黒子のバスケ

ライムギストライキ

海常高校はスポーツが盛んな高校だ。
男子バスケットボール部を始め、野球部やサッカー部も全国で名が知られている。グラウンドや体育館の設備も相応に整っている。
故に、各地から強豪と呼ばれる高校が頻繁に練習試合に訪れる。大型のバスをチャーターしてやってくる高校が多い中、その日海常高校の正門を潜った集団は駅から徒歩でやってきていた。
「――珍しいスねー」
土曜日の午前練習を終え、その集団と入れ替わりに校門に向かっていた海常バスケ部レギュラーであり、一年生ながらエースでもある黄瀬は、同じくレギュラーで主将――そして恋人でもある笠松に話しかけた。
「大抵バスで来るのに」
見慣れないジャージの集団は比較的図体が大きい。一体何の部活なんだろうかと考える黄瀬に、隣の笠松は「近場なんだから電車使うだろ」とあっさり答えた。
「へ、近場?」
「……お前、知らねぇの? 同じ線にある中高じゃん、アレ」
黄瀬より頭半分低い笠松は、呆れたように黄瀬を眼だけで見上げる。
最後にシャワーを浴びた所為だろう、まだ生乾きの髪はぺったりとしていて、唯でさえ童顔で子どもっぽいのにと思いながら、黄瀬は緩く首を左右に振った。
笠松が口にしたその高校に覚えがなかった。元々都内の私立中学に通い、そして推薦――スカウトされて神奈川の地にやってきた。そんな黄瀬にとって、県内他校のことなど興味の対象外だった。入学から半年近く経った今でもそれは変わらない。
しかし、入学当初に比べれば、これでも随分と馴染んだ方だし、海常という高校に愛着も沸いてきていた。
(まぁ、大分笠松センパイの影響強いんスけどねー)
だがやはり、元々地元の人間ではないことに加え、海常を選んだ理由にこれといったものはなく、むしろ海常に望まれたという態が強い。それだけに、こういうときに黄瀬は少なからず浮いている自分を感じる。
「そこもバスケ強いんスか?」
少しでも笠松と話を合わせたい、という気持ちもあり、取り敢えずバスケ部に身を置くものとして聞いてみた。笠松は軽く頭を振って、いや、と返す。
「むしろあそこはサッカーだな。今年の夏も、ウチは準決勝で中高に負けたんだよ。で、結局中高が県代表になったんだ」
「へーぇ」
一時期サッカーにもはまっていた黄瀬は、サッカー強豪校らしいその中高のジャージを身につけた集団を改めて見る。
黒を基調に、赤と白のストライプが入っているだけのジャージ、背中を見れば確かに“NAKAHAMA”と書いてある。無駄口も少なく、静かにぞろぞろと縦に長く列をなしていた集団の迫力はなかなかで、ようやく最後尾の頭が見えてきた辺り。
そこで何かあったのだろうか、わっと沸いたように騒がしくなって、列の真ん中辺りから動きが止まる。
道の半ばで渋滞を起こしかけているその一群に、どれだけの部員数だよと黄瀬は内心舌を巻いた。自身の母校である帝光中学バスケ部には及ばないが、少なくとも海常バスケ部よりは大所帯のようだった。
「――あれ、でも中高でサッカーって言ったら、幸」
後ろからの声はレギュラーでセンターを務める小堀のもの。何、と振り返った笠松にならって黄瀬も振り返った。
レギュラー内は元より、海常バスケ部でも一番背の高い小堀には、黄瀬も若干目線を上げなければならない。
笠松も黄瀬に向かうときと異なり、僅かに首を仰け反らせている。胸元まで引き下げられたジッパーのお陰で露わになった、ごつりと浮いた咽喉仏から下る線。
それを視界の隅に捉えて、黄瀬は思わず生唾を飲み込んだ。そのラインを舌で、指で辿った一週間前の夜が瞬く間に脳内で再現される。
(――――ってオレぇええ!)
真っ昼間に相応しくない映像を追い払うべくぎゅっと眼を瞑り、ぶんぶんと頭を振る黄瀬を後目に、笠松と小堀は会話を続ける。
「確かさ、今年はアイツが入学したんじゃなかったか、あそこ」
「そうそう。一年ながらにもうレギュラー定着してんだってさ。試合後毎回メールくんだよ、何点入れたとかアシストしたとかさぁ」
「へぇ、中高でそれはやっぱりアイツ才能あったんだなぁ」
「オレが散々バスケ部に誘ったのに断り続けたんだ、そんくらいになってもらわなきゃシバくわ」
(――「誘う」?)
妄想を振り払うのに必死だった黄瀬は、敏く耳が捉えた聞き捨てならない言葉に、振り乱していた髪の毛をすとんと落とす。一瞬にして冷静になった耳は、続く言葉も正確に捉えた。
「あぁ、幸熱心に誘ってたよなぁ。あんなタッパあって運動神経もありゃ惚れるよな」
(――ほ、「惚れる」!?)
立て続けに襲った信じられない言葉にぎょっとして、黄瀬の動きが止まる。
ぴたり止まった足、油の切れたブリキ人形よろしく、ぎぎぎっと首から軋んだ音を立たせながら笠松に視線を向けた黄瀬は、「笠松、センパイ?」とぎこちなく笑みを作った。
実際それは片頬を引きつらせただけの、見るからに無理をしている笑みだったのだが、黄瀬にはそれを自覚する余裕もなかった。
「あのっスね。その、誘うとか、惚れる、とか、一体何の話っスか?」
しどろもどろな口調でいきなり割り込んできた黄瀬に、笠松はきょとんとする。合わせるように足を止め、小堀に向けていた顔をそのままスライドさせて黄瀬を見上げる。
「別に、中学んときの後輩の話してただけど」
「……オレ、知らねっス」
「いや、知ってたら怖いだろ」
間を置かずに返された至極真っ当な言葉が面白くなくて、頬を膨らませる。
その黄瀬に、大丈夫、と小堀の背後からひょっこり姿を現し声をかけたのはバスケ部副主将の森山だった。不思議の国のアリスのチェシャ猫のようににやりと片頬を歪ませている。更にその反対側には二年レギュラーの熱血漢・早川がいた。
「安心しろ、オレも知らないから」
「オ(レ)も知(ら)ねぇし!」
「いや、だから知ってたら怖いから。同中なの小堀だけだから」
笠松の冷静な突っ込みにへこたれることを知らない森山は、だからと言い継いだ。
「その笠松がべた惚れしていたという奴のことを是非教えて欲しいわけだ」
「……森山先輩、その言葉のチョイスの理由を知りたいんスけど」
黄瀬の葛藤する心中を正確に理解しているだろうに、敢えてその心をささくれ立たせる言葉を選んでくる森山がうらめしい。背中を丸めていじける黄瀬に、追い討ちの一言が突き刺さる。
「あー、ベタ惚れか。確かにそうかも。だって中一の時点で一七〇後半だぜ? 成長期前でそれは欲しいだろ。運動神経も良かったし、結局今一九〇近くなってっし。バスケやらねぇかって結構迫ったんだけど、サッカーの方が好きなんだって言われちゃ引き下がるしかないしよぉ」
その当時のことを思い出したのか、くしゃりと笑う顔が稚けない。
断られ続けたとは言っても、その後輩のことを随分と気に入っているのは明らかだった。面倒見の良い笠松のことだ、その後輩からも相当慕われていただろう。
無邪気な笑みに軽く高鳴った胸は、しかし後に僅かな痛みを残していた。つきり、胸の内側を抓られたような引きつった痛みは些細で、初めて感じるものでもあった。
(――何、これ)
抓られた部分がぴりと裂けて、じわじわと何かが滲むように漏れ出して、躰の中に溜まっていく。水のように冷たく、ひやりとした何かが、肉に骨に、そして何かに滲んで、内側がひたひたと静かに、そして確実に重くなっていく。そうと眼を伏せ、自身の内部を探るように思考を走らせる。
(何スか、これ)
真綿が水を吸収して膨らんでいくように、何かが何かを吸い込んで膨らんでいく。しかし黄瀬には漏れ出ているものが何で、それを吸収しているものが何かなのかも解らない。解っているのは、二つの何かがあまり良くないものであるということくらいだった。
「――黄瀬? 急にどうした?」
眉間に軽く皺寄せ、慣れない感覚を抑えるように――傷口を押さえるように胸に手を当てた黄瀬を、笠松が怪訝そうに見つめる。
止めた足の爪先を黄瀬に向け、真正面に立つと、伏せられた眼を仰ぐように覗き込む。
「黄瀬?」
黒の眼にひたりと心配を湛えた笠松に返す言葉が見つけられず、そんな自分と痛みを誤魔化すように小さく笑んでみた。センパイ、と口にしようとしたそのときだった。
被さってきた大音量の声と内容に、止まった。

「――先輩、ユキちゃん先輩!!」

遠くからの声は、しかしはっきりと黄瀬達の場所にまで届いた。
(――ユキちゃん? ユキ……って、センパイは)
笠松幸男、という。だとすれば今の呼びかけは、と眼の前に立つ笠松に視線を合わせようとした。
だが――叶わなかった。
「――っおおお!?」
いきなり後ろに引っ張られるようにして笠松が視界から消えて、爪先だけが上げかけた眼に映って。
「……え?」
人参を眼の前にぶら下げられた馬よろしく、ずいずいとその足を上に辿るように目線を上げていった黄瀬の動きが止まった。
首、に絡みついた腕。密着した躰。笠松をすっぽり包み込んだ肢体は大きく、長く、平均男子の身長を上回っている笠松が小さく見えるほどで。
驚きに躰を固め、眼を瞠る笠松を腕の中に抱き込んでいる男は、あろうことか笠松の首根に顔を埋め、まるで自分のにおいを擦り付けるようにぐりぐりと頭を動かしていた。
黄瀬の、眼の前で。
「な、な……!!!」
後ろから抱き着かれ傾いている所為で、不本意ながらも躰をその男に預けるようになっていた笠松は暫し呆然としていた。だが、はっと何かに気付くと腹の底から声を張り上げた。
「――っ放さねぇかこの野郎!!」
「おうふっ」
笠松の肘鉄がその躰の真ん中を抉り、くの字に折れ曲がる。
その隙に距離を取った笠松は、くるり躰を反転させると腹を押さえたまま悶絶している男に向かって怒鳴った。
「いきなり抱き着くたぁどういう了見だ、コタ!」
「……あ、相変わらず過激な挨拶で安心したよユキちゃん先輩……! あー痛い痛い。これあれかも、ユキちゃん先輩に看病してもらわなきゃいけないレベルかもあー痛い」
「お前試合に出たくないんだな、そうなんだな。よし、心置きなくその腹抉ってやる。出せ」
「ちょちょちょ、待ってそんな怖い顔しないで怖い顔しても怖くないけど童顔だしひぎゃああ!!」
腹を擦りながら上体を起こした男が再びくの字に躰を折り曲げて悶絶するまでに一分も経過していなかった。
台本の筋書きに則ったかのような、その流れるようなやり取りを前に、黄瀬は固めた拳を何処に振るえばいいのか解らなかった。行き場を失った拳を、仕方なく躰の脇で留めるにする。短く切っているにも関わらず爪が掌に食い込んで、じくじくと痛んだ。
まるで、普段の自分と笠松のやりとりを見ているようだった。
「――相変わらずだなぁ、今野は」
笑いを堪えているのだろう、一連のやりとりに僅かに語尾を揺らしながら小堀がそう言った。
懐かしいものを見るかのように眼を細める小堀のその声に、ぱっと顔を上げた男――今野は、お久しぶりっス小堀さん、とはきはきした声で挨拶をした。
すっと背筋を伸ばし、そうして丁寧に腰を折っての挨拶に、先の笠松への態度とは違ったものを感じる。どちらかといえば、先の態度の方が随分と無礼で慣れ慣れしいものであって、こちらの態度の方が通常の彼に近いのではないか、と黄瀬は直感した。
「何だ、今日は中高ウチと練習試合なのか?」
「そっス。一二年チームでやろうって話で。やっぱり近くの強豪っていったら海常になりますから。グラウンドも広いんで」
小堀と向かい合う今野の背丈は、黄瀬とさして変わらないくらいだった。だが躰の幅といいジャージの上からでも解る筋肉の厚みといい、モデルをやっていることもあり一見細身に思われがちな黄瀬とは対照的に重みがある。
短く刈り上げた黒髪と太く凛々しい眉、切れ長の一重の眼等の印象も合わさって、軟派な外見の黄瀬とは真逆の――笠松と同系統の硬派な雰囲気を、今野という男は身にまとって小堀に接していた。
先刻の笠松への、軟弱にも程がある態度とは雲泥の差だった。
(……て、もしかして、こいつが)
先程の会話の中に出てきていた後輩なのでは、と思い至る。
グラウンド、同じ中学、先輩と後輩、一九〇近くの背丈。符号は一致する。
しかし――あまりにこれは、笠松に懐きすぎではないだろうか。通常の先輩後輩のスキンシップの範囲内なのだろうか。破れた箇所から滲み出ていた何かが躰だけではなく思考と判断力も重くして鈍らせていた。
躰のあちこちで詰まっては巡りを滞らせる何かを力尽くで押し流す術も解らず、そのままでいるしかない。今までの環境が環境だっただけに、比較対象がないところも、黄瀬の判断を鈍らせた一つ。
不確かなもので湿って重くなっていく黄瀬の中で、じくじく掌から伝わってくる痛みと眼の前のやりとりだけが鮮明だった。
「――あれ、でも、もうバスケ部は終わりなんスか?」
そんな黄瀬の葛藤を露知らない今野が、若干驚いたような顔をすると、小堀は今日うちは午前練だけなんだ、と朗らかに笑った。
「ま、頑張――……」
「だったらユキちゃん先輩、試合見てってよ!!」
小堀の励ましの言葉を最後まで聞かずに、脇にいた笠松を振り返って今野は声を弾ませる。いきなりのタメ口には、小堀相手にはなかった喜色が滲んでいる。
「オレ先輩が見てくれてたらハットトリック決めるよ、ゴールパフォーマンスもやるよ!」
だから見てってよ、と笠松の両手をぎゅうと握り込んで鼻息荒く今野は迫った。
試合前から興奮気味の今野から少しでも距離を取ろうと上体を反らした笠松は、しかし苦笑を一つ零しただけだった。
「ったく、お前は相変わらず犬みてぇだな。んで人の話は最後まで聞け。小堀に失礼だろうが」
やんわりと窘められ、そこで漸く自分の非礼に気付いたらしい。今野はぴんと背筋を一直線に伸ばすと、やはり腰を直角に折って小堀にすみませんでした、と詫びた。
小堀はそれに左右に手を振って気にしないでいいと応じる。
「あー、でも幸見てくのか、試合?」
小堀の問いかけと今野の期待に満ちた視線を受けた笠松は、ゆるり頭を振った。
「んや、オレ今日はこの後黄瀬との用事あるから。悪ぃけどコタ、また今度な」
自分が口を挟む余地などなかった会話の中に唐突に現れた自身の名に、黄瀬は眼を瞬かせた。
今日この後、確かに自分の予定は空いていたが、笠松との約束は入っていなかった。唯でさえ忙しい部活、その合間に勉強――。笠松の時間を独り占めしたくてもできない現状がある。
以前だったら形振り構わず構ってもらおうと必死になったが、今は待つことを知っている。そのことを以前は我慢という言葉でしか表現できなかった黄瀬が、待つという言葉で自身の状況を表せるようになったのはひとえに笠松のお陰だった。
そう思う一方で、だが、あの一週間前の夜から恋人としてのスキンシップの機会を計りかねていた黄瀬は、今この帰り道に駄目で元々の気持ちで誘う気でいた。
それが、まさか笠松も同じ気持ちでいてくれたとは思わず、まじまじと笠松の横顔を眺めてしまう。
「……センパイ?」
漏れた言葉に、笠松が話を合わせろと目配せしてくる。断る気など毛頭ないから、黄瀬は一度瞬くことで了解の意を示した。
何よりも――笠松に異様に馴れ馴れしい今野という男に対してこのまま黙っていることはできなかった。
鈍くなっていた思考を一瞬で切り替え、現状に対処すべく一歩踏み出した。
「――そういうわけなんで」
ずいと笠松の横に並ぶと、片手で笠松を自分の背に隠してしまう。そうして今野の真向かいに仁王立ちした。
改めて向かい合わせになると、今野の方が僅かに黄瀬より背が高かった。
目線を軽く上向かせる程度の差だったが、何故かこの相手にはそういった些細なことですら負けるのが癪で、黄瀬は睨む眼に力を込めた。
「今日はお引き取り願うっス」
最早言葉遣いすら喧嘩腰になってしまっている。喧嘩を売ろうとしたわけではないが、自然口に出た言葉は黄瀬には至極当然のもののようにも思えたし、納得いった。そうだ、と内心頷く。
(これは、喧嘩で、牽制スね)
何処までが通常の先輩と後輩のスキンシップなのかどうかはもう関係なかった。
人の恋人によくもまぁ慣れ慣れしくくっついてくれたものだ、と怒りを点した眼に、今野は無意識だろう、眉を顰めた。視線が真っ向からぶつかり合い、弾けた。
「き、黄瀬?」
自分から振ったとはいえ、黄瀬が思いの外喧嘩腰で今野に接したことに戸惑っているのだろう。笠松の声に滲んだ困惑に、安心させるようにちらりと肩越しに笑いかける。
その眼は、前に向いたときには敵を見るそれになっていた。
「ほら、渋滞も起こしちゃってるし、皆さんにもご迷惑をお掛けしてるみたいだし、っていうかそもそも試合に来てるのに油売ってる暇なんてないんじゃないスか?」
確かに周囲を見れば、立ち止まっているバスケ部レギュラー陣を避けるようにして行き交いをしてはいる。だが道の端とはいえ、平均身長を大きく上回った少年達がだまになっているのは通行の邪魔になっていた。
中浜高校サッカー部の面々らは、列の並び的に一年生達なのか、今野に「集合には遅れるなよー」と言うだけで彼らはそのまま過ぎ去ってしまう。
ちょいちょい気になるのか、何人かが時折振り向いては笑っていた。
「――ほら、集合に遅れなければいいって言ってくれてるし」
「そういう話じゃねぇだろうが! ってかそうだよ、オレもうっかり忘れてたけどお前、集団行動乱すなよ!」
大丈夫だと言わんばかりに返した今野に、黄瀬の背後から躰をずらして笠松が怒鳴る。
しゅんと身を縮こまらせた今野に、勝ったと思いながら黄瀬は力強く頷いた。
「笠松センパイもこう言ってるし、どーぞどーぞ試合頑張って下さいス」
モデル業で鍛えた笑顔をこれみよがしに輝かせ、心の中ではさっさと去れと呪詛を唱えながらの一言に、今野は顔を顰めて不満を隠そうともしなかった。
図体が図体だけに不機嫌を露わにした男の威圧感は思わず気後れしてしまいそうなほどだ。
しかし後方の小堀が「本当にセンターとして良い人材だなぁ」と長閑に笑い、それに「流石、海常が誇る性善説至上主義者だぜ、小堀」と森山が揶揄する声が続いた。早川が「でも小堀さんが一番ス!」と更に会話の方向を捻じ曲げ、脱線していく。
全く方向性の違う状況の狭間に置かれた笠松だけが、どう対応すべきか頭を悩ませていた。
その笠松に、拗ねた顔のまま今野が黄瀬の肩越しに話しかけた。
「それ本当に今日じゃなきゃ駄目なのユキちゃん先輩?!」
(っこの野郎……!)
己の存在をこれ見よがしに無視したその態度に、ぷちと堪忍袋の緒が解れたのを黄瀬は感じたが、ぐっと空気を一塊飲み込んで堪える。しかし口から飛び出す言葉の棘はどうしようもなかった。
「――駄目って言ってんだから駄目なんスよ。ったく、日本語通じてるんスか? ってかさっきからアンタ笠松センパイに対してだけ妙に慣れ慣れしいのが腹立つんスけど。何、センパイ馬鹿にしてるんスか?」
「は? 誰がユキちゃん先輩馬鹿にしてんだよ。親しけりゃそれなりにくだけた言葉遣いになんだろ。ってかそっちこそ、何ユキちゃん先輩隠してんだよ、邪魔だよチャラ男」
「――言ったっスね……!」
見た目の派手さと異なり、実は真っ当な体育会系精神の持ち主である黄瀬は、禁句ともいえる一言に全身の毛を逆立たせた。
もう笑顔を取り繕う義理も何もない。堪忍袋の緒が切れるどころか堪忍袋そのものが破裂した。今まで凝りとなって躰のそこかしこを詰まらせ、重くしていたものが、怒りに押し流されるように一気に噴出した。
眦を吊り上げ、牙を剥き、獣さながらに黄瀬は今野に吼えた。
「大体唯の後輩たかが後輩のくせに何スか慣れ慣れしいどころかべったりべたべたと何様スか犬じゃあるまいしってか犬の方がもっと節度あるでしょ礼儀も躾もなってない駄犬が人のことチャラ男呼ばわりすんじゃねぇよ!」
「誰が犬だ駄犬だお前こそ後輩始めてまだ半年だろオレは今は学校違くてもユキちゃん先輩の後輩やって四年目なんだよ年季が違うんだよオレの方がユキちゃんのあんなことやそんなこと知ってんだよ付き合い長いんだよ後輩の先輩なんだよ金髪チャラ男が!」
「――っ」
即座に返せずに言葉に詰まった黄瀬を見て、今野がふんと鼻を鳴らした。
――オレの方がユキちゃんのこと知ってんだよ。
その言葉に、黄瀬は先刻から感じていた痛みの正体に気付いた。
自分の知らない笠松を知っている人間がいる。自分以上に笠松のことを知り、解っている人間がいる。
それは至極当たり前のことだ。今野の言う通り、黄瀬が笠松と出会ってまだ半年しか経っていないのだから。
昨年の夏にバスケを辞めることすら考えた笠松の悔恨を、笠松自身の口から教えてもらうまで黄瀬は知らなかった。
部員の前で自分に泣くことを許せなかった笠松の心中を、森山に言われて漸く察した。
今野だけではない、自分以外の人間が自分以上に笠松のことを知り、解り、多くの時間と経験を共有している。
その当たり前のことが、黄瀬には悔しかった。
笠松のことを一番知っているのは、解っているのは、自分でなければならないのに。
過去の時間を遡ることはできないことを解ってはいても、どうしようもなく黄瀬にはそれが悔しくて、歯痒かった。狡いとすら思った。
(オレが知らない、のに)

どうして他の人間が知っているのか、と。

瞬間的に沸騰した、歯止めが利かなくなるような怒りが腹の底にあった。だが、それとは全く異なるものも同時に存在した。
頭の天辺から血がしんしんと下って身が細っていくような、全身にじわじわと滲み浸食されて身動きが取れなくなっていくような――これは、疎外感だった。
(オレの知らない、センパイなんて、そんなの)

嫌だ、と。

形にした言葉が断ち切ったのは、破片だけが残る堪忍袋の緒、ではなく。
押し黙り眼を伏せた黄瀬の態度を降参の意と捉えたらしい、今野が勝者の顔で笠松と向かい合って話すべく、黄瀬を除けようとその肩に手をかけたとき、――何が年季スか、と黄瀬が低く唸った。
「何が、後輩の先輩スか」
「あ?」

「こっちは後輩どころの関係性じゃねぇんだよ付き合ってんだよ恋人なんだよお前とは繋がりの深さも濃さも違うっての付き合いの質が違ぇんだよ駄犬!」 「……は?」
「き、黄瀬! ちょ、止まれ!」
まさかの発言に理解が及ばなかったのか呆けた今野と、ぎょっと眼を瞠った笠松の制止の声は、黄瀬の耳には入らなかった。
外部からの入力を一切断った、出力だけの――試合のときさながらの状態になって。

「あーあー確かにオレはセンパイの中学時代知らねっスよ? 今も幼いけどもっと幼い顔してたんだよなぁ背もちっちゃかったんだよなぁって考えるだけで鼻血噴き出せる自信あるし? 他にも沢山知らないことあるし? でもこれから先それ以上のこと知ってくし、てか今だってお前の知らないあんなセンパイやそんなセンパイ知ってるっつーの手繋ぐときちょっと恥ずかしそうに俯くのとか抱き締めるとぐりぐり額押し付けてくるのとかキスす」

「黙れ黄瀬ぇええええええ!!!!」

行き交う人々の疑惑と疑問符に満ちた眼差しが確信した眼に変わろうとした当にそのとき。
実力行使に出た笠松により、逆くの字に折れそうになった黄瀬は眼の前の今野に真正面から抱き着く羽目になった。
唇がひっつく寸前に互いの反射神経を存分に発揮して避けたまでは良かったが、一拍の空白の後、正気に戻っておぇっと二人同時にえづく。
黄瀬のモデルにあるまじき表情と声は、しかし続く笠松の罵詈雑言に掻き消された。
黄瀬の問題発言を受けて判断に迷う周囲の視線を吹き飛ばすような笠松の咆哮、もとい、怒声が海常高校構内に響く。
「黙ってりゃ揃いも揃って何訳解らんことほざきあってんだお前等はときに今野どさくさに紛れてユキちゃん呼びたぁいい度胸じゃねぇか、あぁ!? お前等もっとTPOを考えろ、その凝り固まった筋肉の詰まった頭解しに解して柔らかくして考えろ!! 頭で考えられねぇなら躰で感じろオレの拳と痛みをもって! おい中高の、そこ、最後尾の奴ら! 戻ってこい!!」
「は、はい!?」
列の最後尾は既に遠かったが、尋常じゃない怒気を孕んだ笠松の呼びかけを無視できなかったのだろう。駆けて戻ってきた少年達の顔に浮かぶのは焦燥と恐怖が綯い交ぜになった表情だった。
「この馬鹿とっとと引き摺ってでもいいから連れてってくれ! こっちの駄犬はこちらが責任もって引き取るから、そっちの駄犬はそっちで引き取って躾けてくれ!」
「は、はい! 解りました躾けますすみません!!」
「うちの馬鹿がご迷惑をおかけして本当すみません!」
頬を引き攣らせながら答えた少年達は、全員が笠松よりも恵まれた体格の持ち主だった。しかし、背後に地鳴りを響かせ、頭に血が上り切っている所為で赤鬼の如き形相になっている笠松に、逆らえるような度胸の持ち主はいないようだった。
先までの対立はどこ吹く風、笠松の怒りに黄瀬と抱き合って震えていた今野を引き剥がしにかかる。
「ゆ、ユキちゃん先輩ごめんなさいぃいい!」
「オレが悪かったっス、調子に乗りましたスミマっセン! だからそんな蔑みの眼でオレを見ないで欲しいっス……!!」
えぐえぐと泣く二人は、今し方までの喧嘩腰をかなぐり捨てて子どものように笠松に謝っていた。今野に至っては、首根っこを捕まれて引き摺られて去っていく間も尚、ユキちゃん先輩ごめんなさいと繰り返している。
図体のでかい男が涙ながらに許しを乞う様は、その経緯が経緯だけに滑稽だった。森山がけらけらと腹を抱えて笑っているのがいい証拠だった。
「幸……流石に他校の生徒捕まえて駄犬呼びはどうかと思うんだが……」
怒髪天を衝いている状態の笠松の隣で、常識と良識を体現したかのような小堀がそっと諫める。
普段ならば小堀の言葉には静かに耳を傾ける笠松だったが、今ばかりはその余裕もないようだった。笠松に睨まれるという滅多にできない経験をした小堀は、今回ばかりはお手上げだと言うように苦笑を零して、黄瀬、と膝を抱えて涙ぐんでいる後輩に声をかけた。
「……何、スかぁ……?」
抱えた膝から何とか顔だけ上げ小堀を見上げる。
笠松を怒らせた理由など解りきっていた分、今はまだ自身の言動を振り返ることができなかった。散々今野を駄犬呼ばわりした自分も同じように駄犬だった。
「お前もそんなに落ち込むなよ。今日この後幸と約束あるんだろ? 落ち着いて話し合えばいいって。幸も解ってくれるだろ」
「……そもそもその約束がなかったっていうか、あったとしてもこの状況じゃ反故にされても仕方がないっていうか、オレ八方塞がりスー……」
直下降真っ最中の黄瀬を停止、そして浮上させるには小堀の力では足りず、むしろ下降速度を速める結果になった。「これじゃまた暫くお預けっスよー……」という黄瀬の呟きを聞かなかった振りをしてやることくらいしかできず、小堀はどうしたものかと途方に暮れる。
他の二人ではどうか、と振り返れば森山は「修羅場だな!」と笑い転げ、早川は「しゅばって何スか!」と相変わらずのラ抜き言葉で森山に尋ねていた。
「……幸」
やはりここは笠松の出番だろう、と水を向ける。
羞恥と怒りで頭が一杯なのは傍目にも知れたが、ここは先ず道の途中で生きた化石になりつつある黄瀬をどうにかしてもらおうと、笠松の腕を軽く肘で突付いた。
「……」
未だ怒りが収まらないらしい笠松は、無言で小堀の視線に返すと一つ溜息を零した。
少しでも怒りを外に逃がそうとするかのようなその行為にすら、躰が竦んで一層俯いてしまうのは、黄瀬自身にもどうしようもなかった。
(だって、嫌だったんだもん……)
言い訳めいているそれは、しかし黄瀬の紛れもない本心でもあった。
自分の知らない笠松を知っている男の存在以上に、自分の知らない笠松がいるということを拒んだのは躰だった。
頭や心ならば、まだ抑え付けることはできたかもしれない。理屈や言葉で自分を騙すことができたかもしれない。
けれど、あのときふっと黄瀬を襲った疎外感に、全身が粟立った。
頭でもなく心でもなく、躰が拒絶反応を起こした。
(ごめんなさい、センパイ、ごめんなさい。でも、ごめんなさい)

どうしても、嫌だったんスよ。

それは口には出せない言葉だった。
説明できないこの気持ちは、この場を乗り切るには余りに不十分で、黄瀬は益々言える言葉を失くしてしまう。力なく垂れた頭に、笠松の声が降った。
「……おい、黄瀬」
「――っス」
びくり、と大仰にはねた躰は丸まったままで、顔を上げようとしない黄瀬の頭を笠松は鷲掴みにすると、強引に顔を上げさせた。
「……っスミマ、センっした」
否が応でも合わせることになった眼は未だに怒りを宿している。
それに怯んで黄瀬は謝りつつも視線を横に逃がそうとしたが、笠松に「黄瀬」と名を呼ばれ身動きが取れなくなった。
そのときの声だけは、その一瞬の眼差しだけは、感情が凪いだような酷く落ち着いたもので。
「――お前もいつまでもぐずっていじけてんじゃねぇ! 道の隅とはいえ邪魔だ、立て、歩け、さっさとしろ! 説教はお前んちで嫌ってほどしてやっから覚悟しとけ!!」
次の瞬間、そう笠松は一喝した。
「…………へ?」
(――家、で? って、え、一緒に? いてくれるの今日? こんなことしちゃったのに?)
衆人環視の中でやらかしてしまった己の所業からして、今後一週間の接触禁止は覚悟していただけに、笠松の言葉が信じられない。
眼を大きく見開いて自分を凝視する黄瀬に、笠松は今度は苦虫を噛み潰したような顔でそっぽを向くと、同じ言葉を繰り返した。
「だから、今日この後――と、そっか、お前何か用事ある……のか?」
だったらまた明日の部活前に、と主将の顔に切り替えて言い継いだ笠松の言葉を「大丈夫ス!!」と勢いだけで押し留めた。立ち上がった黄瀬は、一旦は離れた笠松の両手を力任せに握り込む。
自分でも切り替えの早さに驚くが、これもまた躰の方での反応で全く何も考えていなかった。
「っ痛ぇよ黄瀬!」
「今日、大丈夫ス! どうぞ、どうぞ説教して下さい!」
「はぁ?!」
(だって、センパイから近付いてきてくれた、から、そうだよ)
自分が知らない笠松がいても、自分から近付けばいい。
その至極単純なことに気付き、閉塞していた黄瀬の視界が一気に開けた。自分が距離を測りかねているときに、こうして笠松が近付いてきてくれるのだから、自分も同じように近付けばいい。それだけの話なのだと黄瀬は解ってしまった。
(待つのは柄じゃないスよ!)
解ってしまえばこちらのものだ、と前のめりになって顔を近付ける黄瀬とは反対に、上体を後ろに反らせ少しでも離れようとする笠松は、怪訝そうに眉間に浅く皺を刻みつつ何言ってんだ、と口にした。
「お前、その発言変態みてぇなんだけど」
「いやいやみたい要らない。黄瀬はまごうことなき変態だぞ笠松ー」
すかさず囃し立てる森山の声に反論する余裕もない。黄瀬は逃げる笠松の腰にするり両腕を巻き付けて尚言い募った。
「ちょ、黄瀬、てめぇ何すんだ放せ!」
「説教でも躾でもシバキでもシゴキでも何でも受け入れるんで! センパイ、オレを躾けて下さい!」
「怖ぇよ、もうお前その発言変態通り越して唯怖ぇよ!!」
若干眼の据わった黄瀬の発言に、流石の笠松も慄いた。何とか距離を取ろうと黄瀬の胸に手を突き思い切り腕を突っぱねるも、徒労に終わる。
諸々のブレーキが壊れきった後の今の黄瀬は、加減と周囲の眼というものをすっかり失念していた。
ずいと顔を寄せると、まさかこの場でここまで顔を近付けてくるとは予想だにしていなかったのだろう、笠松がうっと言葉に詰まる。
その隙を縫って更に顔を近付けようと黄瀬が前屈みになったとき――だった。
「――――っぶふぉ!!?」
横っ面を叩くように何かが頬に減り込み、落ちた。
「っ黄瀬!?」
笠松の驚いた声が遠くなったのは、その場に崩れ落ちてしまったから。
モデルとして培った意地と根性で、何とか顔を両手で覆って鼻血を隠したまでは良かったが、誰がどうしてこんなことをしたのか、までには思考が働かなかった。
耳の中ではぐわんぐぁんと衝撃の際の破裂音がこだまし、頭上ではくるくるとひよこが星と火花とワルツを踊っている。視界もぐるぐる回っている。
(な、なン……スか……!)
それでもこの事態に何とか対処しようと、ぶれる視界のままに指と指の間から覗くと、サッカーボールが一つ、点々と転がっていた。
(……さっかー)
鈍い思考の中で鋭く閃くものがあった。
視線の高さを一段階上げれば更に向こう、黄瀬の涙に滲んだ視界にそれを蹴り上げた人間が周囲に取り押さえられている光景が見えた。

「ユキちゃん先輩に変なことしてんじゃねぇぞ金髪変態チャラ男――!!」

叫ぶ今野はさながら闘牛のように今にも黄瀬に突進してきそうだったが、それを抑える周囲の人間も必死だった。
後ろからの羽交い絞め、前からの首締め、しっかと掴まれた四肢。
笠松の言いつけを今当に守っている最中の中浜高校サッカー部の面々の苦労を他所に、海常高校バスケ部のレギュラー陣は思わず拍手をしていた。
今野のいる位置から黄瀬の場所までは二十メートル以上はある。
それにも関わらずの正確無比なボールコントロール――しかも笠松に一切掠ることなく、黄瀬の横っ面だけを見事に撃ち抜いたその弾丸のようなシュートを目の当たりにして、にわかに興奮していた。それは笠松も例外ではなかった。
「諸々後でまとめて文句は言うけど、無駄に凄ぇなコタ!」
「本当、あの運動神経あったら良いセンターになったと思うんだけどなぁ」
「今からでもスカウトすれば? 何かアイツ、笠松餌にすれば今なら絶対頷くだろ。黄瀬も結構役に立つな」
「オ(レ)、(リ)バウンド教えます!」
「それしか教えられないからな早川はー」
いつも笠松のシバきとシゴきに耐えるどころか喜び、今し方「躾けて下さい」と嬉々として叫んでいた黄瀬を心配する人間は、この場において皆無だった。
痛みに呻く自分を無視して交わされる長閑な会話の中身に、黄瀬はまた、どうしようもない疎外感を覚えて一人涙を呑んだ。


(ここはセンパイだけでもいいから心配して欲しかったのに!)



strike in the Rye:思春期の闘争と抵抗と葛藤
わらびさまのリクエスト「先輩の中学時代の後輩」「黄瀬の知らない先輩の世界」「切ないからギャグへ」でした。 有難う御座いました!

20110409~0416