黒子のバスケ

fall in

でも、幸、今は友チョコとか自分チョコとかあるんだって聞いたぞ?
女性から男性へ贈り物をする日――つまり自分はもらう側だと信じて疑わなかった笠松にとって、小堀の一言は衝撃だった。



「セーンパァアアイ?」
「な、何だよっ」
「何でさっきからオレとの距離を一定に保ってるんスかねぇー? っていうか、今日何の日か知ってますかー?」
「し、しらね……」
「はずないっしょ。オレ見たもん、センパイの鞄に入ってた可愛くラッピングされた箱に袋に」
「ううううっさい!」

駅前のファストフードで小堀と森山、そして早川と別れた後、黄瀬と笠松の二人は黄瀬の家に向かう道中、延々と押し問答を繰り広げていた。
部室で黄瀬と遭遇した後、帰ろうとする三年生に向かって黄瀬が帰らないでと縋り、部活が終わるまでマジバで待っているからと宥めてから既に四時間近くが経過している。
黄瀬宅に宿泊する予定はないのだが、先ほど笠松が小堀に抱き込まれていたことが思いの外尾を引いているらしい。部活終わりで直行したのだろう、到着した途端に今日オレの家に帰り寄りますよね、と笑っていない眼で白々しく言い切った黄瀬に、笠松はばれないように溜息を零した。面倒臭いことになりそうだった。

「――泊まらねぇぞ」
「解ってますよ? ちゃんと終電どころか、日付変わる前には帰してあげます」
「その上から目線が気に食わねぇ……」

黄瀬が玄関を開け、先に入るよう促す。そろそろ勝手知ったると言ってもいいくらいには訪れている家は、相変わらず物がない。お邪魔しますと口にして、即座に廊下で立ち止まる。

「どうしたんスか?」

後ろに続いた黄瀬が笠松の顔を覗き込んで来ようとする。それより僅かに早く、笠松がぐるり首を捻った。その眼にはある決意を漲らせていた。

「――先に言っとくけどな、黄瀬」
「はい? 何スか?」
「チョコなんて、ないからな!」
「はい」

さも当然のように納得された。痩せ我慢ですらないのはすぐ解った。平素の仕事用の笑顔とは違い、落ち着きを感じさせるにこやかな笑みすら浮かべている黄瀬の姿に、意気込んで口にした自分の空回り振りが一層目立つ結果になってしまった。

「……うん、まぁ、そういうことだから。うん」
「何だ、もしかしてそれでビクビクしてたんスか?」
「ビ、ビクビクなんてしてねぇ!」
「そうスか?」
「そうだ!」

誤魔化すように大股で黄瀬の寝室に向かい、どすんとローテーブルの前に胡座を掻いて座った。一気に距離を開けられた黄瀬はきょとんとしていたが、笠松の挙動不審の原因が明らかになったことですっきりしたらしい。憮然とした顔で、しかし耳を赤くして座る恋人の姿に破願して、何も言わずに付いてきた。両腕に下がっていた紙袋は手前のリビングに、上着は脱いで椅子の背に掛ける。

「飲み物、用意するんで」
「や、別にいい」
「まぁまぁ」

口元を緩ませてキッチンに向かう背中を見やり、笠松はそれじゃあ何で黄瀬は自分を家に誘ったのかを考える。
時間的にも今日はしないだろう。バレンタインが恋人同士の日ならば、何もせずに一緒に過ごすというだけもありなのだろうか。記念で何かしらやるべきなのだろうか。生憎人生で初めて恋人がいる状態で過ごしている身なので、その辺りが曖昧だった。
視線を落としてぐるぐると思考を巡らせているとき、ふっと鼻腔を擽った匂いに顔を上げた。黄瀬が笠松に用意する飲み物は大概お茶の類で、こんな甘ったるさとは無縁のはずなのだが。どうぞと恭しく置かれたカップの中を覗き込む。

「――黄瀬、これ、何?」
「んー、と、まぁココアっスね。ざっくり言っちゃうと」
「……白いぞ?」
「ホワイト・ココアってやつっス。初めて見ます……よね、やっぱり」

使い慣れたカップの中に注がれているのは、真っ白な飲み物。牛乳を温めただけのものではないのは匂いで解っていたが、黄瀬の言うとおり、ホワイトココアなるものを初めて見聞きした笠松は、まじまじとそれを見つめてしまう。

「普通のココアと何が違うんだ?」
「より甘いというか、舌触りが優しいというか。あれっスね、苦みがないんで飲みやすいっスよ」
「……普通のココアってそんな苦いか?」
「えっと、こう舌に残る感じとか……って痛! 痛いっス!」
「どうせオレはお前みたいにブルジョワモデルの食生活に慣れてねぇよ!」
「そんなこと言ってないでしょ!?」

言いがかりもいいところだ。笠松には原則服従の黄瀬だが、流石に口を尖らせて反論する。第二の定位置である笠松の隣に腰を下ろし、横目で軽く睨んで不満を表してみる。だが、そんな黄瀬の素振りを気にすることもなく、未知の飲み物を前に恐る恐るといった態で両手でカップを挟み、口をちょんと縁につける笠松の姿を見て、拗ねる気持ちは雲散霧消した。

「センパイ可愛いーの」
「……っせぇ」

黄瀬のモデルにあるまじき弛緩した――頬が落ちそうなくらいににやけた顔を一瞥し、ず、と一口啜る。そのまま飲み干さず、舌の上に乗せてから、こくりと咽喉の奥に流し込んだ。

「……さらり、としてる?」

確かめるようなような口振り、それと無意識だろう、小首を傾げる姿が稚けなくて黄瀬はそうでしょうと鷹揚に頷いた。

「普通のココアでも良かったんスけど……折角だし、普段飲まないようなものがいいかなって」

美味しいっスか、と訊ねる声に無言で頷く。それからもう一度口にして、頷く。顔を隠すように深く折れた首を見て黄瀬は笑みを深くした。真っ赤だった。

「……それって、その……バレンタイン、か?」
「ん」

恋愛ごとにはとことん鈍い恋人にも、今日のこればかりは過たず伝わったらしい。すり、と近寄って腿と腿を擦り寄せても、抵抗らしい抵抗はされなかった。

「……オレ、ちゃんとしたの何にも用意してねぇけど」
「うん」
「その……悪かった、な」
「そんな、いいんスよ……って、え?」

聞き間違いでなければ、今笠松は「ちゃんとした」という言葉を口にしていなかったか。
それはつまり、と思考を働かせようとしたとき、これやると腹の上にぽとり置かれたものがあった。

「……へ?」
「小堀が、今はあんまり性別に拘ってるもんでもねぇって……だから。この場しのぎにすぎないけど、さ」


ぶっきらぼうな口振りの中に、気恥ずかしいのを隠そうとする不器用な心が垣間見える。自分との間でのチョコレートの受け渡しなど、ついさっきまで本当に自分に無縁だと思っていたのだろう。
今日――高校生活最後のバレンタイン、ということもあり、女子免疫のない笠松に直接チョコレートを手渡す猛者が現れて、そこで漸く二月十四日がそういう日だと気付いたようだ、とは小堀の弁。
それでも、笠松のことだから自分からあげるということは露程にも考えていないのだろうな、と思っていた。だから、チョコレートなんてないぞと真っ赤な顔で自己申告をしてくれたときも落胆することはなく、むしろその生真面目さに一層愛しさが募った。
それなのに。

「……これ、いつ?」

腹の上の包みをそうと掌の上に乗せる。見たことのある包装と商品名。一口サイズ、と書かれているように、小さなパイが印刷されている。その特徴的な形。

「お前待ってる間、マジバの近くのコンビニで買った。……チョコ味のが、よかったか」
「――ううん」

顔が綻ぶどころか蕩けてしまいそうだ。今、相当やに下がった顔をしているんだろうと黄瀬は他人事のように思う。恋人の前だからこそ変な顔はしたくないのだが、これはどうしようもない。

「ありがとう、センパイ。……食べて、いい?」
「ん、」

黄瀬の隠されない喜びに中てられて、頬がどんどん熱を持っていくのが解る。気恥ずかしさが拭い切れず、笠松は顔を隠すようにカップに口を付けた。ホワイト・ココアの甘さは咽喉に残るものでもなく、とても飲みやすい。ごくごくと一気に飲んでしまう。
笠松自身、柄にもないことをしたという自覚はありすぎるほどにある。だが、それにしたって黄瀬の喜びようは思っていた以上に大きなものだったし、それを見て自分もこんなに気分が高揚するとは思いもしなかった。
隣の黄瀬は、百円にも満たないお菓子の袋の口を、まるで蝶の羽でも扱うかのように丁寧に開けている。横目に見て大袈裟だろうという言葉が咽喉まででかかったが、黄瀬があんまり幸せそうなので、ぐっと飲み込んだ。水を差すような野暮な言葉を口にしたくない。
その長い指に摘まれて、小さなパイが口元に運ばれて。そのまま口の中へ、というところで黄瀬の動きが止まった。

「……何か、ジレンマっスね」
「は?」
「だって、センパイからこんな沢山甘いハートもらったって思ったら、全部オレが食べちゃいたいけど、でも全部取っておきたいし」

口元から遠ざけられ、そうと掌の上に乗せられたその有名なパイ。
それは黄瀬の言うとおりにハートの形をしていて。

「ハートって、別に……乙女かお前は」
「そりゃ乙女にもなるでしょ。正直に、色々と予想外だったもんで」

呆れ声の突っ込みにも黄瀬は屈託なく笑う。

「センパイがくれたことも嬉しいし、くれた気持ちも嬉しいし、――ハート型のお菓子、なんて可愛いにも程があるっスよ」

チロルチョコでも板チョコでもなく、と続けられた言葉に、いくら習慣が変わってきているとはいえ、バレンタインの当日にピンク色に飾りたてられたコンビニの一角に男が行くことがどれだけ至難か、ということを懇切丁寧に教えてやりたかったが、やはり堪えた。
飴でもガムでもなく、あまり口にすることもないパイを手に取ってしまった――その理由を笠松自身正確に解っていた。

「……開けたんだからさっさと食えっての。取っておきたいも何も、開けたら湿気るだろうが」
「あ! そ、そうスね……!」

恥ずかしさを誤魔化すように、手にしたままのカップで口元を隠しつつ、努めて冷静な声で真っ当な指摘をしてやる。すると、そこまでは考えが至っていなかったのか、黄瀬はむーと掌の上のパイを睨み込んでしまった。
写真集も出すくらいの人気モデルだ、今までにも山のように、そして値段を聞くのも憚られるようなチョコレートだの贈り物だのをもらってきているだろうに。
百円もしないお菓子を食べるか否かに子どものような顔で葛藤する黄瀬の姿に、次第に恥ずかしさも薄まっていく。しまいには親鳥の気分にすら至って、笠松はカップをテーブルの上に置くとそのパイをひょいと摘み、ほれ、と黄瀬の口元に運ぶ。

「さっさと食っちまえ。オレは日が変わる前に帰る予定なんだからな。量が量だからオレも協力してやる」
「え、ちょ、まさかのあーん、とかいうそういう……!?」

待って、センパイ待って。何か展開が早い、と顔を赤くして慌てる様がおかしい。普段これくらい押してくるのは黄瀬の方だ。たかだか食べさせるくらいのことでどうしてこうも右往左往するのか。

「――セ、ンパイ、本当今日この急展開のデレは一体何なんスか、ね……!」

黄瀬は黄瀬で笠松が普段ならばけしてしないだろうことをしてくるこの事態が信じられない。
どちらかといえば、先ほどまで優位にあったのは自分だったはずなのに、と黄瀬は唇にパイを押し当ててくる手を掴んだ。躰を捻り、笠松の顔を真向かいに捉えて、気付く。
笠松も――きっと自分と同じくらいに――顔が、赤い。
互いの顔を直視してしまったのが合図だったかのように、互いに口を閉ざしてしまう。掴んだ笠松の手首がふるりと震えたように思ったが、震えたのは自分だったかもしれない。
生唾を飲み込んで、恐る恐る口を開いた。

「…………あ、の、センパイ?」
「……んだよ」
「本当に今日……帰ります?」
「……帰らせてくれるんじゃなかったのかよ」
「帰らせてあげてもいいんスけど……センパイはどうなのかなって」
「…………お前、ずりぃぞ」

むくれた表情で睨み上げられる。だがそんな睨みには何の効果もない。少しだけ余裕を取り戻して、黄瀬は両の口角を上げた。

「素直なばっかりじゃ……色々と不都合があるんスよ」
「……オレは今さっきまでの素直なお前が恋しいね」

ふっと視線が逸らされたのは、呆れたからか、諦めたからか。黄瀬には判別はつかなかったが、……パイ。

「……早く食べちまえよ」
「っス」

憮然とした声音だったが、黄瀬は艶めいた笑みと共に頷いた。この状況でこの笠松の声は、胸の内を吹き荒れる羞恥の嵐を抑え込んでいる所為だということをもう知っている。経験則だった。
口元の高さにまで掲げられたままだったパイを端から少しずつ齧って、嚥下して、まだそこに残る指先まで舐って、まだ中身の入っている袋はテーブルの上に置いて、及び腰になる前に抱いて引き寄せて反転させて腕の中に閉じ込めて。
腹の前で組んだ両手で密着させて、赤くなった首筋に顔を埋めて。

「……オレの定位置って、センパイ抱き抱えられる場所、なんスよ」
「……何言ってんだか」

隣に寄り添う位置も手放せないものだけど、一番はこの位置だ。
そう思っているのは黄瀬だけではないことは、埋めた頭に摺り寄せられた頬と、組んだ手の上に置かれた掌が教えてくれた。


blancholic-chocoholic:[造]ホワイトココア愛飲者。

(20120218~27)