後悔の叫びを
その一言を言わなければ良かった、というのと、その一撃を抑えれば良かった、というのは男鹿にとっては同じものだった。
言葉にしろ拳にしろ、放たれた時点で取り消しは不可能。唐辛子入りの水鉄砲の引鉄を引くよりもどうしようもない結末を多々もたらす。男鹿にしてみれば、ゲームのセーブデータをうっかり取り忘れたときと同じくらいの遡及不可能性をもってして、初めて人様が感じる絶望を類推することができるわけだが、そのように彼を奈落の底に突き落としてくれる事態はやはりゲームのセーブデータ取り忘れでしかなかった。なので、実際のところ言わなければ良かった一言も抑えれば良かった一撃も男鹿の人生の中では限りなくゼロだった。
例外が一つ。
校舎を壊したときでも川原で土下座させたときでもヒルデガルダを乳女呼ばわりしたときでもなく、たった一つだけ、男鹿が今確かにあれは後悔だったのだろうと思い出すことのできる一言があった。
『古市』
その日の朝も当然のように、男鹿は古市が迎えに来るものだと思っていた。約束していたわけではない、いつも来て、昨日も来たから、今日も来る。そういう認識の仕方をしていただけで、それで十分だったのだ。それなのに、その日の朝、古市は来なかった。
『おい、古市』
古市の部屋の前で繰り返した言葉に返される言葉はなく、これが古市の家でなければさっさとドアを蹴破れば良いだけなのに、それができないことに苛々が募った。早く古市が出てくれば、全部が丸く行くのにどうして古市にはそれが解らないのか。中学生の堪忍袋の緒は容易く切れた。
『いー加減にしねぇと、ドア蹴破』
るぞ、の最後まで言うことはできなかった。バンと男鹿の眼の前で開かれたドア、その衝撃で風邪がぶわりと靡いて、元に戻った。眼の前には、俯いている所為でさらさらと鬱陶しい前髪が落ちて顔が見えなくなっている、そういう古市がいた。
『古市』
古市が男鹿を見ない、ということはあまりなかった。逆はほとんどなかった。男鹿は古市の背景として世界を観ていて、それは今でこそ多少改善されたとはいえ、中学に入りたての頃はとても酷かった。古市がいないとき、男鹿には世界が意味を成していなかった。それを今でこそ多少おかしいと思うようになったとはいえ、根本は変わらないままだった。
『……ふるいち』
すっと腰を屈めて覗き込んだ顔は青白く、まるで病人のようだった。女の子のように大きい眼、それを縁取る睫毛は髪と同じように薄く、まるで人形のようだった。こんなに色が薄いばかりで、だから古市は少し殴られただけでもすぐ赤になった。白が淡く血の色を帯びるのは生きている証拠でもあったけれど、誰かに手を出された証拠でもあった。その誰かを男鹿が見逃したことはなかった。
『何だよ、風邪でもひいてんのかよ』
伸ばしかけた手は竦んだ肩に止まってしまい、また躰の脇に戻さなくてはならなかった。ふるふる震えた睫毛は滴を纏っていて、瞬かれたらそれで落ちた。ぽろり、丸い水は床に落ちて弾け、じぃとそれを眼で追っていた男鹿は、勿体無いと思った。涙は海水ほどでなくてもしょっぱいと聞いたことがあった。勿体無いことだ。丁度、古市を呼び続けて咽喉が渇いていた。
『古市』
舌で眼の淵をべろり、犬のように舐め上げた。盛大にはねた躰を抑え込むように肩口をしかと掴んで放さずに、再度はちゅっと眦で我慢していた涙を吸った。しょっぱいのかどうかは、この量では解らなかった。
唯、目玉と目玉を貼り付かせて、呼吸と呼吸を混ぜ合うような距離で見る古市は、やはり色が白くて眼が大きくて睫毛が長くて、濡れた眼はつうと唇を這わせればそのまま飲み込めてしまえると思った。見開かれた眼は少し赤くなっていて、けれどもとろりと濡れていて、肌は青白いのに目許だけ赤いのがちぐはぐだった。
結構長いこと付き合ってきたが、特に女絡みのときに古市はよく泣いた。本当によく泣いた。目玉が溶けてなくなるんじゃないかというくらいによく泣いた。溶けてなくなったらどうなるんだろうと思っていた。――なくなる前に、オレが溶けたの集めておいてやればいいだけか、と思ってもいた。どうせ、大方また女に振られでもしたのだ。
男鹿が古市を泣かせることはほとんどなかった。逆は一度もなかった。だけど男鹿は古市の泣き顔をよく見ていて、その涙をよく舐め取っていた。古市を少しずつ食べていっているようなその感覚は、男鹿の心を疼かせ、年を経るごとに妙な熱を持たせるものになった。
ぐずぐずと泣く古市を知っているのはきっと男鹿だけで、それでも古市に妙なプライドが芽生えた結果、最近ではあまり見る機会に恵まれていなかった。――だから、この日男鹿は久し振りに古市を食べたのだった。舌先で掬い取った涙が咽喉を下って胃に落ちたとき、その時点で既に火種になっていて下っ腹が熱かった。この感覚が、男鹿は嫌いではなかった。昂揚する気持ちに、こういうときに喧嘩をすると思いの外大事になるのを知っていたが、今直ぐにでも発散したかった。
男鹿をこういう気持ちにさせてくれるのは、古市の泣き顔を見て、涙を吸って溶けた目玉を集めた後だけだった。――だから、この日男鹿は初めてそれを古市に口にした。
『――オレ、お前の泣いてる顔好きかもしんねぇ』
その一言以降、古市はけして男鹿の前で泣かなくなったのだった。
男鹿と古市