脳髄打ち抜いても、この世界は変わらないよ
小学校からの腐れ縁の思考回路なんて、解る解らない以前の問題にすぎなかった。先程まで隣り合ってゲームをしていたはずの男に真正面から抱きすくめられ、首筋に埋められたその顔を古市は横から思い切り叩いた。ばしんと頬を張る音が結構気持ち良いものだと知っているのは、対男鹿での経験値を高く積んだからだった。
「お前、何暴力してんの」
オレは弱いオレは喧嘩しないって言ってるくせに。男鹿の恨みがましい視線を斜め下から受けて、そのまま返す。ここがベッドの脇でよかった。ベッドの上だったらもっとのっぴきならない事態になっていただろう、と古市は思いながら今度はぺちり、後頭部を叩いた。
「こんなの暴力でも何でもねぇよ。強いて言うなら正当防衛扱いだコラ」
「せーとーぼーえい」
棒読みもいいところで、これほっとんど意味解ってねぇんだろうなぁ。古市ははぁと短く息を吐いた。男鹿は全く勉強ができないが、考えるよりも先に適当な答えを躰が知っているというだけで、頭が足りないというわけでもない。知識が足りない、常識が足りないとは思っている。
「――取り敢えず、まぁどけよ」
べしべしと後頭部を叩き続けていると、だ!と背中に張り付いている赤ん坊も眼を輝かせて同じようにぺちぺちと男鹿の首の裏辺りを叩き始めた。おいこら、止めろと男鹿が後ろでに赤ん坊の尻の辺りをぺちりと叩く音がする。それが面白かったのか、彼は一層眼をきらきらと嬉しそうに輝かせて、男鹿の背面をぺちぺち満遍なく叩き始めた。
「ちょ、何ヒートアップしてくれちゃってんだテメ! っつかテメェら!」
後頭部を古市、背中全面を赤ん坊が乱打する中、男鹿はがあぁっと怪獣映画宜しく、古市を開放した。途端に涼しくなった首周りに、どれだけ男鹿から熱を移されていたのかを知る。
「ったく、ベル坊も大人しくしなさい! オレの頭は太鼓じゃねぇンだからよ」
男鹿はといえば、後ろの赤ん坊を猫の子のように首根を掴んで前に抱き抱えると、子どもをあやすには到底不適当だと思われるような顔をして説教をしていた。悪鬼が如き横顔を眺めつつ、どうしてこれが親という生き物に見えるのだろうかと赤ん坊をはじめ、何故か三年生までも含むクラスメイト達の顔を幾つか浮かべる。
男鹿は確かに魔王の親になれるだけ――されるだけ――の有り余る馬鹿力を有する男ではあるが、親という生き物は総じて威厳と慈愛に満ちていてしかるべきだろう。ここできちんと、悪魔やら魔王は解んねーけど、と内心で注釈をつけるようになった自分を、毒されてるなオレと客観視できるだけの余裕があった。
そう、悪魔は解らないが、男鹿と親という生き物、基、役割を等号で結べるなんて本来ありえないだろうに。それだけ男鹿と赤ん坊の禍々しいオーラはそっくりなのか、それとも、男鹿が思いの外「親らしい」のか。
まだ叩き足りないらしい0歳児に対し、今度は般若のような顔であやしているのか叱っているのか判別つかない脅し文句を並び立てる男鹿は、しかし古市からすると到底親というのには見えなかった。
「……あんまりベル坊に汚い言葉覚えさせんなよ、男鹿」
「あぁ?」
ちらりとこちらを見た凶悪な顔は見慣れたもので、古市はだから汚い言葉、使うなっていうの。先程男鹿の体温を直接移されていた首筋を擦りながら続けた。
「赤ん坊は育つ環境も大事なんだからな、悪影響を及ぼしそうなことは今後すんな」
「こいつが魔王だってこと忘れてねぇか古市」
悪の親分も親分、大親分だぞと言われている当の赤ん坊は、男鹿に半分シェイクされるような形でのたかいたかいをされてきゃっきゃと喜んでいた。普通の子どもには恐ろしく危険なあやし方だろうが、流石魔王の子といったところか。悪影響すら逆に良い影響になるのかもしれない、と古市は呆れた。
「……なぁ、古市」
高速の上下運動も男鹿自身が飽きたのか、赤ん坊を膝の上にこてんと座らせると古市の方に躰ごと向いた。
「さっきのが、ベル坊に悪影響とやらを及ぼすと思ってんのか?」
――あぁ、やっぱり気付いてたのかよこの野郎。古市の内心での舌打ちを聞いたわけでもないだろうに、男鹿の眉間にぐっと深い皺が刻まれた。それを見て自分の眉間にもくッと力が篭ったのが古市には解った。
「古市、お前、ベル坊盾にして逃げんじゃねぇよ」
「別に逃げてねぇし、そもそも盾にしてねぇよ。深くもねぇところをわざわざ掘り返して深くしようとすんな」
「掘って下さいと言わんばかりのところをどうして掘り返さない奴がいるんだよ、馬鹿め」
普段、滅多に使わないような言葉の組み立て方をして間をおかずに返してきた男鹿の眼から、すぅと視線を鼻の頭辺りに移す、と。
「逃げんな」
男鹿の眼が古市の視線を掬い上げるように傾いだ。そのまま持ち上げられて、真正面から互いに睨み合う羽目になる。逃げんなよ、古市。
「……逃げてねぇ」
「なら、そのままでいろよ」
言うや否や、片手で古市の後頭部を乱暴に掴むと唇、ではなく歯をぶつけてきた。がっと歯と歯が当たる硬い音が頭を揺らし、揺れた頭ごと男鹿に抱え込まれる。濡れた舌が耳を舐めて、耳殻の上部を柔く噛まれた。
「……痛ぇだろ、バカ」
「お前が逃げるからだ」
直接鼓膜に落とされた声に、何だよそれ、何の説明にもなってねぇよ。相変わらずの男鹿の身勝手な言い分に、あぁでもお前、馬鹿だもんなと納得してしまう。男鹿は馬鹿だから、逃げられたら、わけなど解らなくても追いかけたくなる、追いかける、そういう男なのだ。そうやって捕まえて清々しいくらいの笑みで呼ぶのだ。
古市、と。
妙な形で浮き始めた思考とは裏腹に、服の内側に入り込んできた男鹿の硬い指先に自然肌は粟立った。逃げても追いかけてくる。追いかけて、捕まえる。捕まえられる。ずっとその繰り返し。古市、名を呼ばれる。繰り返しを繰り返して――逃げる以外の選択肢というものが、はたして自分にはあったのだろうか?
「……ねぇんだろうな、きっと」
「あ?」
漏れた言葉に、寄せていた首の根から僅かに視線だけ上げて怪訝な顔をした男鹿に、何でもねぇよ、小さく笑う。
「何でもねぇ」
どうこうしたって、結局こういう風になること以外、古市には解らない。だ、と赤ん坊の声が聞こえたが、それが一体どんな意味なのかも解らなかった。
男鹿と古市