黒子のバスケ

幸男さんと

お気に入りの場所って言うのは誰にでもある。オレにもある。
陽当たり良好で風通しも良くて、適度にひんやりとした空間。そして何よりも一緒に幸男さんがいるところ。

街を自由に闊歩できるその度合いで言ったらどうしたって犬は猫に負ける。体格的な問題で、オレの場合更に制限がかかってしまう。
でも、幸男さんのいるところに行くのには関係ない。
コボリさんちの裏の庭から真っ直ぐに延びている畦道を五十歩くらいのところで右に曲がって、ちょっとした林の中に入り込んでいく。湧き水の所為でぬかるんだ地面に注意しながら、硬めの土の上を歩いて。

そうそう、オレの毛足は長くて、最初その場所を教えてもらったときにはしゃいだもんだから泥が跳ねて跳ねて、汚れて汚れて。
家に戻ったときにコボリさんが驚いた顔でオレを見ていた。リョウタ、沢山遊んだんだなぁ。わっしゃわっしゃオレの躰を洗ってくれた、その後。オレは幸男さんにしこたま怒られたのだ。

『コボリは練習の後で疲れてるんだぞ、余計な手間かけさすな!』

そのときもオレは渋々謝った気がする。何がいけないんだろうって。だって遊んだだけなのに。
でも幸男さんに怒られたくなくて、それ以降はきちんと泥に気をつけながら歩くようになった。だって、一緒に楽しく仲良く暮らせたらそれが一番いい。

若くて柔らかい葉っぱのトンネルをあんまり痛めないように背を屈めて通り抜ける。
幸男さんはするすると先に行ってしまうけど、オレの図体ではここを潜り抜けるって結構大変。鼻で嗅ぎ分け掻き分け、なるべく荒らすことなくそこを抜けると、ぱぁっと開けた空間になる。
人の手が入っているのか、偶然そうなったのかは解らないけれど。重なる枝葉に邪魔されることなく綺麗に真ん丸く光が射し込むその場所の中心に、一本の太く短い木が立っている。


「――幸男さん」


声を掛けると、がささっと葉っぱが擦れる音。一番陽当たりがいいだろう枝に座っている幸男さんを再度呼ぶ。幸男さん。降りてきて、幸男さん。

「……何だよ、オレは別に用事なんてねぇぞ」
「用事はこれからあるんスよ。幸男さん、話そう?」

上を向きながら話すのって結構首が疲れる。でも幸男さんが降りてきてくれるまで待つ。じっと。

「……何だよ涼太。話すことなんかねぇぞ」

たん、と降りてきた幸男さんと一緒に、はらはらと葉っぱが落ちた。はらはら、ぱらぱら。葉っぱと同じくらいの軽さ。
あぁ身軽だなぁ、オレには無理だなぁと思う。オレのこの図体じゃ、どしんずたんだ。跳んだりは得意だけど、あんまり高いところから飛び降りるとか無理だ。オレと幸男さんは、そう、やっぱり色んなところで違う。

光に薄くなった世界の中で、黒の肢体はそこだけ切り取られたみたい。
オレとは真逆の揺るぎない線を持って、幸男さんはそこに存在している。

「ねぇ、幸男さんはオレのこと甘えん坊だって思う?」
「……」

降り立った場所から動こうとしない幸男さんに近付く。逃げようという素振りはない。オレが鼻先が幸男さんの耳に触れるくらいの距離になっても、動かない。

「幸男さん」
「……実際、甘えん坊だろ。いっつもコボリに迷惑かけやがって」

ふいと逸らされた顔、ぴんと伸びた毛が顎の下を擽る。ぞわり。

「――でも、コボリさんは迷惑だなんて一回も言ったことないし、そういう態度を取ったこともないんだよ」
「だから、そんなの、コボリが優しいからってお前が甘えてるだけだろ!」
「幸男さん、あのね、オレにも解るんスよ。口に出されなくたって、自分が邪魔に思われたり、迷惑に思われてるかどうかくらい」

だって、昔オレのいた場所。
ちっちゃな女の子が目一杯オレを可愛がってくれて、女の子のママもパパも可愛がってくれたけど。ちっちゃな女の子の下に、更にちっちゃな女の子が生まれて。

オレがいると躰中真っ赤にしてしまうその子を抱き上げながら、ママがオレのことを邪魔なものを見るような眼で見るようになって。
パパはオレが悪いんじゃないって言いながら、それでもその眼がどうしようもないって諦めてて。


「――オレにも解るんだよ、自分が要らないものだって思われているかどうかくらい」


オレがいなくなることに悲しんでくれたのはたった一人。
あのちっちゃな女の子は今どうしてるだろうか。

項垂れると、幸男さんを完全に胸元に閉じ込めるみたいになってしまって。おい、涼太。ちょっと吃驚した声。いきなり何だよ、涼太。
幸男さんがオレの顎を鼻で撫でて、それからもすもすオレの胸元に頭を突っ込んで。涼太。……何スか。オレだって、解ってんだよ。

「……コボリが別に、迷惑がってるわけじゃないとか、そんなの解ってんだ」

だってコボリだぞ、と続けた言葉に妙な説得力を感じてしまうのはどうしてだろう。そう、だってコボリさんだもの。

「お前だって遊び盛りなのくらい解ってるし。でも、……お前ばっかりって、思ったら。……だから、オレの八つ当たりってだけで、だから、さ」


さっきは悪かったな、涼太。


額をぐりと押し付けられる。ぐりぐり、幸男さんが滅多に見せない仕草の一つ。
甘えるっていうのとは違う、けどとても可愛い仕草。……オレも、悪かったんスよ。

「コボリさんがごめんなってちゃんと理由話してくれたのに、我儘言っちゃったんスから」

ぐいと背を丸めて首を伸ばして、幸男さんの背中から尻尾をぺろりと舐める。ごめんなさい、幸男さん。お前は別に。ううん、オレもね、子ども子どもしちゃったもの。
幸男さんが後退って、視線を合わせてくれる。

「涼太?」
「オレもね、ちょっとずつ大人にならなきゃ」

図体ばっかり大きくなっても駄目なのだ。たとえば黒子っちみたいに、ちっちゃい躰でも凄く落ち着いていたり、緑間っちみたく躰大きいけど凄くきっちりしていたり、人間だけど――キセみたいなのでも、ちゃんと大人の部分を持っているんだから。

自分のすること弁えて、反省して、謝って、それからちゃんとどうすればいいか二人で考えようとして。


「――ね、コボリさん達がオレらが喧嘩しちゃったの心配してくれてたんスよ。一旦、一緒に家に戻ろう?」


小首を傾げて提案すると、幸男さんは返事をする前にぴょうんとオレの背中に飛び乗った。

「……うん」

ぺったり腹をオレにくっつける、いつもと同じ状態。心地良い重み。むふり鼻から抜ける息も軽い。うん、もう大丈夫。
こくり満悦して頷いたオレに、なぁ涼太。幸男さんがオレの耳に鼻の頭を潜り込ませて言った。


「――お前は要らなくなんかないからな」


「……幸男さん」

――オレがさっき、言ったこと。要らないものだって思われてたこと。

「……うん、解ってるスよ」

大丈夫、コボリさんもお母さんもお父さんも皆オレのこと、ちゃんと大事にしてくれているの、解ってる。


幸男さんも、オレのこと大事にしてくれてるって、解ってるよ。


「なら、いい」

返された言葉は少なくて、けど幸男さんのそれは素っ気無いとかそういうのじゃないのも、ちゃんとオレは解ってるから。

うん、やっぱりオレのお気に入りの場所は幸男さんがいることが第一だななんて思いながら、ゆっくりと。派手に揺らさないように足の運びに気をつけた。
幸男さんのお気に入りの場所がオレの背中だといいなぁなんて、ちょっとだけそんなことを思ってしまったのはどうしてだろう。


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