シュガーオフスパイス
一つの布団に二人で潜り込み、一枚の毛布を分け合うのではなく、腕の中に恋人を抱き込んで、毛布に包まる。
冷暖房をつけたがらないのは、単に慣れていないこともあるらしい。かえって体調を崩しやすいのだと聞いて、現代人なのに現代文明に打ち負けている年上のその人のちょっとした弱点を知れたような気がして嬉しかったのを思い出す。以降、彼が家にやってくるときは極力冷暖房を控えめにして、外気温との差が大きくならないようにしていた。
それは、別に口にして約束されたものではない。あくまで自分が自主的に行っていることであって、だから約束ではない。けれども、そういう些細なことに気付くのが彼の恋人だった。
『……お前の方が体調管理しなきゃいけねんだから、オレに合わせてくれなくてもいいんだぞ』
秋も終わりに近付いた頃、エコ温度を維持している室内は少しばかり肌寒かった。温かい飲み物でも、と立ち上がったとき、くいと服の裾を引っ張られてそう言われた。
自然上目遣いで自分を見ることになっているその姿、実にそそるものがあったのだけれど、不器用な恋人にその意図は皆無なのは火を見るよりも明らかだった。そうと腰を恋人の隣に下ろす。柔い線に掌を添わせれば、温もりがじんわりと伝わる。子ども体温、というよりは、恐らく自身が冷えているためだった。
『――オレとしては、でも、センパイの体調の方が気になるんで。ウチのチームのエースはオレかもですけど、大黒柱はセンパイだもん』
エースはその名の通り切り札だが、大黒柱とはまた異なる。少なくとも今の海常において、慢心ではなく、エースが自分であることに疑う余地はない。そして、レギュラーの中では一番身体が小さいとはいえ、チームの背骨となる部分にこの存在があることにも疑う余地はなかった。
『――しょっちゅう盛り出す男が言うには説得力の欠ける台詞だな』
片手だけだったのが、自然両手で顔を包み込むようにしている自分に、凛々しい眉を軽く上下させておどけた表情をする。そんな表情は、普段の部活中の彼には望むべくもない。公私をきっちり分ける彼の性格では、制服を着ているときないし部活動のときにはお目にかかれない貴重な姿に、どれだけ自分がこの人に近付いたのかを知る。こそばゆい気持ちを身の内で抑え切ることはできずに、くしゃり相好を崩す。
『なーに笑ってんだお前』
両手でぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き回す人の態度は、まるでじゃれる犬を甘やかす様にも似ていると、以前二人のやりとりを見た先輩が評していた。それは見事に的を射ている。
甘えることは滅多にしないのに甘えさせることはする、気遣われるのが嫌なくせに自分は気遣いをする。生来兄貴肌というか親分肌というか、頼られることで真価を発揮するようなところがあるだけに、恋人の自分に対してもその側面は遺憾なく発揮されていた。自身末っ子気質がある分、こういった優しさについ甘えてしまうことも多かった。
だが、それでも今の自分は彼の恋人だった。弟でもなく後輩でもなくエースでもなく、唯の恋人だった。彼を愛しく大事に思う、それだけの男だった。
彼に伸ばしていた手でそのまま背中を抱き、腕の中にすっぽりと収める。触れ合う部分の面積が広くなるだけ、温もりが多く伝わってくる。
掌、腕、肩に胸に首筋。これで彼が同じように腕を回してくれたら、背中と腹も温まるのだけど、と思いながら、それをねだることはしなかった。これでも十二分に温かい。更に言えば、腕の中の愛しい人が、暴れることなく頬を首に摺り寄せてきてくれているだけでもう何も望めなくなる。本人としては甘えているつもりはないのかもしれなかったが、普段を考えればこれは「甘え」の範囲に含めてもいいくらいだった。
『……ね、オレは直ぐにセンパイであったまれるからいーんスよ』
その言葉に嘘はないことを示したくて抱く腕に力を込めると、咽喉の奥で殺したような控え目な笑いが耳朶の直下を擽った。
『どういう意味でだ、って聞くのが怖いなそれ』
『……何だかセンパイ、今日もしかしてそういう気分スか?』
ちょいちょい差し込まれる彼の言葉に色を持った含みがあることを指摘すれば、ゲームメイキングに定評のある勝負師の一面を覗かせた眼で見つめてきた。勝ち気な黒は負けることを考えてもいなかった。
『もしかしなくても、そういう気分だな』
背中に回された腕にも肯定され、二の句が継げなくなる。こんなに素直に甘えてくるなんて、一体どうしたのだろうか。言葉に窮する自分に、次の爆弾が投下される。
『別に特段理由なんてねぇよ? オレだって、お前に欲情することくらいあるってだけだ』
『よ、欲情て』
イメージにそぐわない言葉に面食らう。女子相手では普通の会話すら二言で済ませるような人なのに、どうして一方ではこんなあけすけに物を言ってしまえるのか。いや、確か「巨乳」という言葉すら使えなかったときもあった。どうにも恥ずかしさを感じる言葉の割り当てがおかしい気がする。
しどろもどろになったこの姿が、実は予想通りの反応だったらしく「お前って結構解りやすいとこあんよな」と笑みを零す。きらきらした悪戯っ子の顔で頬に口づけてきたものだから、それはどちらかというと親愛のキスのようなものだった。
それが癪で、顔をずらして唇と唇をくっつけるそれに変えたのは自分だった。僅かに開いた唇の隙間から舌を潜り込ませて、つるりとした歯列をなぞる。その間に、腰に緩く絡められた足に浮いた背骨を踵で辿られる。上って、下って、尾てい骨の部分をごりと抉るように強く押されて、前の部分に鈍く響いた。
『そういう煽り方って何処で覚えるんスか』
『ここで覚えるんだろ』
『……ここで?』
背中を滑り落ちた掌で、同じ部分を強く押す。更に伸ばして、服の上から浅く抉るように押しつけた指先は、きゅうと固く引き締まった双つの肉に挟まれた。
『親父かよお前は……』
語尾を呆れ混じりの溜息でぼかしながらも、嫌がっていないのは乗り上げてきた躰で解った。
腰に跨る人は自分より二つも年上だったが、逆にこういった経験は自分よりずっと少ない。むしろ皆無と言ってもいいほどだ。それなのに、自分を翻弄するその手練手管には驚かされてばかりだった。それも彼に言わせれば「無意識」か「お前の所為」ということになるのだが。
『……な、黄瀬。本当さ、お前オレのことはいーんだよ。心配してくれんのは凄く有難いし嬉しいんだけどさ』
『でもね、センパイ、オレは』
言いさした言葉は、緩く唇で止められた。
『――だから、これはオレの「我が儘」になんだけど。一つ、聞いてくれねぇか?』
下唇を軽く食んで、その位置からの上目遣いに心臓が高鳴る。
この瞬間に、これは甘えだ、という了解が暗黙の内になされた。これは彼の甘え、そうして自分はそれを受け入れたという態を作り上げられて、本当に流れを読むことと作ることが上手い人だと思い知らされる。
『――黄瀬』
そうして、彼のとても優しくて賢い恋人は「我が儘」を口にした。
人肌のお陰で温い布団の中で、一つ一つ交わした約束の全てを思い出して黄瀬は微かに笑んだ。
「……何笑ってんだ、お前」
腕の中から顔を上げた笠松は、ほんわり温かい指先で黄瀬の頬をきゅうと抓った。痛いっスよセンパイ、とちっとも痛みを感じていない声で黄瀬は笑い、お返しといわんばかりに笠松のこめかみに一つキスを降らせた。
「や、オレ実際そんなにセンパイと約束ってしてなかったなぁって思って」
「は?」
「いや、オレって仕事が仕事だから、どうしても今までの彼女って約束したがったんスよね。我が儘じゃないけど、『この日は絶対空けてね、約束だからね』みたいに」
「うっぜー。や、その彼女じゃなくて、それをオレに言うお前がうぜぇ」
くすくす笑いを漏らす黄瀬の腕の中で身を反転させて、表情を見せないでそんなことを言う様が可愛くて仕方がない。耳殻を唇でやんわりと食む。
「嫉妬ス」
「違ぇ。お前、オレの女子相手の態度見てそれ言ってんだろーが」
「あぁ、あれは確かに」
女子免疫力ゼロの恋人のあの壮絶な失態を思い出しかけて、思わず笑いそうになったが、肩越しの射殺す視線にぐっと堪える。
「――何だ?」
「……や、何でもないス」
口にチャックをする、というのはこういうことだと黄瀬は納得する。再び前を向いてしまった笠松は、黄瀬と同じ場面を思い出してしまったのだろう。あぁとかうぅとか呻きながら耳を両手で覆って丸まってしまった。首の裏まで赤くなっていく様に、あの日の悲劇が笠松にもたらした傷の深さを黄瀬は改めて知った。
笠松は黄瀬の恋人だ。それ故に、その恋人が女相手の失態に悶える様に苛立ちを覚えてもいいはずだったが、現場に居合わせたものとしては、それよりも同じ男としての同情の方が大きかった。あの空気は滅多に体験できるものではない。
だから慰めるではないが、彼の躰の胸辺りで組んでいた両手をゆっくり腹の辺りにまで下ろし、くいと自身に引き寄せた。自分の腹と笠松の背中をぴったりと貼り合わせると、手で覆われていなかった耳の裏側に唇を押し付けて囁く。
「センパイの我が儘って、その実オレのための我が儘だから、それこそ約束ってやつだと思うんスよね」
「……急に何。ってかそもそもオレお前と約束なんてしねぇだろ」
黄瀬の言いたいところが解らないのだろう、手を外して目線だけ黄瀬に寄越した笠松は、先を促すように眉間に皺寄せた。一見不機嫌そうに見えるこれも、半ば彼の癖のようになってしまっているものだと知ってしまえば意味を読み違えることはなくなる。今のように折角二人きりで、しかも同じ布団に包まっている状態でも同じことだった。抱き締める腕に力を込める。
「大抵命令スからね。遅刻すんな手ぇ振ってンな手ぇ抜くな甘えるな」
「命令じゃねぇ、純然たる後輩指導だ」
「『寒いときには抱き着かせてろ。だからお前も抱き着いてこい。言わずもがな二人っきりのときだけだぞ』――ってのもスか?」
「――ってめ!」
黄瀬の発した最後の言葉に瞬時に暴れ出すが、きつくされた拘束の中では思うように動けない。低く唸り声を上げる笠松に、黄瀬はくすくす笑いを漏らす。
「お前って本当嫌な性格してんよな!」
「センパイは本当可愛い性格してるっスよ」
「――っ後で覚えてろよ、似非モデルもどきが!!」
この状態での抵抗は無駄だと判断したのだろう。シャツから覗く肌を真っ赤にしながら、逆に貝のように布団の中に身を固めて沈めた笠松を抱き抱える黄瀬の顔は甘く蕩けたままだ。
「だってあれ、センパイが言わなかったらオレが言ってたから」
それなのに、自分の我が儘だと言って先に甘えてくれた。どうしたって可愛くないはずがないのに、今更照れながらも怒ってみせる恋人のこういう不器用さもまた可愛く、そして愛しくて仕方がない。あのときは如才なく流れを作ったくせに、どうして今はこんな風に一杯一杯になっているのだろう。あのときと今の違いが黄瀬にはよく解らないのだけれど。
「――やっぱり可愛いスよ、センパイ」
後頭部の柔らかな黒の髪に鼻を埋め、もう寝ようとゆっくり瞼を閉じる。腕の力も少しだけ緩め、お休みなさい、と口を開こうとしたときだった。
……お前が、可愛いことすっから甘やかしたくなるだけだ。
腕の中から小さく、それこそ寝言のように何の前触れもなく発せられた言葉に、じわじわと自分の胸の内側と肌が、温まる以上に熱くなってしまいそうで、抑える代わりに再び両腕に力がこもる。あんまり強く抱き締めると苦しいと笠松に怒られることは過去の経験上解っていたが、我慢が利かなかった。項に押し当てた唇で、浮き沈みするなだらかな頚椎を何度か食む。その先の行為を求めているわけではなく、それこそ甘えているだけだった。
抱き枕でもあるまいしと思う心とは裏腹な手に、しかし、許すように笠松の手が重ねられ、きゅうと優しく握り込まれてしまえば募るのは愛しさしかない。依然黙したままの恋人に溢れる思いを吐き出す代わりに、黄瀬は耳朶に口付けて吐息で伝えた。
(あぁこの人ってば本当に可愛いんだから。)
sugar off:(かえで糖製造の際に)糖蜜状に煮詰める。
sugar and spice:人懐っこい人、優しい人
某さんにリベンジ限界の向こう側をやろうとしてやらかした小話。