黒子のバスケ

agrypnia:Age 16 and 18. in Winter

01

ここのところ黄瀬と会えていないな。
そんな風に思ったのは自由登校期間に入った一月の半ば頃だった。
推薦で進学する大学が決まっていたから、後は躰が鈍らないように放課後は部活の練習に混ぜてもらっていた。それなのに、黄瀬とほとんど会えなかった。
そう言えば、正月に一緒に初詣に行った際――それもレギュラー連中と連れ立ってのものだったけど――、一月二月は仕事を詰め込まれたと嘆いていた。ウィンターカップが終わったからって、うちの事務所本当酷いんスよ。春には新人戦だってあるし、直ぐにインハイ予選が始まるのに。

それでも、朝練は出ているらしい。自分は朝練には顔を出していないから、結局会うことはなかった。後期試験も近いから、下手に授業を休むこともできず、結局放課後や夜に仕事を入れることになってしまうのだろう。
そうやって、「だろう」と憶測で理由を考えたのは、黄瀬と連絡を取っていないからだ。元々筆無精のきらいはあったし、更に言えば忙しいのが解っている相手に、特段の用事もないのにメールや電話をするような性格ではなかった。

黄瀬も最初こそめげずに毎日メールを送ってきていたが、返信内容のそっけなさに、送ってくる頻度は日に日に減少していき、今では週に一度ある程度だ。それも、一応用件があってのもので、当初の「センパイ好きです」というようなものはもうなかった。
自身がまだ現役の頃は部活でほぼ毎日顔を突き合わせていたし、週に一度は黄瀬の家に行っていたのだから、取り立ててメールや電話という手段によらずとも良いだろうと判断したのだろう。

そうやって年明け前の状況と比べると、今のこの状況は寂しいくらいだった。だからといって、いきなりメールのやりとりを頻繁にするというような器用さもない。気付いたら顔を合わせずに二週間経過していた。

「――センパイ、お久し振りっス!」

その日は図書館で友人に付き合っていたため、部活には出なかった。しかし、何となく足を向けてみたところ、黄瀬が着替えている真っ最中だった。
遅れての参加なのだろう。自分を見た途端に脱ぎかけのままで近付いてきたので、早く着替えろとその顎に掌底を食らわせた。

「っ相変わらずスねー」

痛いと言いながらも、久し振りに会えたことが嬉しいのか目許が緩んでいる。声を弾ませる黄瀬だったが、その語尾に若干の疲弊が滲んでいるようにも感じられた。

「随分忙しいみてぇだけど、お前大丈夫なのか? ちゃんと休んでんのかよ」
「まぁ、睡眠と食事だけはきちんと取ってるんで。後はセンパイ不足をどうにか――……」
「寝言言ってんじゃねぇよ、やっぱり睡眠足りてねぇだろお前」

こんな下らない、じゃれるような会話も久し振りだった。
ロッカーにもたれかかり、着替える黄瀬の背中を見る。筋肉が落ちているということはなく、むしろ一層引き締まっていた。部活以外でも、トレーニングを欠かしていないのだろう。

「――あ、でも、オレ今月の最終日曜だけは頑張って一日休みもぎ取ったんスよ!」
「へぇ」

これだけ部活に仕事にと励んでいるのだ、一日くらいの休暇は事務所も認めてしかるべきだ。そんなことを思うのと同時に、その一日を一緒に過ごせるだろうか。そうも思った。

ウィンターカップの開催前から今まで、丸一日を黄瀬と二人で過ごす、という日がなかった。
そんな時間も余裕も互いになかったことがあるが、久し振りに黄瀬の家に泊まりがけで行ってもいいかもしれない。

そこまで考えて初めて、自分が少しだけ浮かれていることに気付いた。折角の休日なのだから、自分に付き合わせることもない。ゆっくり躰を休めさせた方が良いに決まっている。
自分の我儘を胸の内に押し留めて、ならゆっくり休んでろと口を開くより先に、黄瀬が声を弾ませて言った。――その日ね、黒子っちの誕生日祝いで帝光の皆で集まろうって話になってて。

「もうその日空けるのに、オレ凄く頑張ったんスよ。仕事詰めに詰めたんスから!」

まぁ、流石に関東組だけの集まりになっちゃうんスけど、と続けた黄瀬の言葉に、自分が言おうとしていた言葉の無意味さを悟って飲み込んだ。

「……へぇ」

かろうじて声に出せたそんな賦抜けた相槌に、センパイ何その興味なさそうな声!とロッカーを閉めた黄瀬が振り返る。片頬を膨らませて、何ていう解りやすい怒り方なんだ。思わず笑ってしまった。
だが、黄瀬は怪訝そうに眉根を寄せた。

「……センパイ?」
「ンだよ」
「――や、何か、その」
「歯切れ悪ぃな、言いたいことあんならはっきり言え」

先を促しても、黄瀬は上手い言葉が見つからなかったのか、きゅっと口を噤んでしまった。
さっきまで弾んだ声で浮かれた空気を醸し出していた男が急に黙り込んだ所為で、部室の中に一瞬にして沈黙の帳が下りる。

ただただ静かな部室は、普段喧しいだけにどうしてか酷く居心地が悪く感じた。
一緒にいるのが、その喧しさに拍車をかける一人だったから、余計にその静けさが際立った。
まるで彫像のように動かなくなった黄瀬は、しかしこれから自分と違って部活に出なければならない。いつまでも固まらせておくわけにはいかなかった。

「――ほら、さっさと部活行けよ。練習時間がどんどん短くなんだろーが」

がつりと肩を殴ると、漸く黄瀬の動きが戻った。緩慢にゆるり首を動かして視線を合わせてくる。その眉間にはまだ浅く皺が刻まれている。

「センパイ」
「だから、何だよ」
「…………何でも、ねっス」

一度雑念を払うように頭を振って、そのまま下りてきた顔の近さに避けることもかなわなかった。触れたのは一瞬、表面と表面を軽く張り合わせただけ。

「センパイも、体調には気を付けて下さいっスね?」

額と額を突き合わせた至近距離、吐息が混ざり合うくらいの距離で名残の雪のように淡く笑った黄瀬が、一瞬泣きそうに見えたのはどうしてだったのだろう。





刺すように
(それは思いの外に鈍く痛む)


02

「何で火神っちまで来てるんスかー」
「っせぇな、しょうがねーだろ。たまたま黒子に用があって来たら、丁度家の前であの桐皇マネに捕まったんだよ」
「で、緑間っちも何でまた……」
「しょうがないのだよ。高尾との先約を無碍にできないのだよ」
「オレもお祝いしたかったしー?」
「挙げ句紫っち……」
「えー、だって室ちんもタイガに会いたいって言ってたからー」
「ごめん、迷惑かなと思ったんだけど……何だったら、タイガは連れ出すよ」
「あ、や、大丈夫ス! ちょっと予想外の面々だったんで吃驚しちゃっただけっスから」

帝光面子には見られないオレ相手の謙虚な態度にしどろもどろして、氷室さんの前でぶんぶん手を振る。

黒子っちの誕生日祝いってことで、久々に元帝光で集まろうって話になって、いざ待ち合わせの場所に来たら、異様に膨らんだ集団がいた。
黒子っちとの待ち合わせより一時間前に皆で集まってプレゼントを買おうってことになってたから、当然そこに黒子っちはいない。
その所為もあって、兎に角異様に図体のでかい面々が集まっているから若干邪魔になってて。青峰っちを呼び出しに行っている最中の桃っちにメールで連絡を入れてから、マジバに移動する。
関東圏の面子だけって話だったけど、紫っちも、丁度こちらに遠征に来ていたらしく、ならって話で急遽一緒にお祝いすることになった。それはオレも把握していた。

――なのに。

「だったらオレだってセンパイ呼べば良かったぁ……折角の完全オフだったのにー……」

まさか皆がそれぞれ友達連れてくるとは思わなかった。互いに知り合っている仲ではあるけど、ここまで自由に振る舞われるとは。
一角を占めて、ポテトを摘みつつ嘆くと、真向かいからそーだよと同意された。

「涼ちゃん、何で笠松さん呼ばないんだよー! 色々聞きたいことあんのにさー」
「いきなり詰めてきたっスね!? ってかよくセンパイだけで笠松センパイだって解ったっスね!」
「涼ちゃんに付き合ってくれそうなセンパイっつったら笠松さんくらいしかいなさそうだし」
「酷!!」

秀徳のポイントガードの高尾クンの言うことは半分くらい合っている。
でももう半分は、単純に笠松センパイがオレの恋人で、ここのところ全然二人きりになれないどころか、会えていなかったっていうのもあって。
一人だけ三年生だから最初は戸惑うかもしれなくても、センパイも何だかんだでわいわいと騒ぐのが好きな人だし、兄貴肌だから結構馴染んじゃうだろう。童顔だし。むしろ年、黒子っちと並んで見られそうだし。

「――ってか涼ちゃんって恋人より友達優先するタイプだったんだねー。ちょっと意外」
「へ?!」

いきなり恋人なんて言葉が持ち出されて、咀嚼の途中だったのに、思わず口の中のものを飲み込んでしまって咽喉に詰まる。よりによってポテトを食べているときに何てことを言い出すんだこの人。
そもそもオレ、笠松センパイとのこと誰にも言っていない。
解っている人は解っているかもだけど、少なくとも高尾クンには解らないはずだ。

「や、え、恋人って?」

水を飲んで流し込んで。慌てているのを誤魔化そうとしたけどほぼ無意味だった。
高尾クンがけらけらと笑って、それでも大丈夫と声をかけてくれるのが優しい。キセキにはない優しさだ。

「だってこれ久し振りのオフなんでしょ。だったら普通恋人と一緒にうふふあはは的な?」
「お前は何を言っているのだよ、高尾」
「あ、涼ちゃん恋人いないの!? モデルのくせにいないの!?」
「モデルにどんなイメージ抱いてるんスか? 恋人なんているに決まってるじゃないスか!」

憤慨して返すと、背後から声がした。

「――え、きーちゃん恋人いるの!?」
「そいつは余程のバカかブリーダーなんだな」

桃っちと青峰っちが連れ立ってそこにいた。ときに青峰っち、遅れてきたくせに何て言い様だ。
だがしかし、笠松センパイがトップブリーダーである事実はオレも否定しがたい。オレも大分躾けられたという自覚はある。

「えー、それじゃ折角のお休み使っちゃって悪かったかなぁ」
「いやいや、だって黒子っちの誕生日皆でお祝いしたいじゃないスか、そこは、まぁ、大丈夫だと」

思うんスけど、と口にした自分の歯切れの悪さに気付いている。久し振りに会ったあの日、あの顔が脳裏に浮かぶ。

センパイは笑っているつもりだったんだと思う。
確かに口角上がってて、唇は笑みの形になっていた。でも、閉じられた唇は微かに震えていた。
細められた眼も、眉根に皺も寄っていない。だからやっぱり笑っているつもりだったのかもしれない。でも、ぴくりと痙攣した頬に、眦に、きっと本人は気付いていなかった。


まるで泣くのを堪えているような顔になっていることに、センパイ本人は気付いていなかった。


もしかして、センパイオレと一緒に過ごしたいって思ってくれたのかな、って思ったけど。
もう先に約束入れちゃった状態で、どうしようかって考えてる間に、センパイに部活にさっさと出ろと殴られて、そこでうやむやになった。

元帝光面子での集まりにいきなり誘われても、センパイも困るんじゃないかなって気を回したのが余計だったみたいだ。このフリーダムな面々の空気の読まなさを忘れていた。

――センパイ、今から呼んで来てくれるかな。でも、今更だとも思う。
それに、凄く自分勝手だよな、これ。自分が何か寂しいから来てくれ、なんて。センパイにもセンパイの都合があるのに。

「――ちょ、きーちゃん? どうしたの、やっぱり最近上手くいってないの?」
「モデルでも駄目になるときは駄目になるんだねー」
「黄瀬に甲斐性ねぇのなんて一発で解るじゃねぇか」
「タイガもなかなか難しい言葉を遣うんだな」
「――っ人がちょっとしんみりしてるときに何勝手に言ってくれてるンスか!」

あんまりな物言いに大声になってしまう。しかも桃っちはまだしも、何でキセキ以外の面々から貶されなきゃいけないんだ。
するとすかさず「うるさいのだよ黄瀬」と緑間っちからの突っ込み。訂正、キセキからの貶しもやっぱりつらい。

「ううう、大丈夫スもん、ちゃんと今度一日中イチャイチャしてやるっスよ……!!」

そうだ、ここ一ヶ月頑張った自分へのご褒美で今度の休みは笠松センパイと一日一緒にいよう、そうしよう。妙案に、落ちかけたテンションを一気に上げる。
後で直ぐマネージャーに連絡して予定確認して、で直ぐに笠松センパイにも連絡して。
うん、そうと決まれば今は切り替えて楽しまなきゃ。折角久し振りに皆で集まっての黒子っちの誕生日祝いなのだ。

にっと笑顔を取り戻すと、一斉に言われた。

「うぜぇ」

――本当に酷い仲間だ。





擦れるように
(それは一瞬の熱に焦げ付いて持続する痛み)


03

センパイ二月の第二土曜か、第三日曜って空いてますか。
家で弟達の勉強を見ているときに黄瀬からかかってきた電話に、何でだ、と問い返す。
弟達の前でできるような電話でもないし、ベランダに出る。皮膚を薄く切るような風の冷たさに、思わず身が竦む。

『ちょ、センパイそれ本気で言ってます? 解ってるでしょー』

電話の向こうで黄瀬がぷんすか怒るのが面白くて、小さく笑いを零した。
吐いた息は真っ白で、あぁ空気汚いもんなと思いつつも、頼りなさげに揺らめいて解けたそれを眼で追ってしまう。消えたら最後、跡形もない。

「……解ってんよ」

今日は帝光の仲間と黒子の誕生日祝いをやると言っていたから、もうそれも終わったということなのだろう。部屋の中の掛時計を見れば九時を少し回った辺り。帰る道すがらの電話なのか、後ろで車のクラクションが聞こえた。

『それじゃ、その、どっちか大丈夫っスか? オレ的にはどっちも大丈夫ってのが一番嬉しいんスけど!』

顔が見えなくても解る、自分からの答えを期待する年下の恋人の声は弾んでいて、可愛いなと思う。
黄瀬という男は、とても甘えたがりで寂しがり屋だから、言っていることも本心からのものだろう。それは解っていた。

「――悪ぃ、どっちも駄目なんだ」

だから、自分のこの言葉に酷く落胆した声になるのも解っていた。
えー、と残念な己の心中を隠そうともしないで黄瀬は声を上げた。きっと今物凄く情けない顔をしているだろう。

『――それじゃ、センパイが大丈夫な日教えてくれません? 平日でもいいんで!』
「平日はお前が忙しいだろうが。お前な、オレに会う程度のことで仕事の予定変えるなよ」
『センパイに会うって、オレの中じゃ一、二を争う大事なことなんでいいんスよ! ここのところ本当馬車馬のごとく働かされてるんスからちょっとくらい――……』
「――黄瀬」

でも、モデルはお前の仕事でもあんだろ。それを蔑ろにするようなことを言うのは止めろよ。
最後まで言わせずに諫めると、息を呑む音が聞こえた。暫しの沈黙の後、すみません、と謝る声。先までの弾んだ声と打って変わっての沈んだ声。

けして間違ったことを言ったわけではないのに、黄瀬のその掠れて聞こえた声に、胸の内側でぐるりと何かが一回転した。澱んで底に沈んでいたものが撹拌されて、一瞬にして胸が真っ黒になった。
苦しくなって、ベランダの手摺りにもたれ掛かる。悴んだ指で胸元を押さえても、蠢くものは治まらなかった。

『――センパイ?』

電話越しにも異変が解ったのか、責められたことなど忘れたかのように即座に心配して呼びかけてくる黄瀬に、不意に申し訳なさが躰の奥底から湧き上がってきて、気付いたら謝っていた。
ごめん、黄瀬。本当にごめん。

『センパイ? え、別にオレ何も謝られるようなこと――センパイ、どうしたの? ねぇ、センパイ、笠松センパイ?』

だって本当は用事なんかなかった。
土曜も日曜も空いていた。
それなのにお前に言えなかったのは、微かに引っかかりを覚えたから。
どうでもいいこと、些末事。吹けば飛ぶような、呆気ないほど中身のないこと。

(黒子の誕生日には、合わせて空けるのに)

自分との約束は、あくまで黄瀬の仕事休みであることが前提なのか。
そんな子どもじみたとも言えないほどの、兎に角器の小さいことを思ってしまって、素直に空いていると言えなかった。黄瀬の都合に合わせることを拒んでしまった。

黒子やキセキの面々への嫉妬ですらない。唯、最優先されることはない自分をそんなところに感じ取って、ちゃちな自尊心が疼いた。
一、二を争うことだと言われても、けして一番ではないのかと直ぐ勘ぐってしまった自分を誤魔化したくて、黄瀬の言葉を遮った。

もう、きっと本当は黄瀬にだって解っているはずなのだ。こんな茶番、気付いていない方がおかしいのだ。
だからさっさと黄瀬から終わらせてくれれば、切り捨ててくれればいいのにそれをしない黄瀬のことを酷いと思い込もうとして、徒労に終わる。
その茶番の脚本を書いたのは、自分だったから。黄瀬はそれに乗せられただけだから。


みっともない責任転嫁。あまりに矮小で卑屈な自分。


それを目の当たりにして、その場に立っていられなくなってうずくまる。
うずくまって小さくなれば、眼を閉じてしまえば、そんな自分を少しでも見なくても済む、見せなくて済む。そんなはずはないのに、躰が縮こまっていく。

これ以上は無理だ、というくらい躰を小さく丸めて、空気に触れる面積を最小にしたとき、ぼき、自分の中の何かが折れて砕ける音がした。

(解ってるよ、ちゃんと本当は解ってる)

数少ない休みを一緒に過ごそうと思ってくれている、それだけで黄瀬がどれだけ自分を好いていてくれているかが解る。自分の予定と合わないならと、予定を変えようとしてまで一緒に過ごす日を作りたいと思ってくれているのだ、十分に解っている。
そして、春、黄瀬が弱っているところに付け込むようにして始まったこの関係の歪つさも、嫌になるほど解っている。

黄瀬の好意を素直に受け入れられないのは、そういう狡猾な自分をひた隠していることに負い目があるからだった。

(もうちょっと、上手くやれると思ってたんだ)

欲しいと思ったものを手に入れるために小狡く立ち回ることも、手に入れたものを雁字搦めにしてしまうことも、全て理解した上でのこと。

それなのに、どうして今こんなに自分が息苦しくなっているのかといえば、単純に過信していたからだ。自分はもっと貪欲で強いと思っていたからだ。

手に入れたもの――黄瀬が、何も知らないままに好意を寄せてくる度に募っていたのは、寂しさと罪悪感。
気付かない振りをし続けたところで自ずと限界は来る。――来ている。


もう、限界などとっくのとうに来ていた。


自身の吐く黒い息は段々と細く浅くなっていく。どんなに吐き出したところで、胸の内の澱みが浄化されることはない。
むしろ益々黒く澱んでいくだけだった。

何も話さなくなった自分を心配する黄瀬の声がずっと耳に届いていたが、それがふっと消えた。一瞬の静寂の後、硬い声。

『――センパイ、今、家?』

それだけで黄瀬が何を考えているのかを知るのは容易だった。
挫けた心を叱咤し、丸まった背中を伸ばして手摺りに身を預けて天を仰ぐ。冬の夜空は遠いようで近い。空気がぴんと張り詰めている所為だろうか。
その空気を吐息で微かに震わせて、大丈夫だ、と返した。白く揺蕩う息が消える前に言い切ろうと、早口になる。

「悪かったな黄瀬。ちょっと徹夜して寝不足でさ、どうも上手く頭働かねぇわ。みっともない声聞かせたな。――お前も早く家帰って寝ろよ?」

だから家には来るな、と言外に釘を刺す。
今何処にいるのかは定かではないが、この時間に来るとなると帰りは日付を跨ぐことになるだろう。そんな時間まで黄瀬を出歩かせることはしたくなかった。
黄瀬はモデルで、高校生で、そしてスポーツ選手なのだ。何よりも先ず自身の躰を大事にしてもらいたい。

『……』

少しの沈黙が気になったが、ちゃんと思うところは伝わったのか、うっスと返事をした黄瀬に安心して息を吐く。そうして未だにむかつく胸を落ち着かせるため、深く息を吸い込んだとき、――ねぇ、センパイ。黄瀬が言った。


『センパイからしたらオレは頼りないかもしんねぇけど、でも、お願いだから――オレのいないところで泣くのは、止めてね?』


オレだって、胸貸すくらいはできるんスから。


いきなり何を言い出すのかと思ったが、顔が見えなくても解る、その思い詰めたような真剣な声に胸を衝かれた。
不意打ちの言葉だったからこそ、自らの澱んだ胸に沈んで凝りにならなかったのかもしれない。

――泣く、なんて。そんなことは。

「……お前の胸借りるくらいなら源太の胸借りるわ」

精一杯茶化して返す。語尾が溜息のような笑みに揺れたが、電話越しではきっと気付かれない。
案の定、黄瀬が『……カントクなんかよりオレの方がずっと胸広いスよ、厚みは負けるかもスけど』と子どものように拗ねる。
その幼い態度に、やっぱりお前じゃ駄目だなと笑えた。まだ、笑えた。限界だった。


引き攣った頬が痛いのは、きっと寒さの所為だろう。





裂けるように
(それは開かれ広がる傷み)


さみしい連作

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