amnesia:Age 15 and 17. in Spring:2
ぽん、よりもボン。ある程度の硬さと弾力を持ったボールが跳ねる音に、まだいることを確信する。体育館の重い扉を開けると、想像通りそこにいたのは笠松センパイだった。
「――センパイ」
呼びかけると、振り向いたセンパイは驚いていた。
「何だ、お前もう帰ったんじゃなかったのか」
「そのつもりだったんスけど、何か、そのまま帰れなくて」
「何だよそれ」
汗をぞんざいに手の甲で拭うと、入るなら入るで扉閉めてくんねぇか。音がうるさいって叱られんだよ。言われた通りに閉める。
そうすると一層ボールの跳ねる音、ネットを通る音、バッシュの鳴る音なんかが響いた。
普段意識して聞かない音が、よく聞こえる。こんなに広い体育館に二人きりって、あんまりない体験だった。
センターの辺りで立ち止まって、黙々とシュート練習をするセンパイの背中を見る。
小さいと言うと本人は激しく怒るし、平均身長を上回っている時点で小さいって言えないのだけれど、バスケットって競技をやる上では不利になる躰。オレより一回り小さい背中。
ぴんとしなって、膝から真っ直ぐに上に跳んで、下からの力をそのままボールに乗せて。
リングに触れることなくネットをくぐってコートに落ちて跳ねて。一瞬だけ燃えて消えた摩擦音。
「……何か、用か」
キャリーの中の最後の一つを手に取ったセンパイは、それも今までと同じように放る。それは今までと同じように摩擦音だけ散らして入る。
あんまり澱みない流れに、当然なのかなと思う。この人にとって、幾度となく繰り返してきた動作は、骨の髄にまで染み込んで当たり前になってるのかな。
「――オレ、負けたのって初めてだったんスよ」
昨日口にしたことを、もう一度。
センパイは何も言わないでキャリーを押してゴール下に向かう。一つ二つと拾うとそこからキャリーにぽんぽん放り込んでいく。でも無視されているわけじゃないのは解ってた。
「何で、泣いちゃったのか、オレ、未だに自分でもよく解んないんスよ。っていうか泣いてるって感覚ないままだったし。何て言うのか、眼から汗が流れたって言うか」
昔一緒に戦ってた仲間と、今度は敵として戦って、負けて。
黒子っちは口数こそ少なかったけど、勝つってことに凄く純粋だった。
そんな彼が、何でいきなり部活止めて姿消して、さっきあの頃バスケが嫌いだったなんて言ったのかも解らないまんまだった。
解ったのは、黒子っちが求めていたバスケは、キセキのオレらとじゃできないって断ち切られたこと。
黒子っちのバスケに、キセキは、オレは求められていないってこと。
その瞬間に自分を襲ったのが諦めなのか悲しみなのか悔しさなのか解らなかったけど、黒子っちは、もう自分のバスケを求めていい場所を見つけたんだってのは、解って。
解ったけど、解んなくて。
何もかんも、解らないまんまで。
青峰っちに出会う前の何やっても同じだっていう渇いたとも違う、どうすればいいんだろうって心だけが焦ってカラカラ空回りしている。
何処を向いて、何をやればいいのか。解らなくて、何となく足がここに向いた。
「――んだよ、それ」
眼から汗ってイメージが怖いわ、と呆れたような言葉の選び方の割りには、声音が硬く響く。
センパイは全部のボールを片付けて、キャリーをコートの外に除ける。
そこで漸く、後輩なんだから手伝わなきゃってことに思い至って。キャリー近くの壁に立て掛けられていたモップを取ろうと駆けた。
「――いいよ、黄瀬。これはオレの個人練習なんだから」
手に取る前に、それを当のセンパイに止められて。
それでも後輩なんだからと手伝うべきか、センパイの言葉に素直に従うべきか判断に迷う。モップとセンパイを交互に見る。
どうしようかって悩んだのが顔に出たのか、オレを見たセンパイはモップを手にしてぷっと吹き出した。
「お前って、生意気なのにどっか体育会系なとこあるよな。何だ、意外に根は素直なのか?」
外見からして生意気だけど、とまで言われて、それはもうオレの髪の色とピアスと、後まぁモデルやれるくらいには見れる顔立ちを指しているんだろうけど。ピアス以外はオレにはどうしようもないことだ。
むぅと膨れっ面をしてしまって、そういうとこがお前は素直で生意気だと褒められたのか貶されたのか解らない言葉を頂戴した。
「――だから、多分泣いたのも素直なことだったんだろ」
自分が使っていた半面を丁寧にモップ掛けし始めたセンパイが、オレに背を向けたまま言った。
「人生で初めて負けたから泣いたのか、バスケで負けたから泣いたのかなんてオレには解んねぇけど、でも」
つと立ち止まったセンパイは、丁度フリースローのラインのど真ん中。顔を上げて、そこからオレを真っ直ぐに見て言った。
「お前、勝負に関しては自分が思ってる以上に貪欲なんだと思うよ。だから、負けたら素直に泣くし、自信もあるから生意気だし。つまんなそうな顔することがあんのも、つまんねぇからじゃなくて、物足りないからだろ。ウチにはキセキみてぇな、お前と対等の天才なんていねぇしな」
まぁ、そういう熱血な自分を認めるのお前かっこつけだしプライド高ぇから嫌かもしんないけどさ。
距離があるのに、真っ直ぐオレを見てるってどうして解るんだろう。
視線なんて実際眼に見えないのに、どうして最短距離でオレを見つめているって解るんだろう。
その眼に釘付けになるよりも、いっそその視線に串刺しにされている、ような。
センパイが動かないから、オレも動けない。
「黄瀬、だからお前もっと強くなるぜ。強く、上手くなる。むしろそうならなきゃお前の程度はそれまでだし、なってくれなきゃウチだって困んだよ」
「……どうして?」
「どうしてって、お前阿呆か」
今度はあからさまに呆れた顔。
はぁっとこれみよがしの溜息に、軽く顔を顰めたオレをセンパイはガキみてぇな顔すんなと叱った。
「あのな、ウチはお前の個人プレー鑑賞するためにお前呼んだわけじゃねぇんだ。新人戦、県大会に関東大会、インハイ、国体にウィンターカップ。――勝つためにお前が欲しいって思ったから、スカウトしたんだろうが。一年坊主の癖に、そこまで期待されてお前はここにいるんだよ」
言われねぇと解らないなんて、本当に馬鹿だなと零しながらまたモップ掛けを再開したセンパイを、オレはじぃと見るしかできない。
じぃっというか、ぼうっというか。言われたことで頭がいっぱいになっている。
だってオレは一番下っ端で、人真似しかできないのに。
「……オレ、は、そんなに欲しがられてたんスか?」
「二度も言わすな」
にべもない返事。端から端まで、行っては戻ってを繰り返すセンパイの後ろ姿を追いつつもう一度聞く。
「勝つためだけに、オレは求められたんスか?」
だとしたら一ヶ月もしない内に無名の新設校に負けてしまったオレなんて、期待外れもいいところだったろうに。
その問いかけへの返しには間があった。センターから始められたモップ掛け、段々オレに近付いてきていたセンパイが、ふと顔を上げた。
思いの外近い距離で。腕を伸ばせば届くような距離で。
射殺すような距離で。
「勝つってのは、お前が経験してきたほど簡単なことじゃねぇんだよ。勝つためだけに呼ばれた? 随分な自信だけどよ、そう思ったんなら思ったで、きっちり勝つための努力をして、ウチのチーム勝たせてみやがれ」
一歩分、更に詰められて。
手を伸ばされて、髪の毛をぐしゃぐしゃ掻き回された。乱暴で、遠慮のない手は熱くて。髪整えたばっかだったのに、とか思ったけど。
「――お前には、それができるよ」
何せ生意気だけど素直な馬鹿だからな。
笑う顔に何にも、文句も感謝も、何にも言えない。
いっつも眉間に皺寄せた顔しか見ていないから、細められた黒の眼が意外に温かいとか、オレに向ける眼差しが、ひよこの羽みたいにふんわり柔いものだとか、ゆるり孤を描く唇はちょっとかさついてるだとか、何かそういうことばっかりに眼が向いてしまって。
こんな顔も、するんだ。
「――おい、黄瀬、ボーっとしてんな。ここ閉めなきゃいけねぇんだから」
「っ痛!」
心にふわりと春の風が吹いた、ような。
暖かく軽やかな足取りで去っていったそれに魂まで一緒に持ち去られたみたいになって。抜け殻のように唯見つめるだけのオレの肩に、気付けの一発。瞬きの後にはいつも通り眉間に皺寄せて、ぶすっとした顔。
キャリーの隙間にモップの柄の方を突っ込んで、入り口脇の用具倉庫に向かうセンパイの後にくっついていく。
「何だよ、犬かよお前は」
モップをじゃぶじゃぶ洗いながら、後ろにくっついたまんまのオレが気になるのかおかしいのか、その声には笑いが含まれていた。
「……センパイの犬になったら、すげぇきちんと躾けられそうっスね」
「大会で優勝できるくらいに……ってか」
くつくつ笑うセンパイの背中が揺れる。
バスケットって競技をやる上では不利になる躰。オレより一回り小さい背中。
この背中に、オレは追い付かないといけない。そう思った。
小さな背中
(けれどこんなにも頼もしい)
さみしい連作