キセとカサマツくんと
カサマツくんとの朝ジョギングから戻ると、ぎゃーぎゃーと喚いているのが一匹……もとい、一人いた。
『どうしてオレ置いてっちゃったんスかー!』
カサマツくん達が寝泊まりしていた部屋で布団を畳んでいる最中だったキセが、オレとカサマツくんを見るなり突進してきた。カサマツくんの方に。
『じゃかましいわお前が起きんの遅いんだろ! リョウタ見習えよ!』
『どうして犬と比較されなきゃいけないんスか! しかもオレもリョウタなんでその辺りのちょっと考慮して頂けるととっても嬉しいんスけど!』
恐らく抱き着こうとしていたのだけど、その前にカサマツくんの伸びた足がキセの腹に減り込んでいた。寝起きだろうに、何ていうことだ。
『グふっ』
キセ、アンタ朝から何て危険な真似をしているんだ。オレだって簡単に腹を曝すことはないのに。
布団の上に突っ伏したキセは、うぉおおと呻き声をあげて苦しみを表現していたけど、結構お馴染みのことなのかコボリさんをはじめ、モリヤマくんもハヤカワくんもちっとも気にしないで布団を畳んでいた。これ何処に置いとけばいい? あぁ後で干してしまうから隅っこに固めて置いておいてくれると助かる。
あまりにキセの存在が無視されていて、ちょっとだけ可哀想になったオレはのそのそとキセの元に足を運んだ。未だ尚突っ伏したままだ。誰かが声をかけるまでこのまんまでいるつもりなのかもしれない。
「大丈夫スか?」
鼻先でキセの肩をくいと押して反応を見る。死んでいないのは解っている。何度か押してみると、もげる寸前の首を何とか上げた、みたいな態でゆーっくりオレを見た。
『……お前もオレの名前もらったくせにー、どーしてオレを蔑ろにするんスかぁあ?』
「いやいや、下さいって言ったわけじゃないスし。蔑ろにしたつもりもないスし。寧ろ勝手にアナタが蔑ろにされてるっていうか」
『……取り敢えず、オレに同意してないのは解ったっス』
おお、会って一日も経っていないにしては結構見事にオレの言葉を理解している。何処となく犬っぽいし、キセはもしかしてオレ達の言葉が解る人間なのかな。オレはじぃとキセの眼を見る。
これやると喧嘩売ってるってことになるって幸男さんにも黒子っちや緑間っちにも言われたのだけど、実際オレはあんまり眼が利かないから意味なんかなかった。
唯、オレを前に飼っていたちっちゃな女の子が、凄くオレの眼を見る子だったから。それが影響しているのかもしれないとは思ってる。
そんなこんなでじっっとキセの眼を見ると、その眼もやっぱり薄い色をしていた。髪の毛と同じような色なのだろうか。
よくよく見ていると、その薄い中にも真ん丸な黒がぽつんとあった。これが光によって大きくなったり小さくなったりするドウコウ、というやつなのだろうか。色が薄いから余計に目立つのかもしれない。
そんな感じでじぃと凝視するオレを、キセも同じように凝視して、これ傍目どんな風に思われるのかなぁなんて思ったとき、おいキセ、と笑いの滲んだ声が聞こえた。
『お前、犬相手に喧嘩売んなよー。ガン付けるって完全に動物じゃねぇか』
それはモリヤマくんの声。この人の声も軽い感じで、でも言葉に含まれる空気というか独特の間が、また何ともいえない感じを生み出していた。ちょっとこの人一筋縄じゃいかないぞ、っていう。
ちなみにこのモリヤマくんもカサマツくんと同じように、コボリさんと同い年らしい。こちらは何となく理解できた。
『ちょ、オレ別にガン付けてなんか……』
『お前、リョウタはお前と違って良い子な上に年下なんだぞ! 恥ずかしくねぇのか!』
『問答無用!?』
げしりキセのお尻を踏んだカサマツくんが、そのままぐりぐりと足を動かす。
コボリさんも、よく自分の背中に乗っかってくる幸男さんに「マッサージしてくれるのか」と笑っているのを思い出して、つまりこれはマッサージなのかとオレは思った。
が、違ったようで。
『あぁああ、それ微妙に骨ごりごり打って痛い、痛いス!!』
マッサージというやつではなかったらしい。
躰の大きいキセが、躰の小さいカサマツくんに足蹴にされる姿はなかなか面白かったので、オレはにぃたり笑う。口を左右に大きく開いて、だらりと舌を垂らして。
この顔、緑間っちに言わせると「バカの顔なのだよ」らしい。オレとしてはバカにしている顔なのだよ、緑間っち。
この構図を面白く感じたのはオレだけじゃないみたいで、コボリさんもモリヤマくんもハヤカワくんも笑っている。
ときにハヤカワくんの言葉はどうにも途中途中破裂していて聞き取りにくいのだけど、人間の耳ではそうでもないんだろうか。ラ行が凄く聞き取りにくい。
しかし、やっぱりコボリさんハヤカワくんの笑い声と、モリヤマくんの笑い声はどうも違っている。笑い声一つとっても本当に差があるものだ。
『――って、何でお前までオレを笑いものにしてるんスか! 同じリョウタならちょっとは味方するっスよ!!』
キセの悲痛な叫びに、つまりキセに味方するというのはオレがカサマツくんに対して攻撃を加えるということで、それは聞けない頼みだった。
幾ら同じリョウタでもそれは無理だ。幸男さんと同じ名を持つカサマツくんに、オレが攻撃を加えることなど天地がひっくり返ってもない。
「諦めるっスよ、キセ」
最後通牒を渡したオレを恨めしそうに見て、キセは口を尖らせて拗ねたのを隠そうともしなかった。ぶーと豚のように鳴いた。
『くっそう、オレに味方する人間がいないならいーもんね、それならそれでオレにも考えがあるっスよ! オレはユキちゃん手懐けるもんね、カサマツセンパイがリョウタに浮気すんならオレだってユキちゃんに浮気すんもんね!!』
「――っ何言い出すんスかアンタは!!」
よりによって、幸男さんに手を出す気かこいつ。いや、人間なのに?
いやいや、人間でもそういう趣味の奴はいるって黒子っちが言ってた。人間以外の、動物相手に発情しちゃう奴がいるって言ってた。――キセは、そういう類の人間なのか。
一歩後退って両足を突っぱねて、頭を低くする。低く唸り声を上げるとリョウタ、とコボリさんの声。リョウタ。ちょっとだけ語尾がきつい、窘める声。でも、こいつがいけないんだ。
キセが、態度を変えたオレを見て、ちょっと面食らったみたいに息を呑んだのが解った。浅く息をする音。
『――レトリバーって温厚な性格じゃ、ないんスか?』
『基本そうだけど……リョウタはユキのこと大好きだからなぁ』
お前が言ったことに怒ってるのかも。え、いや犬なのに解るんスか言葉? さぁ、どうだろうな、でも解ってるんだろうなって思うことは多いよ。
『というか、リョウタってキセに凄く似てるから。多分さっきの言葉をキセが聞いたら怒るんだろうなぁと思ったら、リョウタが怒ってる理由も同じなのかなと』
「何言ってるんスかコボリさん! オレはこんな恥ずかしくないよ!」
『何言ってるんスかコボリさん! オレが怒るだけで終わらせるわけないでしょそんなこと言った奴に一生言ったこと後悔させてやっっぎゃあっ!!』
オレとキセの声が重なって、でもキセの方がずっと長くて。
その語尾の悲鳴はカサマツくんがキセの足の間をがつんと蹴り上げたからだった。
幾ら人間と躰の構造が違うって言っても解る。流石に解る。そこは、痛い。
『――人があまりの馬鹿馬鹿しさに言葉を失ってりゃよくもなぁ長々と……!!』
『っだって、だってセンパイが……っ』
『だってもクソもあるか死にさらせぇええっ!!』
追撃の蹴りをかろうじてかわしたキセは、そのままコボリさんの背後に逃げ込む。コボリさんを盾にするとは、何処までも姑息な奴だ。
そしてコボリさんはそんな風に頼られたら絶対守ってしまう人だから、キセを庇うように両腕を広げて、まぁユキ、落ち着けって。頭から湯気が立ち上りそうなほど顔を真っ赤にしているカサマツくんに話しかけた。
『キセだって悪気があるわけじゃないんだし』
『だからこそ始末に負えないんだろうが!』
全くだ。全くだよカサマツくん。
うんうんと頷くオレに、キセが泣きべそを掻きながらだってぇ、センパイがぁ浮気するから……と繰り返していた。今度はいじける段階に入ったらしい。怒って拗ねていじけてと、大変な男だ。
『――っもういい、一生そうやってろバーカ!!』
堪忍袋の緒が切れたのか、くるり踵を返して、カサマツくんが部屋を出て行く。あ、帰っちゃうのかな。でも荷物まだ部屋の中だしな。
オレはキセとカサマツくんの後ろ姿を交互に見比べて、カサマツくんの後を追うことにした。何ていうか、自分の名付け親というか名付け元のあんまりな姿をこれ以上見るのは忍びなかった。
くるりとキセに尻尾を向けると、すすすっと近付いてきたモリヤマくんがカサマツを頼んだぞリョウター、とオレの頭を撫でた。
『カサマツも素直じゃないからなー』
その言葉の意味はよく解らなかったけれど、頼まれたものはしっかりやり遂げなければ。
はいっスと返事をしたオレに、モリヤマくんがにっと笑う。あれ、こうしてみるとそんなに悪い笑顔じゃない。結構良い人なのかもしれない。
とてとてとカサマツくんのにおいを辿って縁側の廊下から外の庭へ。
まだ朝と言ってもいい時間帯で、食事のにおいがあちらこちらから漂ってくる中、オレはカサマツくんの後ろ姿を認めて駆け寄った。
「カサマツくん」
呼びかけると、リョウタ、とカサマツくんは足を止めた。しゃがみこんでオレと目線の高さを合わせてくれる。
『何だ、お前追っかけてきたのか』
「そっス」
頷くオレの首をごろごろ撫でながらふっと笑ったカサマツくんは、それからぼそりと一言。……本当、こっちのリョウタは素直で賢くて可愛いのにな。
『何であっちのリョウタは馬鹿で阿呆で可愛くないんだろうな』
「……」
キセ、アンタ一体カサマツくんに普段どれだけ迷惑かけてるんスか。ここまで言われるほどの馬鹿なんスかキセ。呆れて物が言えないスよ、キセ。
黙ってしまったオレの首に腕を回して、ぎゅうとカサマツくんが抱き着いてくる。あれ、何かおかしい。呼吸の間隔が長い。ゆっくり息を吸って、吐いて、まるで自分を落ち着かせるみたいに。……オレ、
『……浮気なんか、するはずねぇのに』
小さく小さく、呼吸の音よりも小さく。
オレに聞かせるというよりは、本当に思わずぽろりと零れてしまったんだろうってくらいのその言葉は、今まで聞いたカサマツくんの声の中でも一番弱々しくて、でも確かに怒ってもいて。
オレは何だか、カサマツくんが寂しそうなのは嫌で。キセはまだまだ子どもなんスよ、と意味もなく言った。何でもかんでも自分の思い通りにならないと喚くんスよ。我儘で自分勝手で馬鹿な男なんスよ。でも。
「――多分、カサマツくんのこと大好きなのは、本当だよ」
昨日、カサマツくんと一緒にいたときのキセのにおい。
カサマツくんとキセ、二人きりの状況で。あんなにぎらぎらして、雄特有の、噎せるような発情のにおいを出して。
カサマツくんを抱き締めてそれを移していたキセを思い出す。
これは自分のだって、他の奴らは近付くなっていう、威嚇・牽制・所有の印としてのにおいを、惜しげもなくまぶしていたキセを思い出す。
そして、それをカサマツくんも許していたから。
だから、カサマツくんの躰からはキセのにおいがして。
頬を擦り寄せて、それからこめかみを舐める。べろり、べろり。
『――っリョウタ、擽ってぇよ、こら』
何度も舐めていると、カサマツくんの声に明るさが戻ってきて。それが嬉しくてもっと舐める。こめかみ、目許、鼻の頭もべろり。
『こら、おい、こらって』
肩に手を置いて舐めていたらべたんとカサマツくんが尻餅を突いた。そうすると完全にのし掛かるような状態になる。オレ、結構重いのにカサマツくんしっかりと支えてくれているけど、その所為で両手は塞がっている。
それに甘えてというかかこつけて、一層舐め回していると、叫び声がした。
『センパイが、センパイが襲われてる――っ!!』
その声の主が誰かなんて解りきっていたのだけれど、馬鹿で阿呆で可愛くないそいつが辿り着くまでの間、オレはこれみよがしにカサマツくんに抱き着いていた。
『ちょ、お前何羨ましい違う襲ってるんスか!』
がっと前足の下に手を差し入れられて持ち上げられつつ引き剥がされる。おいキセ、リョウタに乱暴すんなよ。乱暴じゃないス、強制隔離っス。何が強制隔離だ――……。そんな会話の最中もずりずり運ばれる、オレ。
キセもなかなかの力持ちだ。だけど、これが唯の筋肉馬鹿という奴なのだね緑間っち。
もっと頭を使うことと気持ちを考えることを知らないと駄目なのだよ。
「――馬鹿キセめ」
ぺっと吐き出す。じと目仕様で更に馬鹿にしています感を出してやる。
するとちゃんと通じたらしい。キセはきゅっと眉間に皺寄せた。
『……何その眼、呆れたような馬鹿にするようなその眼は何スか。いや解ってるけど、解ってるけどね』
ずりずりオレの後ろ足は引き摺る形でカサマツくんから隔離しつつ、キセはカサマツくんの視線から逃げるように顔を伏せる。だからオレからはそのばつの悪そうな顔が見えた。……オレだって、馬鹿なこと言ったって解ってるスよ。そう、呟かれた言葉、声は凄く暗く鈍い音で。
「……」
意外にもキセはカサマツくんを怒らせた――以上に、悲しませたことを解っていたらしい。なら何でそもそも悲しませないということができないのか。全く、流石馬鹿で阿呆で可愛くない男だ。
「……悪いことしたって解ってるなら、ちゃんと謝って許してもらうのがいいっスよ、キセ」
学校で教わるより前に、あのちっちゃな女の子に教わったこと。
オレの心からの助言に、キセは一度だけ瞬いて、そうスよね、と頷いた。
あ、と思った。
『――ちゃんと謝らなきゃっスよね』
さっきの泣きべそや拗ねた顔が嘘みたいな、することをきちんと弁えている大人の顔になっている。
雄、というよりも、コボリさんみたいに穏やかで、でもしっかりしている感じ。大丈夫だって、思える顔。
オレを地面に下ろすと、キセは直ぐさまカサマツくんの元に駆け寄っていく。
カサマツくんはとっくに立ち上がっていて、でもその場を去らないで。多分キセを待っていたんだと思う。キセがカサマツくんの腕を掴んだのがかろうじて見えた。
何だかその先の会話をオレが聞くのはいけない気がしたので、くるり方向転換。皆がいた部屋に面した縁側に向かうと、そこにはモリヤマくんだけがいた。
コボリさんとハヤカワくんは、ときょろり視線を巡らせたのが解ったのか、あの二人なら裏の畑行って採り立て野菜を持って来ている最中だ、と教えてくれた。ついでに卵も貰って来るって言ってたぞ。何か言葉がおかしい気がするのはさておいておこう。というか何故モリヤマくんは行かなかったのかが謎だ。
『どうよあの二人』
「どうスかねぇ」
縁側に腰掛けたモリヤマくんにわしゃわしゃと顎の下を掻き撫でられながらの会話には緊張感なんてない。だって大丈夫だって解ってるし。
『まぁ、あの二人はここが余所様の家だということをもっと自覚すべきだよなぁ』
「そうかもスねぇ」
確かにそこはキセもカサマツくんもちょっと考えるべきだ。幸男さんだってオレのことは家の中で叱る。出掛け先ではあくまでオレの前足に軽く爪を立てる程度だ。その回数が多いほど、オレは後で雑巾のようにこってり絞られるわけだけど。
『でも、喧嘩するほど仲が良いらしいし、仲良きことは美しきことかなっていうから美しいのかねあれが』
「解らないスねぇ」
っていうか結構自然な会話になっている気がするぞ、これ。でもモリヤマくん、オレの言葉解ってるわけはない……と、思うんだけど。
え、でもどうなんだろう。本当にそういう人間、いるのかな。世の中には色々な人間がいるって黒子っちも言ってたし。確かにモリヤマくんは何か違う気がする。
思わずじぃっと注視してしまったオレに向かって、モリヤマくんがにっと笑って更に言い継いだ。
『ま、見てる分には面白いからいいんだけどな』
「……確かに」
さっきお尻を踏まれていたキセを思い起こす。でも、何だか完全な他人事のようには思えなかった面もあるんだけど、それは一体どうしてだろう。ちっちゃなカサマツくんに怒られる大きなキセ。
……あれ、もしかしなくてもこれはアレだ、幸男さんとオレの姿じゃないのか。そんな馬鹿な。オレはあんなに馬鹿でも阿呆でも可愛くないわけでもないはずなのに。
嫌なことに思い至ってしまってあんぐり開けた口からだらり、舌を垂らす。それを見たモリヤマくんが、にぃっと口の端を左右に吊り上げて――あれ、それもしかしなくても馬鹿にしている顔っスかモリヤマくん。
むぅと口を閉じたオレに、モリヤマくんはその笑みのまま、本当キセに似てるなぁお前。追い討ちの一言。
全くもって、嬉しくない。