黒子のバスケ

pre parabellum paradise

黄瀬は自分の耳を疑った。
部室の中から聞こえてくるそれは、確かに喘ぎ声だった。浅く荒い呼吸しかできない所為で、薄く細く紡がれる声は、甘く鼻に抜けるそれ。語尾がはねては溶け、その拙い言葉遣いを揶揄する声が重なる。
「そんなんじゃ駄目だって――……」
「――っせぇ……っ」
(――何、これ)
ドアノブにかけた手は硬直して動かない。手だけではなく、全身が動かせなかった。真冬に氷水をぶちまけられたかのように一瞬完全に判断能力を手放した黄瀬は、更に信じがたい言葉を聞いた。
「笠松、ほら、早くしないと黄瀬が来るぞ――……」
「解ってんよっ、んなことは――」
多分に語尾に怒りを滲ませながらも、笠松は森山の言葉を受け入れていた。そしてまた続いたのは、黄瀬が何度も耳にしたことのある笠松の艶めいた声。
(――オレ、が居ちゃいけない、の?)
にわかに信じられないことが、扉一枚隔てた向こうで起きている。そう考えた黄瀬は平静さを完全に喪失していた。怒りよりも兎に角この現状が信じられず、何も考えられず、唯ドアノブを掴んだ手は本来の動きを為そうとゆっくりとそれを捻っていた。
がちゃり、と。
開け放たれたドア、その向こうの光景を、黄瀬はこれ以上内くらいに見開いた眼で見つめた。
唯、見つめた。





その日、バスケ部はいつもの終了時刻より早めに練習を切り上げた。その前日は祭日で休みだったということもあり、午前と午後両方で練習試合が組まれた。練習と名が付くとはいえウィンターカップまで日がない中行われた、より力の拮抗した高校との試合では得るものも大きかったが、消耗の具合も相当なものだった。そこで明くる日の練習はその二試合の反省と調整という軽めのものに設定されたのだった。
――それなのにどうして黄瀬が一番最後まで体育館に残っていたのかというと、毎度のことながらファンの女子生徒の対応に追われていたからだ。練習が早く終われば、その分彼女達にとっては黄瀬と接する時間が増えるということ。黄瀬としては何故早く上がることになったのかをちょっとでも考えて欲しかったが、所詮それは叶わぬ夢だった。
自分一人置いてけぼりにされ、今こうして全速力で部室まで駆け戻っている。
(帰り、ちょっとどっかに寄ってけるかもしんないし!)
それは勿論一人で、ではない。黄瀬の希望としては愛しの笠松との二人きりデートだったが、レギュラー人総出でマジバに寄るというのもありだ。夏休みにも何回かレギュラー陣で練習後に遊んだ――正しく言えば、ナンパに繰り出したが、無情とも言えるその結果の悲惨さに、今では箝口令が暗黙の内に敷かれていた。
(あー、でも)
あの後も直々森山は黄瀬にセッティングを依頼してきた。しかも何故か五・五のセッティングに拘っている。
『負けっぱなしはオレ達に許されない!』
その「達」が誰までを含めているのかが気になったが、そこは敢えて突っ込まない。唯、状況を鑑みるにその五人には自分のみならず、恋人である笠松も含まれているのは自明の理だった。
(今日ももしかしてナンパ行こうって言うのかなぁ)
黄瀬としてはいい加減自分と笠松をメンバーから除いて欲しい。黄瀬は現状女の子とのお付き合いなど微塵も望んでいないし、笠松とて同じのはずだ。だが、とも黄瀬は続けて思った。
(あの免疫力のなさは流石に問題かも)
今後笠松が生きていく上で、「あぁ」と「違う」だけで乗り切れるとは到底思えない。そうなると、今の内にある程度、しかも黄瀬の目の届く所で免疫力をつけた方がいいのかもしれない。
「うーん、微妙なところっスねー」
独り言ちる黄瀬の眼は、部室から漏れる灯りを捉えた。最後の加速で一気に部室前まで飛んでいく。
(ま、そこはおいおい考えればいースよね!)
今日のこの時間を如何に笠松と過ごすか、に切り替えて部室のドアノブを掴んだそのとき。

「――ぁっ、や、めぇ……」

中から聞こえたのは、けしてこの場で聞くことはないだろう、艶めかしく濡れた声。

「――いいぞ、笠松、その調子だ」
「……っこれ、いつまでやらせんだよ……ぉっ」
「お前が慣れるまでだな。ほら、続き続き」
「後で覚えてろよ森山……っ」

黄瀬の恋人である笠松の声だった。





「――――で、これ、どういう状況なのか教えて欲しいんスけど?」
腕を組んで仁王立ちした黄瀬の前には、森山と、所在無さげに本を片手に持った笠松がベンチに座っている。こめかみに青筋を浮かべた黄瀬の声はあくまで静かなものだったが、あろうことか完全に森山と笠松はこの二歳年下の男の怒気に飲まれていた。しゅんと背を丸め、二人してうなだれるばかり。本屋でつけられたのだろう、薄茶の紙でカバーされた薄目の文庫本を手にしていた笠松は、それをそっと自分の脇に置いた。そうしてまた泥のような沈黙が降りる。
壁際のパイプ椅子には小堀と早川が座り、この滅多に見られない光景を眺めていた。他の部員達は既に帰宅した後だったのが不幸中の幸いだ。いつもならば黄瀬と笠松の立ち位置が反対なのだが、今日のこれはどちらが悪いというようなことでもないよなぁと小堀は考えて、口を開いた。
「黄瀬、これオレから説明してもいいか?」
「……本当は、こちらの二人から説明してほしいんスけどね」
黄瀬はちらと小堀を見やっただけで、直ぐ視線を前に戻す。険のある言葉遣いは、後輩が先輩に対してのものだと考えると随分尊大なものだったが、今それを咎めることができる人間はいない。その役割を一手に引き受けている男が、その当の二人の内の一人だったからだ。
黄瀬の言葉に苦笑しつつも、小堀は話を切り出した。
「黄瀬も知っての通り、幸はちっとも女の子と話せない。壊滅的なほどに」
「……そっスね」
その点には深く同意する。夏の悲劇を脳裏に思い浮かべ、頷いた黄瀬を認めて、小堀は続ける。
「でも、今後それでやっていけるかって言ったらそれは無理だろう? どうにかして女子耐性を身につけないと、幾ら幸ができる奴だからって乗り切れないことも多くなってくる――森山はそう考えたんだよ。たとえば夏の……アレだ」
最後の言葉に、笠松を除く四人が同時に遠い眼をする。小堀ですら遠い眼をし、そのときばかりは笠松は恨めしげに小堀を睨んだ。
「……しょうがないだろーが……」
普段の鬼主将とは到底思えないほど弱々しい声に、同時に今度は同情しそうになった。怒り心頭に発している最中の黄瀬も例外ではなく、はっと緩まった己のたがに気付いて、気を引き締め直す。それで、と小堀を促した。
「で、生身の女子に対してどころか、写真の中の女子すらまともにみることのできない幸にどうやって女子免疫力をつけるか、を森山が考えてきたんだよ」
「――それが、コレっスか?」
笠松の脇に置かれた文庫本を手に取ると、そのカバーをぞんざいに外した。
「ちょ、馬鹿何して……っ」
「あのスねぇ、センパイ方」
露わになったその表紙を眺めて、黄瀬は怒りとも呆れともつかない感情の入り交じった溜息を零した。
机の上に膝を立てて座ったセーラー服の少女が、胸元までシャツをたくしあげてこんもりとした乳房を晒している写実的な絵柄の表紙。大胆な姿と同時に、スカートから覗く下着はお決まりの白、という男心と下半身をよく解っている構図。
タイトルを黙読し、黄瀬は再度、これみよがしに溜息を零した。
「だからってこんなの音読してどうなるっていうんスか?」
黄瀬の手にあるのは、森山が持参した『女子高生 処女の正しい捧げ方』という、何処からどう見ても成人向け――というよりもむしろ、中高年男性向けの官能小説だった。
「ぐっ……っ」
眼の前に突き出されたその表紙を直視することができず、笠松は顔を横に逸らす。既に首筋まで真っ赤になっている笠松をよそに、森山が息を吹き返して「やっぱりもっとアニメっぽい絵柄の方が良かったか」と呟いている。小堀はすかさず早川の目許を両手で覆って情報の遮断に余念がなかった。
「アニメっぽくても何でも、これはないでしょ」
「いやいや黄瀬、お前『アドレナガレッジ』って番組知ってるか?」
「……まぁ」
過去に放映されていたその深夜番組なら何度か視聴したことがあった。
「あれでさ、グラビアアイドルが官能小説音読するコーナーがあったんだよ。聞いてる方がそれで心拍とか血圧とかが一定の値超えたらアウトってやつ。それを思い出して、これだ!と、思ったわけだ」
「……というと?」
当事者たる森山が話し始めたので、黄瀬は視線をそちらに向けた。
「だから、生身の女の子が駄目なら先ず二次元だ、と。そう考えたわけ。笠松とて、実在しない女の子相手なら大丈夫だろって。そんでちょっくら覗いた古本屋で一冊五十円で売ってたもんでな、買ってみたんだ」
「……余計なお世話だっての……!」
怒鳴ってはいるが、未だに黄瀬に突きつけられている表紙から意識が逃げ切れていないのか、笠松のその声は語尾が掠れている。もういいだろうと黄瀬は小説にカバーを着け直してベンチに置いた。
「……でも、森山先輩ならそれこそネットの小説プリントアウトとかラブ・プラスとかやらせそうな気がするんスけど。わざわざ買うなんて――」
「ネットの知識禁止だと言ったのはお前だろ!」
あ、覚えてたんだ、と内心驚く。まさか未だに忠実に守っているとは思わなかった。だが、ネットを禁止にしたら次はテレビ――しかも深夜のバラエティ番組を参考にしているあたり、やはり森山は残念な人だった。
「まぁ、それはいいとして。あくまでこの方法に拘るんなら、森山先輩とかが音読して笠松センパイが聞くっていうのが普通なんじゃないスか?」
「誰が悲しくてそんなの男相手に音読しなきゃいけないんだ」
「……笠松センパイの音読笑って聞いてたの森山先輩じゃないスか……」
これでは単なる笠松の公開羞恥プレイだ。ここまでくると最早脱力するしかない。はぁと肩を落とした黄瀬は、笠松の隣に腰を下ろした。
「笠松センパイもセンパイで、どうして素直に音読なんかしてたんスか。絶対殴ってでも断る方でしょ」
「そ、それはだな」
黄瀬の視線から逃れようと泳ぐ笠松の視線と言葉を、黄瀬は根気よく追う。逃がすことは考えていなかった。
(オレだって吃驚したんスから)
ドアを開けた直後、ベンチに向かい合って座っていた二人を視界に捉えたとき。これ以上ないくらいに顔を真っ赤にした笠松と、笑い過ぎたためだろう、目尻に涙を浮かべた森山、二人の動きが停止ボタンを押されたかのように止まった。
『き、黄瀬……』
笠松の声が、少し震えているように聞こえた。それがそのときの黄瀬には火に油となって、気付いたときには先輩二人をベンチに正座させ、問い詰めていたのだった。
「――まぁ黄瀬、それは笠松の可愛いところ故だから責めてやるなって」
黙ったままの笠松に代わり、森山が「せめてもの罪滅ぼしをしてやろう」と口を挟んできた。まさかの裏切り行為に、笠松が森山の方を振り返りその襟首をひっ掴んだ。
「も、りやま!」
「――是非、教えて欲しいスね」
その笠松の手を、後ろから抱き込むようにして掴むと離させた。そのまま笠松が暴れ出さないように、自身の腿に乗り上げさせて腕の中に拘束する。
黄瀬としてはちゃんと足の間に座らせたかったのだが、流石にそこまでは人前なので止めた。しかしいざ腿の上に乗せると、暴れる笠松の尻が揺れて丁度足の間を擦ったりしなかったりしたので、やはり足の間に抱き込むように座らせ直した。黄瀬自身に公開羞恥プレイの趣味はない。
「黄瀬、てめぇ、離せ!」
「おーおー見せびらかすなよ黄瀬。あ、んで、さっきの続きだけど。昨日さ、試合しに他校行っただろ。で、お前は相変わらず笠松にしばかれてただろ」
「ス」
「それを見たあちらの学校の女子がさ、帰り際笠松呼び止めて『あんなの酷い、体罰じゃない!』って怒ってたわけだ」
「……え?」
そんなことは知らない。黄瀬が驚きにみはった眼で笠松を見ると、「もういいだろ森山!」と何とかしてその先を言わせまいとしていた。
「別に、オレはそんな風に思ってやったことねぇし、言いたい奴らには言わせておく――……」
「そういうわけにはいかないでしょ」
遮る黄瀬の声音の低さに、笠松は言葉を詰まらせる。自分のことで今までにも笠松がファンの女子から苦労してきたのを黄瀬は森山経由で耳にしていた。笠松自身が黄瀬にそれを口にしたことは一度もない。それは黄瀬の所為ではないと判断してのことだろうが、黄瀬当人にとっては看過できないことだった。
「――ま、そういうこと言われても、やっぱり笠松は女子免疫ゼロだから何も言い返せないだろ。最終的にオレが笠松回収したし。でも、オレだってそこはきちんと説明できた方がいいと思うわけ。言い訳って捉える奴がいたとしても、黙って言いたい放題させといたり耐えたりなんて、そんなとこでまで笠松が面倒背負い込むことないだろ」
だからこそ、女子免疫力をつけられるときにつけておくべきだと思ったんだ、と森山は続けた。
「笠松だって、どっかでそう思ってたからオレの『対女子講座』に乗ったわけだし」
「……そうなんスか? センパイ」
必死に顔を逸らし続ける笠松を覗き込むようにして、その目線を絡めとる。
「……センパイ」
「……慣れてるし、今更どうこう言ってもだろうが」
(慣れてるって)
そんな風に言われて黄瀬が情けなく、そして不甲斐なく思うということは、笠松には解らないのだろう。笠松は自分が男だからある程度までなら女に何を言われようと耐えて然るべきだ、と考えている節がある。フェミニストとはまた違う、それは女とほとんど話したことのない笠松が自然身に着けた対処法だったのかもしれない。
けれど、と黄瀬は思う。けれど、黄瀬自身が笠松のことを悪く言われるのが許せない。それもよりによって自分のことでなんて、許せないどころの話ではない。
海常での練習では、すっかりお馴染みの態を擁してきているから女子生徒からの文句の声もほとんど聞かれなくなった。それは黄瀬がやんわりと、しかし直接見学に来る子らに言ったお陰でもあったし、黄瀬自身が練習を、そして笠松とのやりとりを心底楽しんでいることが傍目にも明らかだからだった。――しかし、こういった他校との練習試合ともなれば話は別だった。
「――やっぱり、センパイどうにかして女子免疫力、つけましょ。駄目っスよこのまんまじゃ」
「な、お前まで何言い出すんだよ!? いや、オレだってもっと女子と話せるようになりたい……ってかならなきゃとは思ってるけど、何かお前に言われると癪なんだよ、癪!」
なりたい、という辺りに笠松の男としての本心が垣間見えた。あ、やっぱり止めようかなこのまんまでもいいかな。黄瀬は舌の根も乾かぬ内に前言撤回を考える。
(女子相手より余程気持ち良いことしてるんだけどなぁ)
自分で言うのも何だが、黄瀬は笠松相手には相当奉仕している。歴代の彼女相手と比べても、笠松に気持ち良くなって欲しいという気持ちは桁違いに強い。その分黄瀬も気持ち良くさせてもらっているので、あんまりその点を前面に押し出すことはしないが、女子に対しての興味はどうしても残り続けてしまうのか。バックバージンは黄瀬が貰ったとは言え、言ってしまえば笠松は童貞だからそれも当然なのかもしれない。必要以上に女子相手への興味がそそられない内に、と別の観点からの女子対策を考え出した黄瀬は次の瞬間、信じられない言葉を聞いた。
「――でも、幸って積極的に話しかけてくれる女子相手だと、意外と乗り切れるよな」
早川の耳を塞いでいる状態を維持したまま、小堀がぽんと放り込んできた言葉に黄瀬は眼を見開いた。
「え?」
「相手の女子がさ、幸の『あぁ』と『違う』の二パターンを把握してて、それで済むように会話を作ってくれたりすると、なかなか長時間話せてるんだよ」
傍目、口下手で不器用な夫を尻に敷いてる利発な妻みたいな構図になってるときがあるんだ、と笑う小堀は、己の発言がどれだけ黄瀬に衝撃を与えたかを全く解っていなかった。何スか、何話してんスかと喚き始めた早川を宥める方に思考が移っている。
「……それ、マジスか」
そちらのパターンを考えていなかった。そうだ、笠松が積極的に話すことを前提としていたが、逆のパターンもあるのだ。つまり、女子の方が笠松に興味を抱いてしまうパターン。先の失態ばかりが先行して、完全に失念していた。
(ってことは、姉御肌で先導型で押せ押せな女子が出てきたらセンパイなびいちゃう可能性もあるってことに……!)
笠松のことだ、女子が言葉に含む裏の意味など読み取れずに「あぁ」と「違う」だけでいつの間にか押し倒されている、ということもあり得る。ほとんど騙し討ちでの合意というか、実態はほぼ逆レイプだが、責任を持ち出されたら矢張り頷くしかできないだろう。
そこまで一気に考えて黄瀬はさぁと血の気が引くのを感じた。このままでは危ない、手段を選んでいる場合ではない。
実際、この対女子講座はあまりに偏りがあるし、そもそもいきなり中盤をすっ飛ばして本番真っ最中の女子に耐性をつける――しかもAVですらなく、官能小説音読という形で――方法には大いに異論があった。そもそも森山が講師という時点で結果が知れたようなものだった。だが、これは本気で笠松の女子免疫力をつけるべく対策を練る必要がある。しかも早急にだ。黄瀬は森山に視線を合わせると、がっと深く頭を下げた。
「――今後とも笠松センパイ用女子対策講座、宜しくお願いするっス、森山先輩」
「任せておけ、黄瀬。オレはエキスパートだ。笠松いじ……うん」
「お前今笠松弄りって言おうとしただろ、おい、森山!!」
笠松の突っ込みを完全に無視をするどころか、その口を片手で覆って黙らせた黄瀬の眼は若干据わっている。その眼を見て満足そうに頷いた森山は、にぃと左右の口角をきっちり左右対称に吊り上げて笑う。
共同戦線を張ることを誓い、二人は固く握手を交わした。





(来る(かもしれない)戦いに備えなきゃ!)


pre + parabellum + paradise:戦いに備える楽園。要塞としての楽園。

(20110421)