べるぜバブ

深く祈る。彼を救う神など唯の一人もいやしないのに

古市が神妙な顔で、お前、聞いたぞ。家を訪ねてきた。何の話だよと返せば、間野中相手のだよ、と間を置かずに返してくる。つまりは今日叩きのめした連中のことについてか、今日連中を叩きのめしたことについてか、そういう話を聞いたということらしい。
「で、何だよ」
「何だじゃねぇよ、お前、何やってんだよ」
部屋の真ん中に突っ立ったままの古市の様子は普段と何かが違った。ベッドの上に放置していた読みかけの漫画を手に取ったはいいものの、それが気になって結局また放る。ベッドの上で胡坐を掻き直し、これまた普段と違って古市を見上げる恰好になる。
「いつものことだろ」
「――三木、ボコったのもかよ」
三木。その単語、もとい、名前にすうと胸を吹くものがあった。一度だけ眼を瞬かせる。ぱちくり、閉じる前と後の世界は何も変わっていない。古市の眼も相変わらず男鹿を睨むそれだった。
普段やけに甘ったるくてへにゃりとした笑みしか乗っていない、男の癖に女のような顔。そんな風に怖い顔をしても怖くない、だから気にもならない。けれどそんな風に怖い顔をする理由、は気になった。
古市が怖い顔をする理由。デートをぶち壊したときでも、おやつの菓子パンを奪ったときでも見ない、怒った顔ではなく怖い顔をする、その理由。
男鹿はそれを聞こうとして、口を開く。けれども、開いた口は僅かな空気だけを食べただけだった。口の中の空気をそのまま飲み込む代わりに、鼻から吐き出す二酸化炭素。生き物は酸素を取り込んで二酸化炭素を吐き出す、つい最近理科でそういう実験をしたのでそれだけは覚えていた。きっとすぐに忘れる。どうでもいいことだから。
室内の空気はまるで硬直してしまったように動かず、だから聞こえるのはせいぜい二人の呼吸の音くらいだった。男鹿も、古市も何も言わない。唯互いしか眼に入っていない。これを睨み合っているというのかどうかは男鹿には判別つかなかった。よく絡まれる原因にもなっている眼つきの悪さそのままで、しょっちゅう古市を見ていたから、男鹿にとって――おそらく、古市にとっても、もうこういう視線の絡ませ方は常だった。普段と違うのは、古市が怖い顔をしていることだけ。
何で怖い顔してるんだよ。それを聞いたところで、もう理由は解っていた。三木のことだ。三木にふるった暴力が、古市の顔を怖くしている。そして、どうして三木にふるった暴力のことで古市が怖い顔をしているのかも解っていた。
「……何で、なんて聞かねぇけどさ」
声が震えている古市。ふるふる続きだ、と見上げる顔に思う。ふるふる、躰の脇で固められた拳も同じように震えていた。それは怖いからじゃない、ということくらい解る。この手は、怒っているから震えている。熱に震えている。視線がちらりそれに向いたのを古市は敏感に察したようだった。きゅっと硬く、震えを抑え込むように握られた手に、男鹿はこの手になら殴られても構わない。そんなことを思った。
「古市」
オレのこと、殴るか。
男鹿の言葉に、古市は元々大きな眼を更に大きくした。は、と漏れた一言は、ぽかんと空いた口が唯一発することのできる音だったというだけで、そこに何の意味もないことは明らかだった。
「……ンで、オレがお前のこと、殴んなきゃなんねーんだよ……っ」
今度は、躰全体が震えた。逃げることだけは得意な足、その爪先から、そこそこ出来の良い頭の天辺、旋毛辺りを突き抜けていったものが何か、なんて男鹿には解ってしまう。毛を逆立たせて、肩をいからせて、顔を紅潮させて、全身で古市が怒っていた。怖い顔とは違う、今の言葉に対して、唯怒りだけを抱いていた。部屋の空気が揺れて、熱量が増したように感じた。古市の声に孕まれた熱が流れ出して、空気を熱くしたかのように感じた。
「っ何で……」
「オレが、三木をぶっ飛ばしたから」
事実だけを述べた一言に、古市は何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。見開いていた眼がぎゅうと細くなる。眉間に深い皺が何本も刻まれて、伏せられて、はらはら前髪で目許が隠れて。男鹿に見えるのはぎりと噛み締められて白くなった下唇だけになった。
そんなに強く噛んでいたら、その内切れて血が出るだろうに。そう思ったが、色の薄い古市の、その唇だけが赤い様というのを想像してしまった。雪の上に散った赤よりも、今日相手にした誰よりも、その赤は男鹿の眼を強く殴るに違いない。
「……お前、何でそうなんだよ」
ぽつり、小さな言葉が落ちる。男鹿はそれが掻き消える前にきちんと拾った。拾ったが、それだけだった。握られた古市の拳、人を殴ることを拒む手は、強張ったまま。
「何で、それでいいんだよ」
オレは、そんなん嫌なのに。
古市の落とす言葉は小さかった。降ってくる雪のように、小さく、柔らかく、冷たく、だから男鹿の耳に届いた途端に直ぐに溶けて消えてしまった。その言葉を解る前に、心に届く前に、まるで幻だったかのように溶けて。かろうじて触れた指先を濡らすより前に、人肌の温度で蒸発してしまった。
熱を失い、消えてしまった古市の言葉を、男鹿にはどうすることもできなかった。


男鹿と古市
誤解されたままでいい(されてもいい)、っていうのは無関心なのかどうなのか。はたして。

(そのままでいい、なんて、)