黒子のバスケ

イン・ドアーズ

いの一番に視界に飛び込んできたのは、とろりと甘い蜜を滔々と湛えた眼だった。
「センパイ、起きました?」
灯り一つ点いていない部屋は仄暗く、カーテンの隙間から差し込む街灯だけを頼りにしているような状態なのに、それでも黄瀬の顔ははっきりと見えた。この至近距離で恋人の線がぼんやりと暈けるはずもなく、また寝惚け眼になるほど深く寝入っていたわけでもなかった。笠松は満面の笑みで己を見る男に、返事の代わりに擦り寄ることで肯定を示した。
その仕草に心擽られたのか、くふりと黄瀬は笑みをまた一つ零して笠松を抱き直す。向かい合うようにして抱かれて寝た昨晩の姿勢のまま、黄瀬は腕枕していない方の腕を緩く持ち上げ、頭をそうと撫でてきた。暫く表面だけをさらりと行き来した後は、緩く抱き込まれる。黄瀬の癖の一つだ。
普段は自分が撫でることが多いが、情事の後には黄瀬の方が自分を撫でることが多かった。立場というのか、相手をオ慮る余裕の程度の差というのか、少なくとも最中なら兎も角、行為が終わった後に犬相手にする力任せの構い方をできるはずもない。
逆に黄瀬の方はというと、笠松の動きが鈍くなっているのをいいことに、普段は到底叶わないような甘やかし方をしてくる。たとえば、今のような、だ。
梳き甲斐もない短く硬い髪の毛を、まるで赤ん坊に触れるように柔らかく触れてくる。そんな丁寧に扱わなくても壊れやしないのに、昼の乱暴で大雑把な体育会系コミュニケーションとは打って変わって、一つ一つの行為に意味を持たせたいかのような黄瀬の繊細な所作、その理由を知っているだけに、気恥ずかしくてしょうがない。しょうがないのに、黄瀬の指先から滲み出る蜜がじんわり地肌に滲み込んで、くつりと脳内と思考が甘く煮詰められて、笠松はとろりと微酔んでいく。そうしてことことと寝入るのが常だった。
加えて今日は、自分がうとうとし始めたとき、子守唄だと言わんばかりに好きだ、好きだと繰り返していた。久し振りに抱き合った所為か、交わりの間、躰だけでも物足りないのだと言わんばかりに紡がれていたその言葉を、笠松も一つでも取り零したくなくて、黄瀬に形振り構わずしがみつくことで、飛びそうな意識を必死に繋ぎ止めていた。
甘く、軽く、それでいて深く。耳触りがよく、心地いい言葉と温度に包まれながら眠りに就いたのはまだ日を跨ぐ前だったはずだが、今は何時だろうか。ぐるりと視線を巡らせようにも、抱き込まれているこの状態では難しかった。しかも、自分から更に抱き込まれるように腕の中に潜り込んでいた。
「今、何時」
「十二時ちょっと過ぎたくらいっスね。センパイ、ちゃんと外泊の連絡してたし、起こさなくてもいいかなって思ったんスけど」
「まぁ、な。……っつか」
 言葉尻に引っ掛かって、目線だけを黄瀬に向けた。
「……お前、もしかして寝てないのか」
問えば、そんなことないっスよ、ちゃんと一眠りしました。黄瀬はころころと言葉を軽やかに転がしたが、それにしては肌が冷えていなかった。笠松が言葉を継ごうとするより先に、あぁ、でも、と黄瀬は花が綻ぶようにふわりと笑った。
「センパイの寝顔可愛くて、ずっと見てましたけど。いつものことだし」
「……お前なぁ」
 いつも見てるんなら、今日くらい躰を休めて寝てもいいだろうに、と呆れる。しかしそれを口に出すことはできない。そんなことを言い出したら、黄瀬の家に来てから飽きることなく休むことなく、衝動のままに互いを暴き合っていた、まだ半日も経っていない出来事について触れなければならない。
 藪蛇にしかならないことを自覚している分、押し黙った笠松の沈黙の理由を正しく黄瀬は理解していたようで、だって久し振りだったから、と口にした。
「センパイとこうして寝てるってだけで、疲れとかそういうのなくなるんで」
「……あっそ」
 そんな単純なものでもないだろうが、裸で抱き合っている状況にもかかわらず、黄瀬の声音は優しく歌うようなそれで、淫微さを一切匂わすことはなかった。まるで寝入る直前まで――もしかしたら寝入った後でも――囁かれた言葉の温度と同じで、心地よさに自然眼が細くなった。ゆるりと再び気持ちが緩んでいく中で、笠松は手を伸ばした。
「……センパイ?」
「……こうしてた方が、オレも落ち着くから」
 黄瀬の胴に巻きつけた腕にぎゅうと力を込め、互いの躰の間をゼロ距離にする。耳がほんのり熱くなったような気もするが、それもまた躰が眠りに入る状態になりつつあるからだろう。
笠松の内心の言い訳が届いたわけでもないだろうに、黄瀬は同じ力で抱き返してきて、耳元でお休みなさいとあの甘い蜜のような声で囁いた。





(お休みなさい、愛しい人)


(20120715/20121101)