一枚の形を為す前に、口にしたのは一言。立ち止まった黄瀬につられるように、笠松も立ち止まった。向かい合わせになって、くいと顎を僅かに上げて自分を見つめる人の黒の眼は夕陽に舐められたように濡れていて、それはけして涙ではなかったのだけれど。

優勝旗、持ち帰りますから。

言い切った言葉に、虚を衝かれたように瞠目した笠松は、恐らく黄瀬が何を思ったのかを正確に理解しているはずだった。
大きな眼をその柔らかな瞼で覆い隠し、きゅっと眉根を寄せた笠松の表情は、まるで何かに耐えるかのようで、何かを堪えるかのようで、真一文字に引き結ばれた唇の頑なさは、先程の笑みの柔さをすっかりなくしていて。
黄瀬、と。
一分後か、数分後か。橙には未だ紫が混じらず、影は色濃く、しかし線は曖昧で、二人の影は離れたままで。
――待ってる。
真直ぐに射抜いてきた言葉と眼差しを、黄瀬は忘れない。


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