黒子のバスケ

×××

(何でオレ、今日に限って弁当忘れるかなー)
ぐずぐず泣き出したくなる。
今日は週に一度の笠松と二人きりで昼食を取る日だ。
イコール、週に一度の昼の栄養補給日だ。
笠松公認の定時補給日。マラソンの水分補給並みに黄瀬には欠かせない大事な日。
その日に、しかしどうして自分はより現実的な栄養源たる弁当を忘れてしまったのか。
返す返すも惜しまれるのは昨晩の自分の行為だった。

言ってしまえばたった一言、眠ってしまったのだ。

部活後の押しに押した仕事の所為で、黄瀬は帰宅すると同時に眠りに落ちた。
本当は空になった冷蔵庫を満たすべく食材を買い出しに行ったり、弁当の下ごしらえもしたりしたかったのだが、限界を通り越して空焚きに近い躰で仕事をこなした反動と代償がこれだ。
目覚めたときには朝の練習に遅刻する時間帯で、慌しく家を出た。
弁当のことはすっかり頭から抜け落ちていた。
走りながら口にしたのは、条件反射で手に取った例の十秒チャージ商品だったが、如何せん現役体育会系男子高校生には雀の涙ほどの栄養補給にしかならなかった。

朝の練習に午前中の授業でよりによって体育。
まさに追い焚きの空焚き、黄瀬は机に突っ伏した。
平素使われていない所為で暖房の切られている教室は、太陽の光も射さず、すぅとした冷気に躰が震えた。
かろうじて自販機で買えた熱い紅茶で暖を取りながら、黄瀬は笠松を待つ。

この昼食の時間に使うのは、人気がほとんどない隅の空き教室だった。
最上階の隅っこで夏場は暑く冬場は寒いその教室を使おうと言い出したのは、実は笠松だった。

『ここなら、静かに飯食えんだろ』

それは確かだったが、如何せんそのとき夏で、冷房の効いていない教室は酷く蒸し暑かった。
窓を開ければ通る風は心地良かったが、冷暖房完備の時代に生まれた身としてはやはり厳しいものがあった。

だから申し訳なく思いつつもここはちょっと、そう口にしようとした黄瀬は、直後の笠松の言葉にあっさりと自身の意見を撤回した。

『まぁ、何だ、二人きりでってんだからよ。ちょっと暑っ苦しいのは我慢しろよ?』

照れくさそうに小首を傾げつつ笑った笠松があんまり可愛かったので。

「――悪ぃ、また待たせちまったか」

がらり、教室の前の扉を開けて入ってきた待ち人に、「大丈夫スよー!」と上体を起こす。

後期に入ってから笠松は四限が別棟での授業になったため、黄瀬よりも遅く来るようになった。
授業が早く切り上げられない限り、笠松が黄瀬よりも早くこの教室に来ることは難しい。
それを黄瀬は解っているから全く気に留めていないのだが、笠松としては待たせてしまうことがどうしても気になるらしい。
毎回律儀に詫びてくるその性格が愛しくて、つい顔を綻ばせてしまう。

予め前後の机をくっつけておくのも黄瀬の自主的な仕事。
それにもきちんとサンキュ、と礼を言ってくれる年上の恋人が可愛くて仕方がない。
椅子を引くときに僅かに前屈みになる、そのときに襟元から覗く肌に触れたいとじりじり心を焼かれる思いだ。
本当、今直ぐにでも頭のてっぺんから爪先まで、漏れる声も息も一切取り零すことなく全てを頂きたい。それが何よりの栄養補給だ。
何故って今黄瀬は空腹を通り越して飢えすら感じている状態なのだから。

「――何だ、黄瀬、お前弁当出してねぇのかよ」

黄瀬の向かいに座り、鞄から弁当の包みを取り出しながら笠松は怪訝な顔をした。
先に来ている黄瀬が、笠松の到着を待たずに弁当を食べ始めているということは今までになかったが、流石に弁当そのものを出していないのが不思議だったのだろう。

「――っそーなんスよ、オレ、今日弁当忘れちゃったし、購買売り切れて何もなかったんスー! 絶好調空腹中なんスよぉお!」
「はぁ!? お前アホか、弁当忘れるってどんだけだよ」

心底呆れた様子の笠松がぱかりと弁当の蓋を外す。
赤と緑と黄色と白と、バランスよく配置されたおかずとご飯にだらりと涎を垂らしそうになる。
笠松家の卵焼きは絶品なのだ。正確に言えば笠松の卵焼きなのだが。

「やんねーぞ」
「っわあああああ!! 鬼、鬼ぃいいいっ!!!」

物欲しそうな顔を一瞬で蹴散らされた恰好の黄瀬は、がんと机に突っ伏した。
そこに笠松の声が落ちる。

「……ってか、お前さぁ」

更なる追い討ちかと思って構えた心に、しかし何も突き刺さりはしなかった。
予想外の沈黙に、ひょいと目線だけ上げて笠松を見ると、何やら複雑な表情をしていた。
怒る寸前のように眉間に深い皺が刻まれてはいるが、口元は何かを言いたそうにもごもごと動いていた。

怒るのならば、笠松はてらいなく怒る。
そうすると、この口は一体何を言いたがっているのだろう。

じぃと見る黄瀬に気付いたのか、笠松はきゅっと目許口元を引き締めた。

「……センパーイ、腹減ったっスー」
「あっそ」

一縷の望みを抱き口にした一言もあっさり足蹴にされる。
自棄になってちびちびと飲んでいた紅茶を一息に飲み干す。
空になった缶を隣の机に除けて、これは本当に昼食抜きだなと黄瀬は諦めた。
机の全面に突っ伏した体勢はそのままに、足元に凝った冷気を散らすように左右の足をばたつかせながら、今度はばれないようにそうと笠松を見ることにした。

手を合わせて頭を下げて、頂きますの一言。
それから箸を手にとって先ずはご飯。

僅かに開いた口から覗く赤い舌先に運ばれる白が、白米だと解っているのに駄目だった。
張り付いてしまいそうな視線を無理矢理剥がして、ぎゅうと眼を瞑り、足を突っ張った。

(……腹減り過ぎて、食べたくなるのがセンパイってどーよオレ……)

ここ最近はそれもご無沙汰で、つまり今の黄瀬は睡眠欲と食欲と、そして性欲という人間の三大欲求が満たされていない状態だった。
今までにも三つが全て満足しているとは言い難い生活を送っていたが、三つともここまで不満足であるというのは初めてかもしれなかった。

(食べたいし寝たいししたいし……これ全部セックスに繋がる言葉スねー……)

ちょっとした発見に苦笑する。
別にセックスしても食欲と睡眠欲が満たされるわけでもないのだけれど。
どうにも頭が酷く単純な回路を行っている気がした。
もう少し複雑な思考ができるはずなのに、欠乏している欲求を満足させる方向にしか頭が働かない。

のそりと頭を上げて顎を組んだ腕の上に乗せる。
丁度笠松は背後に置いた鞄から何かを取り出そうとして黄瀬から視線を外していた。
身を捩っていた所為で、黄瀬の眼は真っ直ぐに剥き出しの首を映す。

夏場には短く刈ってあった襟足だったが、今は少し長くなっていた。
そういえばそろそろ切る、と言っていたのは二週間くらい前だったか。
まだ切っていなかったんだなと思うと同時に、それを口にしていたのが黄瀬の部屋、ベッドの上でのことだったことも思い出した。

(……二週間て、)

黄瀬は部活に仕事に、笠松は部活に受験にと忙しい。
だから二週間もたかが二週間なのかもしれなかった。
遠距離恋愛をしている人々に比べたら、二週間なんて可愛いものだろう。

それでも、黄瀬にとってはされど二週間だった。
こんなに、手を伸ばせば直ぐの場所にいるのに。
何もかもが不足しているのだ。
睡眠も、食事も、笠松も。

「――もー限界っス」

笠松の手首を掴んだ自分の手が、まるで獲物に爪を立てる獣のそれのように思えた。





「――センパーイ、腰、大丈夫スか……?」
「ガックガクだよ、お陰さんでな!」

トイレから戻った笠松は、そのがくがくの足腰で幾分威力の劣った蹴りを黄瀬に見舞った。
椅子からずり落ちそうになったのを何とか堪える。

「ちょ、センパイ腰痛いのにそんなことしたら、」
「痛みを上回るお前への呆れの気持ちなんだよボケェ!」
「うっ」

確かに、いきなり盛り出し、ゴムも着けずに中で達して、挙げ句抜かないで二回目をした。
呆れられてしまう要素満載だ。
何も返せずに項垂れる黄瀬に、「ったくお前は……」と溜息と共に零れた言葉に、すみませんと更に項垂れた。首がもげる寸前のような有様になっている。

「……お前、さぁ。もう少し、自分の躰の方優先しろよ」
「どういう意味っスか?」

笠松の言わんとすることが解らず、黄瀬はもげる一歩手前からがきがきっと二段階変化で顔を上げた。
笠松がオレの躰を優先しろと言うのなら状況も状況なので解るのだが、自分の躰を優先させろとはどういうことだろうか。

そうして仰いだ顔は、先程見たのと同じ複雑な表情だ。
笠松は黄瀬の前の机に腰掛けて、足を所在無さげにぶらぶらり揺らしていた。

「センパイ?」

更に疑問符を重ねると、振り子のように揺らしていた足をぴたりと止めて、黄瀬の視線を避けるように僅かに眼を伏せた。

「だからさ、今日だってお前、クラスで一言弁当忘れたくらい言えばおかずどころか主食だってもらえんだろーが。ダチからでも女からでもさ。もらっといて消えるのも悪ぃし、メールくれりゃ今日は流れたって良かっただろ」
「……センパイが、くれるかなぁって」

甘えた声で言ってみれば、笠松はちらり視線を上げて苦笑した。

「本当にそう思ってたんなら甘えたにも程があんぞ」
「ごもっともです」

黄瀬はまたがくんと項垂れた。
正直に、卵焼きの一個くらいはくれるんじゃないだろうかと期待はしていた。
しかし、それ以上のものを頂いてしまった後では素直にそれを白状することはできない。

「……でもスね、センパイ」

ずっと椅子ごと前に出て、笠松の足の間に身を割り込ませる。
本調子ではないのをいいことに、腰を緩く抱いてその腹に額を押し当てた。
先まで無理矢理孕ませていた熱がまだ残っているのか、寒い部屋の中でそこは妙に熱い。

「オレにとって、センパイといる時間って最優先事項なんスよ」

四月になったら、もう笠松と一緒にここで昼食を取ることはない。
笠松はそのとき、ここにはもういない。
大学生の笠松と、高校生の黄瀬。
二歳の差が、それ以上の溝となって二人の間に深く横たわってしまう。

それを怖いのだと言ったら、また呆れられてしまうだろうか。

言葉の代わりに、腰を抱く腕に力を込めた。
布越しに触れる肌が熱い。
四月どころか、きっと年明けの自主登校期間になれば、ここで二人で昼食を取ることはない。

それでも黄瀬はここで、一人昼食を取るような気がした。
そのとき、この熱はもうないのに。
そのとき、今こうして頭を撫でてくれる手もないのに。


「黄瀬」


呼ばれて顔を上げる。
近付いてくる顔に、少しだけ背を伸ばして自分からも近付いて、その柔い唇に触れる。
触れるだけから、押し付けあうものに緩やかに変わっていく。
――自分の名を紡ぐこの唇もないのに、それでも黄瀬はここに来る気がした。



「……お前、そんな顔すんなよ」



慰めてやりたくなるだろ。
そうと頬に添えられた掌は熱かった。


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