べるぜバブ

あぁ、それは絶望を絶望した瞬間だったのだ

それが意味のないことだいうことは知っていた。けれども、知っているということが手加減の理由になどなるはずがなかった。古市が振りかぶった拳は男鹿の左の頬に綺麗に食い込んで、同時に手首を掴まれていた。
「怒るなよ」
古市、と悪びれずに自分の名を呼ぶ男に向かって、今度は右の頬を平手打ちしようとしたが、これは寸前で止められた。左右の手首をがっちりと掴まれて、古市は図らずも男鹿と真正面から向き合うことになった。ごんと肩にあたったのはベッドの縁。足の間にきっちり躰を割り込ませた男鹿は、ベッドに縫い付けるように古市の手首をぐいと押して覆い被さってきた。
「離せよ、お前」
「いやだ」
古市が力で男鹿に敵うはずがない。それは互いに解りきっていることだった。たとえ古市がありったけの力を込めて殴ったとしても、男鹿にとっては三歳児に殴られるのとさほど変わりはないだろう。今も、反射でとはいえ手加減無しの一発をくれてやったにも関わらず、男鹿は何事もなかったように古市をじぃと見つめている。今ではあの赤ん坊がいる分、もしかしたら赤ん坊以下と思われているかもしれなかった。だから、古市が男鹿を殴るなどということはある意味で全く無意味であり、ある意味ではこれ以上ないくらいの事態でもあった。
力で敵わないからこそ、再び古市ははっきりと口にする。離せって言ってんのが、聞こえねぇのかよ。怒鳴るでもなく叫ぶでもなく、冷静に解放を要求する古市の眼を、男鹿は同じ部分で貫いた。
「いやだって言ってるのが、解んねぇのかよ」
言葉を少し変えただけの返事に、これがしっぺ返し戦略ってやつかよ。古市はぎりと男鹿を睨む視線を強くした。これは、次からも古市の言葉を反芻するだけだろう。互いに譲り合うところを譲らないことを選んだ。だから、これはもう動かない。二進も三進も行かない、膠着状態だった。
「……お前、いい加減気付けよ」
自分の声は震えていなかっただろうか、と思う。震えては、きっといなかったはずだ。けれども吐き出した呼気は普段よりずっと細く咽喉の奥から出て、そこで自身の状態を改めて知る。上手く感情を抑制できない。たとえば怒り、たとえば悲しみ、たとえば。
「こういうこと、は、女の子相手にしろって何度も言ってんだろ」
「こういうことを、何で女相手にしなきゃいけないのかってその度聞いてんだろ」
予想通りの返答に、だから古市は無言になった。睨むでもなく、懇願するでもなく、男鹿の何を考えているのか解らない頭の中を何とか覗こうとした過去と違い、唯男鹿の眼を見る。真っ黒だ。男鹿の眼は自分とは対照的に、絵の具のチューブから捻り出した直後の黒よりも黒く、田舎の祖父母の家の押入れの中の闇よりも黒く、眼を閉じた時の闇よりも黒く、恐らく古市が知っている中で一番黒い黒だった。
「……それが、普通だから」
腹の底の底から力と酸素を掻き集めて音を形にして言葉として整えて、絞り出した言葉のつまらなさはどうしようもなかった。それが古市に言える唯一の理由だった。それが男鹿に通じることはないと解っていても、それしか言えなかった。
「それは、お前の普通だろ」
お前の普通がオレの普通じゃねぇんだよ。オレの普通がお前の普通じゃないみたいに。
男鹿の言葉は至極真っ当で、普段同じことを古市は男鹿に言うことも多かった。喧嘩で壁に穴を開けたとき、相手をのした後に土下座をさせているのを見たとき。つい最近では人を殴らないし土下座もさせないと大仰にのたまっていたとき。それは普通の人だと言う自分の言葉がどれだけ男鹿に通じていたのか。
「……『普通の人』になりたいんだろ」
悪足掻きを承知で言う。古市には解っていた。男鹿がどんな顔をして、どんな言葉で古市を絶望させるのか。もう何度も繰り返されてきたのだ。解っている。せめてもの抵抗で、眼を瞑った。
――こういうこと、お前以外としたいとか思わねぇんだよ。
真直ぐに見つめてくる黒の眼は、もうずっと、そして恐らくこれから先も変わらずに古市を追い詰めるのだろう。


男鹿と古市

屋上から飛び降りたくなるくらいに。(20100523)