コボリさんと愉快な仲間達
『今日は友達が泊まりに来るから、あんまり騒いじゃ駄目だぞ?』
コボリさんが客用の布団を引っ張り出しながら言う。今日は良い天気だし、干しておくつもりなんだろう。
はいっスと返事をしながらてくてくコボリさんの後を付いて行くオレの背中には、くてと幸男さんが張り付いている。腹をオレの背中にぺたんとくっつけて、完全にお昼寝モード。オレの体温と太陽の光でぽかぽかして気持ち良いらしい。
大型のオレの背中に、小さな黒の躰が乗っかっている様が面白いらしい、相変わらず器用なことするなーと庭先に布団を干すコボリさんは、朗らかに笑っている。
『そのままユキ落とさないようにしてろよーっつっても、まぁリョウタなら落とさないよなぁ』
「勿論っス!」
『本当、お前いいところで相槌打つよなぁ。オレの言うこと解ってんのか』
「そりゃ、そうスよ!」
オレだって毎日学校で勉強してるんスから、と続けて言うと、コボリさんはあぁごめんごめん、そんなに吠えなくてもそうだよな。お前ちゃんと解ってんだよな。
『でも、あんまり吠えるとユキ起こしちゃうから、な?』
おっとそうだった。オレの背中で幸男さんがすやすや眠っているんだ。今度は控え目にはいっスと答えると、リョウタはいい子だなーとコボリさんに頭を優しく撫でられた。
とても大きなその手に似つかわしく、コボリさんはとても大きな人。バスケットの選手なんだよ、コボリは。前に幸男さんがそう言っていたのを思い出す。凄いんだぜ、強い学校の中でも、更に強い五人の内の一人なんだぞ。
自分のことみたいに自慢げな幸男さんは、オレより先にコボリさんに飼われているからか、オレよりもずっとコボリさんのことを知っている。
コボリさん自慢をするときの幸男さんはきらきらしていて、ちょっとはオレのことも同じように褒めてくれれば良いのにといつも、ほんの少しだけだけど、思ってしまう。
でも、こんなに優しい人なのに強いって、どういうことなんだろう。
オレの知っている強い友達を思い浮かべても、コボリさんのように優しい感じのはいない。皆頭が良かったり力があったり、こんな風に優しくて穏やかな雰囲気を持っていて、それで強いなんてオレには解らない。
でも、きっとこんな風に強くて優しかったら、もっと幸男さんもオレに優しくなってくれるのかなぁ、なんて。
いつもはない背中の重みを感じながら、オレはてくてくお気に入りの日向ぼっこの場所へと向かった。
コボリさんの友達、という人達が来たのは、日が落ちていそいそとオレが裏口で足の裏の泥を落としているときだった。
『こんばんは、お邪魔します。今日は大人数で押しかけてすみません、おばさん』
『いやねカサマツクン、そんな他人行儀になんなくてもいいのにー……って、あら、そっちの子があれね、モデルの!』
『初めまして、オレ、コボリセンパイの後輩で、キセって言います。今日はお世話になります』
『そんなの気にしなくていいのよ。大したおもてなしもできないんだから……あら、モリヤマクンとハヤカワクンは?』
『あぁ、ハヤカワんちに寄って野菜を持ってくるってんで、ちょっと遅れてきます』
『あら、そんなのいいのに……。でも、ハヤカワクンちのお野菜はとっても美味しいからおばさん嬉しいわ。明日の朝に早速頂こうかしら』
『おばさんの料理は本当美味いんだぜ、キセ』
『ふふ、カサマツクンもお世辞言うようになったのね――……』
そんな会話が聞こえてくる。お母さんの声が、こころなしか弾んでいるような気がするのは気の所為じゃない。カサマツクンという人に対してもだが、その後、モデルのキセとやらのときには二段階くらい声の高さが違った。
こういう声を出すとき、メス――オンナというのはときめいているんだっていう。まだあんまり解らないんだけど。
こしこし拭っていた自分の手足を確認。よし、泥もついてない。オレはのそり家に上がる。
ちゃんと外に自分の部屋を持っているから寝るときなんかはそっちだけど、オレが泥をきちんと落として中に入ることを知られてからは、ちょくちょく家の中でご飯を食べたりするようになった。畳の部屋だって入っていいと言われている。
けど幸男さんは違った。お前の毛は長くて掃除が大変なんだからあんまり絨毯とか畳の部屋に来るな。板張りの廊下に爪を立てるな、外にいればいいだろ、お前。
オレがこの家に来た直後、そんな先制パンチを食らってオレはどうしていいか解らなかった。人でも他の種でもすぐ仲良くなれるのに、最初、幸男さんはつっけんどんな態度でオレを突き放した。
今でこそそんなことはない。けど、時折オレが何かやらかしてしまうたびに――コボリさんは笑って許してくれるけど、幸男さんは尋常じゃない怒り様でオレの躰に爪を立てて、そうして最後にいっつも言うのだ。
「コボリに迷惑掛けるな」
幸男さんの中でコボリさんはてっぺんにいる。その優先順位の最下層にオレがいる。今でも変わっていないのが寂しい。あ、ちょっと本当に寂しくなった。
へしょんと項垂れたまま、しかし本能で美味しいにおいのする居間の方へと足は勝手に動く。縁側の廊下をぺたぺた。幸男さんももう居間にいるだろう。ぺたぺた。いいにおいが近付いてくる。くんくん、うん、いいにおい、でも――何だろう。嗅ぎ慣れないにおいも、して。それも二つ。
甘い、よりも、何かさらりとしてるんだけど、でも凄く胸の奥に溜まるにおい。薄いのに重い、薄いのに深いにおいが一つ。
それからもう一つ、これもちょっと嗅いだだけだと甘い。爽やかな甘さっていうのか、さらりっていうのとはまた違うんだけど、でも。
それはあくまで表面上のものだって直ぐに解った。一番上の薄い部分だけその甘いにおいをまとわせているけど、その下のものはもう凄く、凄くぎらぎらして、生肉みたいににおいをしたたらせて。鼻を衝く強烈なにおい。これは、わかる。
これはもう完全に。オスのにおい、だ。
『――うわぁ!!』
「――!!」
聞き慣れない、その大声にびょんと全身が跳ねる。何だ、一体何なんだ。オレは僅かな灯りの下眼を凝らすより、鼻でその声の主を探る。
ぼにゃりとした輪郭は、けれどコボリさんと同じくらい大きいことを捉えて、でもそれよりも。この人だった。あのオスのにおいがする。この人だ。この声、これが、きっとキセ。
『え、あの、何で家の中にレトリバーいるんスか!?』
『あー、うち放し飼いだからさ。外にいることが多いんだけど、飯時なんかは中で食ってんだ』
コボリさんの声がして、さらにその後ろからさらりと甘いにおいと声がした。
『あ、あれが前に言ってた犬だよな。前俺が来たときは丁度外に遊びに行ってて会えなかったけど。――名前、キセに教えてやれば、コボリ?』
あぁ、それで、こっちがカサマツクンだ。キセよりも声は重くて低めだけど、凄く耳に心地いい声。キセの声は、においに反して凄く高くて軽い。でも、多分キセは敢えてあの声の高さにしている。低さはわからないけど、本当はキセの方が声が重いんじゃないかな。理由なんて解らないけど。
『え、この子名前何て言うんスか?』
キセがしゃがみ込んでオレと視線を合わせてくる。
コボリさんと違って、何か髪の毛の色が白い。同じ人間でも色々いるって、そういえば黒子っちも言っていた。だって黒子っちの飼い主の髪の毛は赤――オレはその色もよく解らないけど、とても本能を掻き立てる色だとか、力強さを感じるとか黒子っちは言う――らしい。で、日本人という種で赤毛っていうのは珍しい、とも。
だから、このキセというのもそういうちょっと珍しい人間なのかなと鼻を摺り寄せる。コボリさんが家に招くくらいなんだから、危険人物ではないことは確か。すんすん、ちょっと背を屈めて彼の胸元辺りに鼻先を埋めてにおいを嗅いで。キセがオレの頭をぐりぐり撫でて。あれ、何か初めて会った気がしないのは何でだろう。
すんすん夢中になって嗅いでいると、コボリさんが笑いを含んだ声でキセに話しかけた。
『そいつなぁ――リョウタって言うんだ』
『――っはあああ!!? りょ、リョウタって、リョウタって!!』
吃驚した声が頭上からがんと降って来て、オレは思わずキセの腕の中で頭を跳ね上げそうになった。声が、声が! うるさい!
『――馬鹿、リョウタが驚いてるじゃねぇか!』
『ぎゃっ!』
カサマツクンがキセの頭を殴ったらしい、また頭上でごつんと硬い音がして、オレはまた身を竦ませた。痛い、これは痛い音だ。
『だ、って、何でよりによってオレの名前――』
『あー、そいつの前の飼い主の女の子がお前のファンだったらしくて。で、買う前から決めてたんだって、リョウタに』
うん、そう。ここに来る前、小さな女の子がオレのことをぎゅうぎゅう抱き締めてくれてたのを覚えている。ころころ舌の上で小さい飴玉を転がすような軽やかな声で、リョータって呼んでくれてた。オレも凄くその子のことが好きで。
でも、オレの躰が大きくなって、小さな女の子の下に、更に小さな子が加わって。
そしたらその子が、動物アレルギー、というのだったらしい。オレはそこにいられなくなって、コボリさんの家に来た。春の終わりから、夏。まだここでは秋と冬を体験していない。
――でも、オレの名前って。キセは言った。リョウタが、キセの名前。オレと同じ名前なのか。いや、オレの名前が、キセ由来なのか。縁みたいなものを、ちょっと感じる。すると、……何か、縁を感じるっスねぇ。全く同じことをキセも言った。
『――それじゃ、もう一つ縁を感じさせてやろうか?』
またコボリさんが笑う。そしてユキ、ユキオ、ちょっと来てくれないか、ユキが来てるぞ。何を言っているんだろう、とキセの腕の中から首を伸ばして幸男さんのにおいを探す。キセも意味が解らないみたいで、きょとんとしてコボリセンパイ?とコボリさんを見上げる。あ、近付いてくる、においと軽やかに廊下を駆ける音。
「――コボリ、カサマツ!」
可愛い声と尻尾がくるり回って、コボリさんが幸男さんをひょいと抱き抱える。横からカサマツ――くんが、ごろごろと幸男さんの咽喉下を撫でていた。
『おー、元気してたかチビー』
「カサマツ! 大きくなったなお前!」
『おーおー、相変わらず元気で良かったわ』
カサマツくんが笑っているのが声の柔さで解る。あんまり顔解らないんだけど、多分この三人の人間の中で一番背が低いのが彼だ。
『え、ちょ、何? ユキオって、え?』
『こっちの子は名前ユキオって言うんだ。ウチの母親命名でさ、ユキが拾って、で、オレが引き取って。もううちに来て三年目か?』
『いやいや、え、何でユキオ? 何でよりによってカサマツセンパイの名前なんスか?』
『うーんと、色々省略して、結論だけ言うと、ユキに似てるからユキオ』
『省略しないで!』
悲鳴に近い声でキセがばっと立ち上がる。何でよりによってカサマツセンパイの名前なんスか、とか、呼び捨ては聞き捨てならない、とか、何かユキを抱いてるコボリセンパイという構図が嫌なんスけど、とか小声でぶつくさ言っている。あれ、オスのにおいがするわりには、どうもあれだ、貫禄というのがない。何か子どもみたいだ。
『オレも抱きたいっス、ユキちゃんを!』
『あーと、でも、こいつ生まれつき野良だから、人見知り激しくてな……』
コボリさんが困った声を出す。うん、オレと対照的に、幸男さんは警戒心がとても強い。その代わり、心を許すととても懐っこい。本当に可愛い生き物なのだけど、でも、コボリさんを困らせるものには容赦ない。キセを睨む幸男さんの眼、完全に敵を見る眼だ。
そんなことちっとも解っていないキセは、ぐいと両手を幸男さんに差し出した。
『大丈夫っス! ユキオと名の付く生き物がオレに懐かないわけ……へぶし!!』
『下らねぇこと言ってんな!』
あ、と。思った。あ。幸男さんがキセの手の甲を引っ掻く寸前、カサマツくんがその手を打ち払って。幸男さんの手が空を掻く。その小さな手をやんわりとコボリさんが包んだ。
『……ユキ、駄目だよ。爪は立てちゃ』
「……だって、コボリ困ってた」
『オレは大丈夫だよ、何も困ってないからな?』
本当、オレ達の言葉なんて解ってないはずなのに、コボリさんは容易に幸男さんの言葉を汲み取って笑う。そうしてキセ、と手の甲を擦るキセに話しかけた。
『この子、凄く責任感って言うのかな、強くてさ。何かそういうところも、ユキに似てるなぁって思うんだけど。後、ほら、真っ黒だろ?』
幸男さんの脇の下に手を差し込んで、ほらとキセに向かい合わせる。抑えられないんだろう、ふっふっと鼻を鳴らす幸男さんに若干臆しつつ、キセは幸男さんに顔を近付けた。さっき引っ掛かれそうになったって言うのに、随分と大胆な。キセの意外な度胸にオレは吃驚した。だって幸男さんの爪、痛いんだ。
予想外に近付いてきたキセに意表を衝かれたのか、幸男さんも何コイツ、と漏らした。
そうして聞こえてきたのは、本当だ。意識せず零れたような声。すとんと耳に、躰の内側に落ちてくる心地良くも重い声。水みたいにしっとりと、けれど、躰の底まで沁みて落ちる声。これが、キセの声だ。オレは確信した。これがキセの本当の声だ。
『――あぁ、綺麗な黒スね。本当、艶やかで、滑らかで――綺麗っス』
ユキオ、と。
伸ばされた手が幸男さんの頭をふわりと撫ぜて。幸男さんの気配がひゅっと音を立てて止まったのが解った。動きも、止まって。でも、止まったのは幸男さんだけじゃない。コボリさんも、カサマツくんも。全員動きも息も止めてた。
キセが、幸男さんをコボリさんの手から離して、自分の腕の中に抱き込んで、その耳に顔を寄せて。
『怖がらないで?』
オレは痛いことも怖いこともしないから。
そう言った声に、ぶわり全身の毛が逆立つ。こいつ、コイツ――危険だ。開いた口、剥き出しの歯、キセの足を狙った――とき。
『猫相手にこっぱずかしいことしてんじゃねぇ――!!!!』
オレよりずっと長い足がキセの腹に減り込んでいた。まるで嘘みたいに後ろに引っ張られるように飛んでったキセは、廊下にお尻から着地する。幸男さんは直前、ひらり飛んで何とか難を逃れていて。はぁはぁと荒い息をするカサマツくんの足元で吃驚していた。
「カ、カサマツ……?」
『キセ!!? おい、キセ、大丈夫か、キセ!!』
どたどたと遥か彼方のキセの下に向かうコボリさんと対照的に、カサマツさんはいーんだよほっとけそんな馬鹿犬!と物凄い剣幕で怒っていた。びりびり、耳が痛いくらいだ。
『むしろリョウタの飯をそいつに食わせてやれ! 寝床もリョウタの寝床でいい!!』
『いやそれオレの家が酷いってだけになるから、ユキ!』
騒がしい中、オレはてくてくと幸男さんに近付いた。幸男さん、大丈夫スか? ……ん。こくり頷いた幸男さんは、それからオレのことをまじまじと見つめた。……お前、アイツに似てる。そのアイツが誰を指すのか、何か解ってしまった。
「……オレの名前、あの人と同じらしいんス。っていうか、あの人由来らしいっス」
何か悔しくて言いたくなかったけど、つい口にしてしまった知ったばかりの事実に、へぇと幸男さんは眼を丸くした。でも、それから納得したみたいに、だってそっくりだもんよ。ととん、オレの背中に飛び乗って、昼寝するときみたいにお腹をくっつけて。首の裏辺りに幸男さんの鼻先がくっついて。――お前の毛と、アイツの毛、同じ色だ。光の色、綺麗な色だよ、涼太。
「……っ!!」
その言葉に、オレは何故かそわそわしてしまって、もう駄目で。堪らず幸男さんを乗せたまま、廊下を駆け出していた。
二周目で近場の部屋に一人寝かせられていたキセが、四周目のときには、様子を見に来たらしいカサマツくんに抱き着いていた。思い出したんでしょ。違ぇ。嘘吐き、可愛いの。まるでさっきの幸男さんみたいに、鼻先をカサマツくんのお腹の辺りに突っ込んで。
そこの空気は鼻に絡むような、それこそオスのにおいがしたけれど、そんなことどうでもよかった。
背中の幸男さんが飛び降りることもせず、唯ぎゅうとしがみついたままでいてくれることに、オレの頭は一杯だから。