コボリさんと優しい仲間達
朝食の後、ボールをくわえてコボリさんの元に駆け寄ったオレに、コボリさんは申し訳なさそうな顔をした。
『ごめんなリョウタ、今日は皆で勉強会なんだ』
よって、オレと幸男さんは放っておかれることが決定した。
コボリさんが家に一日いるって珍しいことなのに、外に遊びに行くこともできなくてオレは残念さを隠すことができない。
「どうしても駄目なんスか?」
コボリさんを見上げて尋ねる。困った顔で、ごめんな、と返された。
『試験前でな、ここで成績落とすわけにはいかないんだ』
頭を撫でながらもやっぱりお願いは聞き入れられなくて、むすりしてしまったのがいけなかった。
「涼太、お前コボリに我儘言うな!!」
幸男さんにかぶり尻尾を噛まれて飛び上がる。痛い、痛い!!
『ちょ、ユキ!』
コボリさんが即座に幸男さんを抱え上げて離させたけど、オレの尻尾は甚大な被害を受けていた。
爪を立てられることは何度も、けれど久々に噛まれて改めて尻尾って急所だと実感した。というか、多分幸男さんも久々で加減を忘れている。恐らくこれは全力噛みだ。
普段は幸男さんには服従第一のオレも、流石にあんまりだと幸男さんに文句を言う。だって、オレはコボリさんや他の人と遊びたいだけだったのに。
「痛いっス、何で噛むんスか!! 噛まなくたっていいじゃないスか!」
「お前がいけないんだろ!」
「他にも注意の方法はあるでしょ! 幸男さんは乱暴なんスよ!!」
負けじと言い返したオレに、幸男さんはその真ん丸な眼を一度大きく見開いて。
あれ、と思ったときにはもう完全に敵を見る眼。黒の中の更に黒いドウコウが、縦に細くなっていた。
「――っこんなんで乱暴って、そんなん言うな! 甘えてんじゃねぇよ!! 温室育ちが!」
そう吐き捨てるように言って、幸男さんはばっと外に出て行ってしまったのだった。
『……コボリ、その、リョウタは大丈夫か?』
カサマツくんの心配そうな声が頭上でする。それに答えたコボリさんの声も同じく心配そうな声。
『うーん、ユキと喧嘩なんて滅多にしないからなぁ。落ち込んじゃってるな、完全に』
『な(ら)仲直(り)す(れ)ばいいだけじゃないスか!』
『お前、犬と猫って言うのはヨーロッパだと日本でいう犬と猿なんだぞ。仲が悪いことの代名詞みたいな存在なんだ。ったくもー、今日は朝からもう一組の犬猫が喧嘩したってのに、何で本物の犬猫まで喧嘩するかねぇ』
『確かにセンパイは猫みたいスけど、ってかネコですけど、犬ってもしかしなくてもオレ……痛い、痛い!!』
大きめの卓袱台を囲んだ面々からの多様な思惑を含んだ視線に、オレは全く介することなく耳をぺしょんと垂らしてへたれている真っ最中。全身脱力で今はもう何にもする気が起きない。
だって、オレ幸男さんを怒らせた。でも、何で怒らせたのか解らない。
これはさっきのキセより酷い。
だってキセはあんなんでもちゃんと何で自分がカサマツくんを怒らせて悲しませたのか解っていた。
「どーしよース……」
外に出歩く気にもなれなくて、部屋の中に引きこもる。あぁ、今日はいい天気なのに。オレの心は曇天模様なのだ。雨なら雨でオレは好きなのだ。
しかしこの中途半端具合、まさしく曇天灰色気分が重い。涙という湿気を帯びている。
コボリさんとカサマツくんの間にべしょんと溶けるみたいにして脱力中。
『リョウター、大丈夫だって。そんな落ち込むなよ、な?』
わしゃわしゃ頭を撫でてくれるカサマツくんの優しさに応えたいのだけど。
はぉと溜息一つ零すと幸せが一つ逃げていくのだよとは緑間っちの弁。幸せどころか生気も失われていっている気がする。
『そもそもどうして喧嘩したんスかね』
「解らないスー……」
別に幸男さんの悪口言ったつもりないし。
あ、乱暴ってのは悪口かな。でも幸男さん結構乱暴なのは本当だし。
『あー、これは、まぁオレの予想なんだけどさ。多分オレらに遊んで欲しかったリョウタをユキが叱って、喧嘩になったんじゃないかなって』
「……でもそれだけなら何であんな敵を見る眼になったのか理由がつかないんスよ……」
大体幸男さんはオレの兄貴分というかセンパイなので、躾はしょっちゅうだ。
『でもまだリョウタって一歳だろ? 遊び盛りじゃん。ユキオも大人気ないなぁ、な、カサマツ?』
「そうなんスよ。図体でかくてもオレまだ一歳なんスよ……。人間の歳だと違うけど。ねぇカサマツくんどうしてなんスかね?」
幸男さんの名前の由来らしいカサマツくんに視線を向ける。
腿に押しつけるようにしたオレの鼻先をゆっくりと撫でつつ、カサマツくんはモリヤマくんをじろり睨んだ。
『……オレに振るのが気に食わねぇけど。リョウタはちゃんとブリーダーからもらった子だろ。元々野良のチビからしたらあれだ、遊んでもらいたいだってバカ言ってんじゃねぇよ甘えるな寝言言ってんなおいさっさとその設問解けよキセ後リョウタをちょいちょい足蹴にするな』
『――っ痛! 何でいきなりノールックでオレに矛先?!』
酷いっスーと嘆きつつ、またかりかりとペンを走らせる音が再開される。
カサマツさんの向かい側に座るキセは、カサマツくんにべったりしているオレが気に食わないのか、時折爪先でオレの前足を弄っていたのだけど。注意されたから大人しくその足を引っ込めた。
……オレ、そんなに甘えたこと、言ったんだろうか。遊んでもらいたいって、そんなに甘えたことなんだろうか。だって、遊びたいから遊ぼうって言うのは、普通のことじゃないんだろうか。
――幸男さんにとって、は、普通のことじゃなかったんだろうか。
そういえばオレは幸男さん自身のことをちゃんと聞いたことはなかった。
野良で、拾われてっていうことは聞いたから知っていたけど。でもそれだけ。
どういう生い立ちかなんて関係なかったから。
コボリさんの家で、皆で仲良く一緒に暮らしてるってことに、今までのことは必要じゃなかったから。でも。
幸男さんにとってはそうじゃなかったんだろうか。
オレがぐるぐると考え出そうとした、そのとき。――でも、とキセがぽつり。
『……でも、何ていうか、それリョウタ悪くないんじゃないんスか? や、ユキちゃんが悪いって言ってんじゃないスよ。ってか悪い悪くない以前っていうか……だってしょうがないことじゃないスか、それって。元々が違ったらぶつかっちゃうことも一杯あるし、そこ歩み寄って摺り合わせてナンボっていうんスか』
「……キセ」
まさかの、キセとは到底思えない一言。
朝にあれだけの我儘を言ってカサマツくんを怒らせた男が言ったとは思えない。
しっかりと、耳に残すことを意識した、声の低さ、重さ、深みと長さ。こいつ、本当によく解らない男だ。
思わず上半身を起こして卓袱台越しにキセをまじまじ見つめてしまう。
少し伏せた眼は手元の紙に向けられていたけれど、多分朝の眼と同じ眼をしているんだろうなって思った。朝に見せた、大人びた眼。
じぃとキセを見てしまったのは、けれどもオレだけじゃなくて。
他の四人も同じようにキセに滔々と、何か思うところがあるような懐かしがっているような、そんな眼差しを注いでいた。
『――お前が言うとすげぇ説得力あるけど、何か入部したてのお前も思い出して腹立ちそうになるわー』
『同じくっス!!』
『……オレもちょっと何様のつもりだって思ったぞ』
『……オレは……まぁ……』
『ちょ、そこは完全否定して下さいス、コボリ先輩! オレの最後の砦!』
あ、台無し。凄く台無しの声。今さっきまでのお前は何処に行った、キセ。
涙声で必死にコボリさんを味方に付けようとするキセに、他の三人がやんややんやと囃し立てて。
――あぁ、でも。何か解った気がする。幸男さんを怒らせた理由とか、そういうのじゃなくて、オレが今何すればいいのか。すっくと立ち上がる。
「――コボリさん、オレ、幸男さんと話してくるっスね」
そう告げると、コボリさんはオレと視線を合わせて、それからにっこり笑った。
『ちゃんと話し合ってくるんだぞ』
「はいっス!」
するべきことが決まったら迷うことなんかなくなる。オレは皆の頑張れよーという声を背に受けて、颯爽と外に飛び出した。