一か月目
黄瀬が笠松に取り憑いてから早一ヶ月、緑の葉がさわさわそよぐのどかな町内探索に飽きたらしい彼が言い出した。
「オレも一緒に行くっス!」
問答無用で後ろ回し蹴りでベッドに沈めてその隙に外側から鍵を掛けて部屋に閉じ込めた。
「開けてー! 開けて下さいっスー!!」
がんがんと扉を叩く音を無視する。
階下に行くと母がリョウタ君可哀想よ、一緒に連れてってあげなさいよと暢気なことを口にしたがこれも無視をする。
何が悲しくてあんな駄犬を連れ出さなければならないのだ。
(ったく、気楽なもんだよなぁ)
知らぬが仏とはよく言ったものだ。
笠松は盛大な溜息を一つ腹の底から吐き出して、玄関を開けた。
「何だ笠松、朝っぱらから眉間の皺がすげぇなオイ」
駅を出てすぐの森山と小堀がはよっすという挨拶と共にそう口にした。
わらわら降りてくる高校生は皆海常の生徒で、日曜登校であることも加えるとほぼ全員が何らかの部活に所属していることになる。
部活動の盛んな学校であるからそれも納得いって、実際笠松と森山、そして小堀の三人も強豪と謳われるバスケ部に所属していた。
自転車通学の笠松は二人の姿を認めると、他の高校生の邪魔にならないよう自転車から降りて引き始める。
「……そんな、凄いか」
「うーん、不機嫌っていうか、何ていうかなぁ?」
「そうだな、取り敢えず背中に子泣き爺背負ってるみたいだ。疲れたって感じの」
森山と小堀に続けて指摘され、ぐいぐいと親指で均してみる。
無駄なことはやめとけという森山の一言にうっさいわと返しつつ、朝から何度目か解らない溜息を零した。
「……最近、寝不足でよぉ」
「シまくって」
「……何、悩みごとか何かか? 珍しいな、幸が眠れないほどって」
笠松に無言の裏拳を顔面に食らい悶絶している森山に同情の眼を向けつつ、小堀が「相談乗れることなら、乗るぜ」と申し出てくれる。
長男肌の小堀は笠松の心のオアシスだ。思わず抱き着きたくなる心をぐっと抑えた。
「や、悩みごとっちゃあそうなんだけどさ……、ん、サンキュな、小堀」
(こればっかりは相談できねぇわ)
流石に、一般男子高校生に「淫魔に憑かれた」などと言ったら、即座に何処ぞの病院での診察と治療を薦められるだろう。
百万歩譲って「淫魔って何」と聞いてきてくれたとしても、そこで「ヤローが毎晩キス求めてくる」と口にしたらその道に目覚めたとしか思われない。
(――でも、いつまでも引き摺ってるわけにゃいかねーんだ!)
今年、笠松はバスケ部の主将を任された。
それなのにこんな瑣末事――ではないのだが――に気を取られている場合ではない。
今年の夏、笠松にはやり遂げなければならないことがあるのだから。
校門までの十分もない道、その間にきっちり頭を切り替えなければと思うのに、校門に近付けば近付くほど、何故か喧騒が増していった。
集中できないことはないが、しにくい。
「何だろうな、これ」
「さーねー。主に女子が騒いでるみたいだけど……」
「……誰か来てるのか…………」
森山と小堀の会話すらも、段々暈けてくる。
呼吸を整えつつ、そうして笠松は意識を清明にしていく。
自身を悩ます一切を一度拭い去り、そう、後少しで一点の曇りもない、青天に似て澄みきった頭に切り替わる、そのときに。
「――――笠松、さん!!!」
霹靂、だった。
「――で、どういうわけか教えてもらおーじゃないか、黄瀬君よ」
「う、あの、そのスね」
「お前には今日家に居ろと、そう言ったはずだったよな?」
「や、言ったっていうか問答無用で回し蹴り……」
「言ったよな!?」
「……っス……」
体育館裏で笠松は仁王立ちという言葉が相応しい雰囲気と形相で、自分より上背のある男を詰問していた。
見上げる形になってはいるが、相手が背中を丸めているので本来の身長差が多少緩和されている。
金の髪がきらきらして眩しく、その日本人離れした髪の色以上に眼を惹く端正な顔に浮かぶ情けない表情に嘆息する。
だが、それで絆されてやる笠松でもない。
「ったく、朝っぱらから余計な手間を掛けさせてくれやがってよ……」
朝、校門の前で尋常じゃない女子が群がっていた原因――それがこの男だった。
イコールで笠松の集中の邪魔をしてくれていた喧騒の原因でもあった。
所謂ミーハーな女子生徒だけではなく、満遍なく女性――中には男子生徒もいたようだったが――の注目の的になるに留まらず、急遽ハーレム作ってみましたといわんばかりの人だかり、もとい、女だかりの中でやけにきらきら輝いていた。
それもそのはず、仮にも淫魔らしい彼にとってはご馳走が自ら足を生やして駆け寄ってきているようなものだろう。
鯛のお頭に足が生えていたら怖いが、黄瀬の周りにいるのはいたって普通の人間の女だから、尚更その笑顔も輝くというものだ。
出会ったばかりの頃の黄瀬ならば、そうして誰彼構わずキスをしては骨抜きにしてあっという間に死屍累々。
足元には精気を吸い取られた哀れ女達――そう、一応主食は女に限定しているらしい――がいたはずだ。
そうなっていなかったのは、まさに笠松の身を挺した黄瀬との約束事があったからだ。
だからどうだか知らないが、黄瀬は姿が見えずとも笠松がいることを正確に感じ取ったらしい。
笠松さん、笠松さんと校門でよりによって人の名前を大声で発してくれたものだから、先ずその時点で無視をするという選択肢を潰された。
何、知り合いか、と問うてきた小堀に対し返した笑みが引き攣っていた自覚はある。
あぁと言葉尻を氾濫直後の川のように濁しながら、せめてこのまま穏便に通り過ぎられればと思ってみたものの、所詮叶わぬ夢だった。
『笠松さん、オレちゃんと言いつけ守ってたっスよ! 誰も食べ――……』
最後まで言わせるはずがなかった。
投げつけたのはバスケットボール入りショルダーバッグ。
もう少し角がしっかりあるものならば良かったと、投げつけた後に思ったがそれはまた別の話だ。
『っぶぉわっ』
妙な悲鳴を上げて顔面でそれを受け止めた黄瀬は、両手で顔を覆ってその場に蹲り、震えていた。
その様子がよく見えたのは、彼の周りに群がっていたはずの女子生徒たちが、素晴らしい反射神経でショルダーバッグを避けたためだった。
まるで海を割ったモーゼよろしく、女子の海のど真ん中をずかずかと進んだ笠松が、じゃり、と黄瀬の前で立ち止まる。
それに主人の帰宅を喜ぶ犬のように無邪気に輝いた顔を上げた黄瀬は、そのまま固まった。
それもそのはず、笑う笠松のこめかみには針で突付いたら噴水のように吹き出るだろうくらいにふっくらと、そしてはっきりと青筋が浮いていたのだから。
心なしか、まとう空気も悪魔の黄瀬よりも禍々しく重いものになっていた。
周囲の女子は突如現れたモデルかと思えるほど端正な顔立ちの男が、これまた突如現れたバスケ部主将の前でしゅんしゅんと震えるチワワのようになっていく様に眼を白黒させていた。
躰は笠松の方が小さいのだが、その迫力は圧倒的だった。
『……あ、の』
腹の底から絞り出した精一杯の声がそれだったのか、黄瀬はその後は口をぱくぱくと金魚のように開閉させるばかりで何も言わなかった。
笠松は暫くその姿を見下ろし、厳かに口を開いた。
『…………来い』
『………………っス』
こくこくと赤べこよろしく首を振り、立ち上がった名も知らぬ彼の姿が、死刑台に向かう人間のそれだったと後に語ったのは、この一部始終を小堀と共に見ていた森山だった。
「――まぁいいわ。帰れ、お前」
組んでいた腕を解き、犬を追い払うが如く手を振る笠松に、黄瀬はそんな、と情けなくひしゃげたような声を上げた。
「だって、オレ暇なんスもん。他の子食べていいって言うなら、遊んで回りますけど、でも駄目なんでしょ?」
「少なくともオレの眼が黒い内は勝手な真似はさせねぇ。オレに見つかったことを神か仏にでも呪うんだな」
「……オレ、一応悪魔なんで、既にそれに呪われてるっていうか……」
「そういうお前らの内部事情もとい背景はどうでもいい」
泣き言をぴしゃりと撥ね付けて黄瀬を睨むと、むぅと唇を尖らせる。
昨晩笠松の精気を食べたお陰でふっくらとして艶やかな唇が、逆に忌々しい。
笠松はその所為でまた気を失うように眠ってしまったのだから。
キス一つでそこまで骨抜きにされること早数回。
その度に積もっていくのは怨嗟と羞恥で、現在は前者が少々リードしている。
加えて今日のこの始末、怨嗟に憤怒も追加された。
しかしながら、これから部活がある身。
これ以上の詰問はやめ、帰宅後の制裁で全てを爆発させることを笠松は決めた。
先ず、二日間ほど絶食させよう。黄瀬は苦しみ笠松は健康的、まさに一石二鳥。
僅かに口の端を上げた笠松の、その些細な表情の変化を黄瀬は見逃さなかった。
敏く彼の思考の流れと着地点に見当をつけると、先までの同情を請うような眼から一転、挑発するようなふてぶてしい眼差しで言った。
「……いーんスか、オレを帰しちゃって」
「あぁ?」
「だって、オレ別に笠松さんと契約してるわけでもないし、捕らえられてるわけでもないし。今オレが笠松さんの言うこと聞いてんのって、完全にアレっスよ、善意スよ? 別に約束守る必要なんてないっていうか」
「……何が言いたいんだよ」
悪魔の癖に、善意などと白々しく口にする。
その言葉の背後にあるものに薄ら寒いものを感じながら、笠松は黄瀬の視線を跳ね返す。
「家に帰ったらお母さんと二人きりかぁ。笠松さんのお母さんて美人スよねー。健康的で裏表なくて、躰もいい感じに脂乗ってて。あぁいう穢れのなさそうな人の精気って美味しい――……」
最後まで言えなかったのは、笠松に胸倉を掴まれて壁に叩き付けられたからだ。
容赦なく壁に打ち付けられた肩甲骨が、ごりと軋んだ。
「……人の母親に手ぇ出そうってのか、クソったれ」
ぎりと両手で締め上げても、黄瀬は薄く笑っている。
普段笠松の鉄拳に泣く姿がまるで嘘のようだった。
笠松の両手首を、子どもどころか赤児でも扱うようにまとめて掴んで離させてしまう。
「……笠松さんも知ってんでしょ、何も命まで取りませんって。オレ器用なんで、キスだけで精気奪えるし。――唯、あんまり笠松さんがオレにそういう態度取るなら、実際に頂いちゃってもしょうがないスよね?」
「い、頂くって……!」
「――こういうこと、スよ」
「ってぇっ」
くるりと躰を反転させ、今度は笠松が壁に押し付けられてしまう。
掴まれたままの両手首は頭上に持ち上げられ背後の壁に縫い付けられる。
「何すんだよっ」
吠える笠松を無視して、黄瀬は悠然と笑むと空いた手でそろり、笠松の下腹部を撫でた。
「――っ!?」
ぞわりと全身が粟立ち、見開いた眼に映ったのは心底楽しそうな黄瀬の笑顔。
お気に入りの玩具で遊ぶ前の子どものようにきらきらと眼が輝いているのに、その奥には獰猛な獣の無邪気な嗜虐癖を覗かせている。
捕らえた獲物を、甚振って追い詰めて、飽きたら殺して食ってしまう、遊戯ですらない、残酷な手慰み。
にいたりと孤を描く唇が笠松の頤に触れ、そのまま柔い線に沿うように耳の下の窪みに落ちる。
その間にも手は下腹部を這い回り、時折間違ってしまったかのようにシャツの合わせ目に指を差し込んでくる。
尖った爪先で引っ掻くようにへそよりも更に下を掻かれ、こそばゆくて身を捩ろうとすると、足の間に身を割り入れられた。
全身で壁に押さえつけられ、そうして気付いたのは下腹部に触れた硬いものの存在だった。
「……っ黄、瀬、」
見上げた自分を、見下ろす顔。
逆光になってはいるが、その眼が滑る欲に濡れているのが解った。
そこで初めて、笠松は自分が今どうしようもない危機の只中にいることを知る。
そうだ、こいつは悪魔だった。しかも、人の精気を糧にする淫魔だった、と。
黄瀬に取り憑かれた後に調べた。
淫魔というのは夢の中で淫らな夢を見せて、そして精気を奪う。
もしくは、雄の淫魔は人間の女に自身の精液を流し込んで子を孕ませるのだと書いていなかったか。
――しかし、先に黄瀬は「実際に」と言い、そして笠松に欲情している。
夢の中ではない。女でもない。
それでも、下腹の熱が何なのか、どうしてそうなっているのか、解らないはずがない。
「やめ、黄瀬、やめろ……っ」
声が震えた自分を情けないと思う前に、早くこの状況から抜け出すべきだという何処からかの声に、笠松は唯従う。
やめろ、黄瀬、やめてくれと懇願する声に、しかし黄瀬が益々酷薄な笑みを深めていく。
黄瀬には解っているのだ。
所詮唯の人間の身で、悪魔たる自身に敵うはずがないのだと。
だからこその余裕、甚振る手でズボンの上から笠松の足の間のものをやんわりと揉む。
ひっと咽喉の奥で潰れた笠松の声は普段にはけして聞けないもので、気を良くした黄瀬は、赤くなった目許をちろり舌先で舐めた。
「どうせなら、このまま頂いちゃってもいいんスけど、ねぇ」
「あー、それは止めて欲しいわ。今日の部活源太いないから笠松に締めてもらわないといけないんだわ、な、小堀?」
「いや、先ずは止めさせるべきでだな」
暢気な声と困惑した声が何処からか降ってきた。
黄瀬も食事の寸前で完全に気を抜いていたのだろう。
力が一瞬弱まった、その隙に。
「痛ぇええええ!!?」
笠松は唯がむしゃらに、渾身の力で跳ね上げるように黄瀬の顎に頭突きをかました。
「――これでよし、と」
小堀が黄瀬を後ろ手に縛り、そっとその上体を体育館の壁に寄りかからせてから、自らも立ち上がる。
一体何のために持っていたのか定かではないが、白く細長い布は一見すると包帯のようで、それには何か書かれてもいた。
文字のようでもあり、模様のようでもあった。
「……小堀、それ何?」
笠松の一撃により眼を回した黄瀬を、手馴れた様子で組み伏せて縛り上げた小堀に並々ならないものを感じる。
笠松は中学からの付き合いでもある友人の見てはいけない一面を見てしまったような気がして、居心地が悪かった。
「ん、これか? ま、一種のお守りっていうか、神社で言えば注連縄簡易版、警察ドラマで言えばキープアウト――立入り禁止テープみたいなもんかな、森山?」
「そーだなー。言い得て妙かもしんないわそれ。どっちかってと、出て来るの禁止テープだけど」
「――って何なんスかアンタら!」
笠松の心を奇しくも代弁してくれたのは黄瀬だった。
器用にバランスを取って立ち上がると、ぐいと小堀に詰め寄ろうとする。
だがその前に、胸元を掴まれ躰を反転させられ、眼前には笠松の顔。
「――はい、幸そこまで」
握った拳が黄瀬の頬を抉る前に、小堀に手首を掴まれてしまう。
最大速度に乗る前の拳を止めることは容易い。
攻撃を止められて反射的にだろう、ぎりと笠松に睨めつけられた小堀は、宥めるように「幸」と再度名を呼ぶ。
「後ろ手に縛られてる相手を一方的に殴りつけるなんて、らしくねぇな」
「うん、それお前がやったんだけどね」
笠松の背後にひょっこり移動していた森山は、振り向かれる前に羽交い絞めにしてしまう。
「っ森山、何すんだ!」
「強制隔離ー」
ずるずる踵を擦る笠松の抵抗虚しく、小堀と黄瀬から引き離されてしまう。
「離せ森山! こういう馬鹿野郎には鉄拳教育が必要なんだよ! よりによって人の母親に手ぇ出すなんて脅しする奴があるか!!」
「まーまーまー、オレとしてはむしろ今までよく出さなかったなぁって……」
「森山!」
ぎりと振り向いて森山を睨みつける笠松の眼は怒りに煮え滾っている。
これは随分と腸煮え繰り返っている状態だ。変に刺激するととんだとばっちりを受けかねない。
流石に分が悪いと感じ、森山は肩を竦めて「悪い悪い」と謝る。
しかし、尚も笠松を解放することはない。
今ここで離せば、被害者が二人に増えるだけだ。
ふーふーと気性の荒い馬よろしく、鼻息荒く攻撃の意欲を見せる笠松に対し、黄瀬は何事もなかったようにしれっとした顔でその様子を眺めていた。
「元気っスねー、本当」
「全くだな。取り憑かれてるってのに、あんなに元気だと拍子抜けするよ」
「――……アンタ」
金の眼を眇めて小堀を見る。
瞳孔がくいと開いた、敵かどうかを見定める眼に臆することなく小堀は笑った。
「大丈夫、少なくともオレにはお前を祓うような真似できないから。あぁ、でも」
幸に言われたらそれなりの対応はするつもりだけど。
付け加えられたその言葉に、黄瀬は暫し探るように小堀の横顔を見つめる。
その視線を、まるで射抜くよりも見透かすようなそれだと小堀は思った。
小堀自身、こういう存在に面と向かって遭うのは初めてだった。
それとなく鞄に滑り込ませておいたものを使う日が来ようとは、人生何があるか解らない。
「――アンタ、何者、とは聞かないスけど。随分用意がいいスね。こんなの、普段遣いのもんじゃないでしょ」
「備えあれば憂いなしっていう諺があってな」
にっこり笑んだ小堀を胡散臭いものを見るように一瞥し、折角ご馳走食えると思ったのにと黄瀬は溜息を零した。
「もうちょっと後に来るくらいの心遣いってのはないんスか」
「――ふざけたこと抜かすんじゃねぇ!! 勝手なことばっか言ってんとその小綺麗な顔面お岩にすんぞ!!」
「お岩さんに謝れ笠松ー。未だに四谷怪談を扱う際にはお岩さんにお参りに行くってくらいお岩さんは強力だぞー?」
「そんなん知るか!!」
「ってかお岩にするよりも前に、お前これどうすんの? 家に帰したらそれこそだぜ。だったら大人しくここにいさせた方がよっぽど安心だし安全じゃね? 普段犬の恰好させてるみたいだし、そうすりゃいいじゃん」
「――……お前、どうして」
どうしてそれを知っているんだ、と続けようとして、そこで漸く笠松も気付いた。
何も知らない、何も言っていないはずの小堀と森山の二人が、まるで何もかも知っているかのような口振りでいることに。
そう、笠松と黄瀬の関係のみならず、黄瀬の正体までをも知っている上での対応をしていることに。
普通では到底考えられない存在をさも当然のように扱う二人に、笠松の全身が粟立った。
「――お前ら、一体何モンだ?」
背後の男を振り向くことも、眼の前に立つ男を直視することもできない。
本当にこの二人は、友人の小堀と森山、なのか。
血の気が下がっていくのが、解った。
「……やだなぁ、笠松。そんな怖い顔すんなよ。ほおーらいつもの森山君だよー?」
ぱっと笠松を解放した森山は、両手を顔の横でひらひらさせる。
笠松はそれを見て力強く頷く。
「うん、全くもっていつもどおりの胡散臭くて女大好きの森山に見えるんだけどよ」
「……その認識のされ方もすげぇ傷付くわー」
もう少し他の言い方ってもんがあるんじゃないのかとぷんすか怒る森山を相手にしていたら時間の無駄だ。
即座に切り替えて小堀に質問を向ける。
「なぁこぼ――……」
「駄目だ笠松、そういうネタ晴らしはオレの役目だ! 間違っても地味な小堀がそんな派手な仕事をしちゃいけない! 地味な男には地味で在り続けなければならないという義務がある!」
毅然として言い放った森山を、呆れ混じりの眼差しで黄瀬が見つめた。
「……あの人もなかなかいい性格してるスね」
「お前に言われれば森山も本望だと思うよ……」
悪魔にいい性格と言われるのが嬉しいのかどうかはさておき、小堀は自分の隣に立つ男が思いの他静かにいることを不思議に思った。
仮にも悪魔なら、本業でも何でもない小堀が施した呪など直ぐに破れるだろうに。
その手首を戒めるものにちらり視線をやった。
さほど強く縛ってはいないが、きっと何かと不便だろう。
「――あぁ、これもう解いてもいいスか?」
「……どうぞ?」
どうもっスと言いながら、金髪の色男がその束縛を呆気なく霧のように散らせたのを見て、苦笑するしかなかった。
「子ども騙しにもなんなかったな」
「いやいや、結構びりびりきてたスよ、手首に。雷か何かの呪でもかけてあったんスかね」
「さぁ、どうだろう? 実際、オレは門外漢だから」
はは、と笑う落ち着いた雰囲気につられて、黄瀬も小さく笑う。
門外漢と言いつつも、無駄な動き一切なく自分を縛り上げたこの男が、一筋縄ではいかない人間だということくらい黄瀬には解っている。
それでもついお茶菓子の一つでも勧めたくなる程の緊張感のなさは、確実に彼のまとう空気の穏やかさによるものだった。
黄瀬もこちらに来て随分経つが、どうにも人間界というのはえてして流れが速い。
人の動きも時間も空の雲すら速く流れているように感じる。
今までが時間と無縁の暮らしだったからこそ、「時間が流れる」ということを当たり前のように考え、受け入れている人間に驚いたのも既に懐かしい記憶だ。
「――ってそこの二人何歓談してんだこら! オレが解説始めらんないだろうが!」
「そうだぞ小堀! 黄瀬は腐っても悪魔とかいうふざけた野郎なんだから気抜くな! そいつ老若男女構わずキスして精気っての奪う緩い下半身のタラシ野郎だぞ!! ってか黄瀬も近寄るな、オレのオアシスが澱むだろうが!!」
「何だと!? お前のオアシスはオレじゃなかったのか笠松!?」
「ざけんな誰がオアシスだお前なんざ夏の湘南の海だ! にわかサーファーとギャルでうるさい夏の湘南の海だ!!」
「湘南に謝れ笠松――!!!」
――その穏やかな空気をぶち壊してくれた二人に、黄瀬は笠松さんってあんなキャラだったっけ、と眼を点にし、小堀はまた始まったと更に苦笑を滲ませた。
笠松と森山の終わりの見えない言い争い、もといじゃれ合いに終止符を打つのは小堀の役目だった。
――幸、森山!と歯切れ良い声が響いた。
「そろそろ部室開けなきゃいけない時間だからな! オレが先に部室開けとくから、説明終わったら直ぐ来ること!」
いいな、と念を押す笑顔に、ぴたりと笠松と森山が制止する。
確か他所の国で犬と猫の争いっていう慣用句があったなぁ、と普段黄瀬を駄犬呼ばわりしている笠松が知ったら驚きそうなことを考えつつ、黄瀬は小堀の迫力に押されてこくこく頷く二人を眺めた。
取り敢えずこの三人の力関係として、小堀が一番上なのかと把握する。
笠松森山はその下でじゃれ合っているのか。
唯、小堀は上というよりも縁の下の力持ちのような存在という方が余程相応しいような気もした。
だからこそ安心してあの二人はふざけあえる。
釈迦の掌の上の猿、というとまた意味は違ってくるだろうけど、と他愛のないことを黄瀬はつらつら考えて、笠松と森山が仲良く小堀を見送る様を見ていた。
ところどころで故事成語・慣用句・諺格言を思考に挟む――これもまた、笠松が知ったら学がなさそうなのに、と驚く黄瀬の知られざる一面だった。
伊達に長生きはしていないのだ。
もっとも、笠松の前では欲に忠実な犬でいた方が楽だというのも多分にあるのだが。
「――……で、森山、説明してくれんだろ」
「何かこうなったら盛り上げるのも虚しいから言っちまうけど、単純な話オレんち神社で小堀んちが寺ってだけっていうか」
「はぁ? オレ小堀と同中だけどそんなん初耳だぞ!?」
「何か父方がそうらしいぜ。でも小堀の父親は次男だからって普通にサラリーマンだって言ってた」
「……お前は」
「オレはー、母方の叔母の嫁ぎ先の義弟の嫁さんの従兄弟のはとこが養子縁組した先の祖母さんのお兄さんが神主さんでー」
「つまり遠縁に神主がいる、と」
「オレの努力水の泡にすんの早くね?」
「部活出なきゃなんねぇだろーが」
っていうかそんだけの説明で何でここまで引っ張ってんだよ、とにべもない一言に森山はおよよと泣き真似をする。
それに突っ込むことなく、笠松は後一点、気にかかった部分があったのを思い出す。
「後そうだ。お前、何で、黄瀬が家で犬の姿してるって解った?」
「見るからに犬じゃん――ってそんな眼で睨むなよ。毛、だよ。毛」
「毛? 金髪があれか、ゴールデンレトリバーっぽいとかか?」
(それってやっぱり笠松さんも見た目犬だって思ってるってことスよね……)
笠松の返しに内心黄瀬は嘆くも、それが当人に届くことはない。
森山は笠松の眼の前で立てた人差し指を左右に振った。
「違ぇよ、さっきお前に裏拳食らったとき、袖に動物の毛――金の毛がくっついてたの見たんだよ。で、校門来たらでかい犬みたいなのがお前の名前呼んでるし、金髪だし、挙げ句『食う』だの何だの口走りそうになってお前にボコられてるし、前から何か笠松の様子がおかしいなぁと思ってたけど、全部が一本の線に繋がったっていうか?」
「……ボコっちゃいねぇよ。ってかお前、よくもまぁ」
そこまで完璧に洞察しきった森山に尊敬の眼差しを送ってしまう。
普通の人間だったら発想が飛躍しすぎだと思う。
だが、遠縁とはいえ神様づいている人間が口にするとやたら説得力があった。
「――ってなわけで、お前は犬になっとけ。で、体育館の入り口で永遠に伏せしてろ」
ぐるりと視線を黄瀬に移し、笠松は凛とした声で言い放った。
急に声を掛けられたものだから、黄瀬は一瞬返事が遅れた。
「――それ、オレに拒否権は……?」
黄瀬の恐る恐るといった態の言葉を、笠松はふんと鼻で笑い飛ばした。
普段と違い、腹に一物抱えた笑みを浮かべる。
その背景に効果音がつけられるならばごごご、という地響きが一番適しているだろう。
あのうにょうにょなみなみした線の連なりも必須だ。
そんなことを傍目から見ていた森山は思った。
「あると思ってんならお笑い種だな。後お前家に帰ったら覚えてろよ。ぎったんぎったんにしてやる」
「笠松それジャイアンがのび太によく言う台詞だぞ……」
森山の茶々を無視して笠松は黄瀬に背を向ける。
笠松は間違ってもこの黄瀬という男に「心の友よ!」と叫び抱き着くことはないだろうが。そんなことがあったら悪魔に取り憑かれたことよりも大変な事件だ。
そう、ミュージカル役者志望の道半ばでこの世を去った人間が取り憑かない限り、恐らくそんな日は来ない。
「――森山も、ほら、さっさと行くぞ!」
「あ、オレ後から行くわー」
「んだと!?」
ぎっと睨んできた笠松の視線を、お茶漬けのようにさらさらと流して森山は「オレ、一度でいいから変身シーンって見てみたかったんだよねー」と嘯いた。
「は?」
「だってこいつ、今から犬になるんだろ? そのメタモルフェーゼの過程を是非見てみたいと。そう思うわけだ」
昔美少女戦士ってあったじゃんと続けた森山を白眼視したのは、何も笠松だけではない。
黄瀬も生温かな眼差しを森山に向ける。
何処の時代、何処の国にもやはりいるのだ、こういう好奇心がやたらと旺盛な人間が。
「……一瞬で変わっちゃうんで無駄だと思うスよ?」
一応忠告してやるが、一瞬というのは時間にして正確には何秒だ、と即返されてしまい口を噤む。
「な、いーだろ笠松ー」
すっと移動して黄瀬の肩にぽんと腕を置いた森山は、甘えるような声を出した。
「――あー、もう、勝手にしろ! ただし練習に遅れたらお前も唯じゃすまさねぇかんな!」
「はいよー」
ったくと舌打ちを一つ零しながら、笠松はがしがし後頭部を掻くと、小堀を追いかけるように足早に去っていく。
たたたっと軽快な足音に、あんだけ重い荷物持ってよくもまぁと黄瀬は感心しながらその後姿を見送った。
「元気スねー、ホント」
「全くだなー。察するに、お前精気食うタイプみたいだけど。毎晩食ってんの? それにしちゃ元気すぎんだよなー、アイツ」
呟きに応じた森山は、横目で黄瀬に問う。
細められた眼の奥に、のらりくらりとした言葉とは裏腹な、心中を悟らせない策士の一面を見て黄瀬は視線を宙に彷徨わせた。
どこまでを察しているのか解らないが、さしあたりの範囲でなら答えた方が利益は大きい。
敵の手の内を知るのも大切だ。
「まぁ、質がいいんで二日にいっぺんくらい頂いてるっスねぇ。一応食事なんで、一日三食欲しいのも本音スけど」
「でも、二日に一度か」
「……何か、引っ掛かることでも?」
「だってお前、タダの悪魔じゃないだろ。何で理性あるんだよ」
(……やってくれるスねぇ……)
タメも何もなく本質に切り込んできた森山に、内心舌を巻いた。
森山は内心を気取られないようにか、にやりと口の端を上げて笑んでみせる。
それを図ったのか、太陽を背にし逆光になった顔は、悪魔よりも悪魔らしく何かを企んでいた。
「黄瀬、だっけか? 最初っからおかしーなぁって思ってたんだよ。何で素直に犬の姿してんのかとか、おばさんと二人きりのくせに手出さないのかとか、――笠松の言うこと聞いてんのか、とか」
一つ気になり出すと芋蔓式に気になってさぁと語尾を緩く伸ばす森山に、黄瀬はふぅと息を吐くように小さく笑った。
これはどうあしらえばいいのだろうか、と思案する。先ずは軽く探りを入れてみるべきか。
「……悪魔にも理性ってあるんスよ? 漫画とかでもよく描かれてるじゃないスか。それに、最初に言ありきって言うでしょ、世界的ベストセラーでも。悪魔にも言葉を解する理性くらいあるっていう証拠ス。じゃなきゃ人を誑かすこともできないでしょ?」
「それが文字で編纂されて以降は、だろ。人を言葉で誑かすなら詐欺師だってそうだろ、悪魔の特権じゃねーの。――こちとら、眼の前に本物いて、そんなコミカライズされてる悪魔の話してないわけで。エクソシストに出てくる悪魔考えてみ? あれが神父と交渉したり、酒飲んで語り合ってる場面あったら名作扱いされなかっただろー。まぁ悪魔って言ってる時点でコミカライズされてんだけど」
「……オレが言うのも何スけど、罰当たりっスねぇ」
苦笑するしかない。
笠松の身近にここまで突っ込む人間がいるとは思いもしなかった。
現代日本の高校生が皆が皆こういうわけではないだろうが、それにしてもこの森山という男は例外でおかしいと思う。
神主の遠縁と言ったか、道理でにおいもしないわけだ。
それにしても、と黄瀬は不思議に思う。
「随分詳しくないスか? 将来神主にでもなる気スか?」
「その気あったら大学絞られるだろ。オレはもっと煩悩に塗れて生きる予定だし。唯、憑依霊でもないのにそこまできっちり理性働かされちゃうと、どんだけ西洋被れだって言いたくもなるっていうか?」
「……アナタこそ、唯の高校生じゃないでしょ?」
ここまでくると呆れてもいいように思う。
漫画や小説で入手したにしては知識が偏っている。
その上彼の言うところの「コミカライズされていない悪魔」なんて、考え着くところそれは既に楽しめる存在でも何でもないことは自明の理だった。
「――森山さん、でしたっけ」
黄瀬は初めてまともに森山と向き合った。
自分より頭半分低い身長の男を見下ろす。
先に笠松に向けていたような温もりも懐こさも消え失せた、思わず震えそうな底冷えした視線に刺され、森山はごくりと固唾を飲む。
「何者スか、アンタ」
聞き慣れた体育会系の敬語のはずなのに、ちっとも敬われていないのが解る。
足首を絡め取り、腸を捻り上げ、首を絞めるような、地を這い躰の底に響く声に、咽喉が潰されて声が出なくなりそうになる。
これが悪魔か、と思考が反芻するばかりで、ひゅっと細く息を吸うのが精一杯だった。
「……唯の、一高校生だよ」
それでも何とか絞り出した言葉を、黄瀬は吟味するように森山を色のない眼で見つめる。
唯、見つめる。
探るのでもなく疑うのでもなく、見るだけの機能を働かせて森山にその眼を向け続ける。
何秒、何分経っただろうか。
見るだけの機能の眼が、ふっと和らいで温度を持つ。
「……オレも、唯の悪魔スよ。それ以上でも、それ以下でもないス」
森山から視線を外して首筋に手をやった黄瀬は、「で、見てくんスか?」と声を掛けた。
「……見るって」
「オレが犬に変身するとこっス。あんま見ても意味ないんスけど」
さっき言ってたでしょうと揶揄するように左の口角だけくいと上げた黄瀬に、冷えた肝を宥めるように腹に手を当てながら森山は苦笑して返す。
「――や、オレ男の着替えってか変身には興味ないから」
「でしょうね。そういうタイプじゃなさそーだし。早く行った方がいいスよ」
「お前も早く来るんだな。笠松、時間にはうるさいから」
「知ってるっス。いっつもオレが寝てるとこ尻尾踏んづけて起こすんスから。いつまでも寝てるなって」
口振りはぷんすかと怒っているそれだったが、声音も眼差しも楽しくて仕方がないというような明るいものに変えて、黄瀬は笠松さん暴君スからと続けた。
「そのくせオレが腹空かしてるとちゃんと食べさせてくれるお人好しなんスよ」
今し方底冷えするような声と感情のない無機質な眼差しをしていた男と同一人物だとは思えない。
その柔い表情に、森山は百面相もいいところだと心中で独り言ちた。
この感情の変遷の激しさにはついていけない。
いや、感情というよりも、本能と理性の切り替え、というべきだろうか。
ここまで頻繁にスイッチのオン・オフを繰り返されるとどちらが黄瀬という存在の本来在るべき姿なのか解らなくなりそうだ。
そもそも、名前ですらついさっき知ったばかりだったのだが。
「――それじゃ、また後でな。あぁ、ちっちゃい姿の方がいいぜ、大きいと邪魔になるから」
「はいっスー」
ぐだぐだと長くなりそうな思考を断ち切って、部活に出るべくショルダーを肩に掛け直す。
軽く手を振れば、応えて手を振って見送りまでしてくれる黄瀬に、犬の耳と尻尾の幻覚を見つつ、笠松も大変なのに憑かれたなぁと森山は心底ここにはいない友人に同情した。
その後、言いつけ通り小型のゴールデンレトリバーの姿で部活開始直前に体育館入り口に現れた黄瀬は、先ず無類の犬好きだった早川に構い倒された。
「主将の犬スか!」
腕の中に抱き上げてぐりぐりと頬を擦り寄せてくる早川の暑苦しさに耐えかねて、きゃんきゃんと抗議と救援願いを兼ねた声で黄瀬は笠松に向かって鳴く。
(笠松さん、この人暑苦しい! どうにかして下さいっス!)
その必死な姿も、鳴き声の意味も正確に解っているだろうに、笠松はにぃやりと笑って早川に言い放った。
「そいつ凄く甘えたがりでなー、早川、甘え溜めさせてやってくれよ。あぁ、他の奴らも犬大丈夫なら是非、是非可愛がってやってくれ。本当そいつスキンシップ大好きでなー。ははは!」
(……な、何て恐ろしいことを……!!!)
幾ら精気を食べる種族とはいえ、黄瀬が好み、主食としているのは女だった。
間違っても男の、それも合間合間の休憩に汗くさいままに構い倒してくるような暑苦しい高校生男子では、ない。
「黄瀬ー、良かったなー、嬉しいだろー、ははは!」
嘘臭い反面、心からのものだと解る満面の笑みを遠くに見ながら、黄瀬は笠松に逆らうとどうなるか、それをその日の部活が終わるまで延々と、身を以て思い知らされた。
そのときの黄瀬の姿を、逆に精気を吸い取られているようだったと述懐したのは、けらけら笑う笠松と森山の隣で一人黄瀬を哀れんでいた小堀だった。