黒子のバスケ

ハンキトンズ

インターハイが終わり、気合も新たにウィンターカップに目標を定め練習に余念がない海常バスケットボール部だったが、その日は少々事情が違った。
先ず、日常茶飯事だった観客たる女子生徒の声が全く聞こえなかった。代わりに聞こえるのは、ひそひそとした話し声だ、時折、沸いたような歓声もあったが、それ以外は至って静かな観客だった。
次に、部員の様子が違った。最初はそわそわして落ち着きがなかったのが、次第に普段以上に集中していくのが肌で感じられた。一つ一つの動作に取りこぼしのないようにと細心の注意が払われ、鋭くなっていく集中力は、まだウィンターカップの予選も始まっていないというのに、まるでそれを翌日に控えているかのようなレベルにまで高まっていた。
笠松はそんな部員達をみやり、満足げに僅かに口の端をにっと上げる。
「お前もあんなときがあったんか?」
なぁ黄瀬、と笠松は笑った。その眼は部員達のカンフル剤たる部活見学に来た中学生一群を映している。
まだまだ幼い、丸みを帯びた輪郭にキラキラ輝く眼が右へ左へ動き、全国でも名の知れたバスケ強豪校である海常の練習を焼き付かせようとしている。
丁度基礎練習が終わり、オフェンス練習やディフェンス練習、ミニゲーム等分かれて行い始めたときに来たのが良かったのだろう。飽きもせずに、逐一部員の動きを追う様は懸命だった。
今回部活の練習の邪魔にならないようにと、体育館の二階から眺めるだけの処置が取られていた。自分より三歳しか違わない彼ら彼女らから漏れる、普段の黄色い声とは違う素朴な感嘆をどうしたって擽ったく感じる笠松と同じような気持ちになる部員は多く、張り詰めた緊張感を伴う練習の中にも、「恰好悪いところを見せたくない」という良い意味での気合が十分感じられた。
そう、海常バスケ部では、一年生エース目当ての女子生徒達というコート外からの圧力が定着してしまい、薄まりつつあった。
そんな中、あのきらきら、太陽か星かと言わんばかりに輝く眼差しを燦々と頭上から降り注がれ、気を抜ける馬鹿はいない。ここぞとばかりに慣れないプレイに挑戦するという部員もあったが、それはそれでやる気の表れと見做すこともできた。後で十分指導するが。
笠松はそんな部員達の様子も含め、今日この体育館の雰囲気を微笑ましく思いながら、一年生にして海常のエースであり、キセキと謳われた中学生時代を過ごした横の男を見上げた。
すると、どうだろう。つんと唇を尖らせて、「今自分はいじけています」という態を全く隠そうともせずに黄瀬が口を開いた。
「センパイもあんなときがあったんスか?」
「あぁ?」
自分の問いを丸きり無視した返事に――いや、返事ですらない、問いに答えていないのだから――笠松はぴくりこめかみを引き攣らせた。
「人の言うこと無視しといてまぁ勝手なこと抜かすなお前。あったよ、あったに決まってんだろ。生まれたときから178センチあったら怖いわ」
「……オレがそういうこと聞いてんじゃないって解ってるくせに、そういう返し方するって酷くないスか」
「最初に無視したのはお前だろーが」
手元のストップウォッチに視線を移せば十分経過している。笛を吹いてメンバーを交代させ、またミニゲームをさせる。今日の部活は二年生中心に回し、笠松は主に指導の立場で参加していた。
明日に校内模試を控え、本日不在の監督公認で大半の三年生は休養も兼ねて今日の部活には出てきていなかった。だが、笠松はじめレギュラー三人組は普段通りに出てきている。笠松は部活動実績と学業成績を認められての特待生入学だったし、他の二人も毎回の試験で学年二桁を維持している。割合勉強はできる面子なのだ。その二人は、それぞれ森山はオフェンス練習に、小堀はディフェンス練習について後輩達を指導していた。
「センパイって真面目っスよねぇ」
会話の最中も自分の仕事を忘れない笠松が不満だったのか、黄瀬が「ってか本当に178センチあります? 誠凛のキャプテン178って聞いたけど、絶対それよりちょっと低いスよね」とちくちく突付いてきたのでぎろりと睨み上げた。
「言いたいことははっきり言え。慮るとか察する推し量るとかお前相手にしたくねぇ。メンドイ」
「本当、ぶれずにつれないっスね……」
「つまり黄瀬は笠松にもあんな風に『森山さん恰好良い!』とか『今の森山さんのプレー超スゲェ!!』とか言っちゃって憧れの相手にお目めきらきらさせているときがあったのか、と、そういうことだな黄瀬」
「そうっス、まさしく……って森山先輩!?」
二人の背後からにょっきり首を突き出して話に加わってきたのは、オフェンス練習を観ていたはずの森山だ。二人と体育館の壁の僅かな隙間にその長身をいつ滑り込ませたのか。相変わらず突拍子もないと呆れる代わりに、笠松は「お前あっちはどうしたんだよ」と問うた。
「んー、今はセットやらせてる。お互いの動き見るように指示しといたから、後でそれフィードバックさせて一回ミニゲームやらせたいんだけどいい?」
「あぁ、いいぜ。それなら小堀の方でもチーム作らせてそれとやらせっか。ここんとこ試合形式でやらせてなかったしな」
別コートでディフェンス練習を見ている小堀に声を掛けようとすると、後十分待ってと、ばっと広げられた両の掌で返される。頷き返してから、コートの全面に視線を走らせて全体を確認する笠松に、森山はサンキュと口にした。
「それでよろしくー。――で、黄瀬、さっきの話の続きだけど」
いきなり話を振られ、置いてけぼりにされていじけかけていた黄瀬は「そっスよ、で、いたんスか、笠松センパイにそういう憧れ的な人!!」と森山の首根っこを抑えんばかりの迫力で大声を出した。
「まぁまぁ落ち着け、黄瀬。順を追って話してやるから。そう、あれは蝉の鳴き声もまだ残る、九月になったとはいえまだ暑い――」
「そういう無駄な前置きいいんで、いたかいないか答えて下さいっス!!」
「……流石のオレも、開始十秒も経たない内に無駄認定されると傷付くぜ黄瀬……」
およよと顔を両手で覆い隠した森山のそれがあからさまに演技だと解っていても、ぐっと詰まってしまうのは年功序列重視の体育会系だからか。
しかし、答えようとしてくれていた森山に対して失礼だったことも確かで「あの、スミマセンっした」とぺこり頭を下げたのを、笠松と森山が小さな微笑と共に見ていたことを黄瀬当人は知らない。
元々が良くも悪くも素直な後輩の入学当初の生意気な態度とは大違いで、随分と変わったもんだとしみじみ思う。早川に生意気な口を聞いて、彼の歯軋りが部室に響いた日が懐かしい。
更に笠松の場合、他色々と黄瀬との関係は変わっていることにまで思い至りそうになって、無理矢理蓋をした。その所為でぶすっとなった顔に笑いを噛み殺しながら、森山はへにょんと耳と尻尾を垂らした黄瀬に話しかける。
「で、笠松に憧れの先輩がいたかどうかだよな。結論、いたよな? 超男前で当時の高校バスケじゃ一、二を争う実力の、長身のポイントガードの先輩がいてさ、まぁ男も女もきゃあきゃあ言ってたよなぁ、見学んとき」
「……オレは別に、きゃあきゃあ言ってねぇよ。でも、まぁその先輩もいたからってのが選んだ理由の一つだけどさ」
「素直じゃないねぇ、あのインハイんときの対木津工業相手の神業的なスティールにはオレも鳥肌立ったぜ。完全に死角狙ってのパスだったじゃん、何処に目ついてんだって思ったし、解ってたとしてもそもそも反応できねぇよアレ」
「そうそう!! オレあれ見て、絶対この先輩のとこ行くって決めたんだよな!! そのとき三年だったから一緒にプレーできないのなんて解ってたけどさ、海常は縦の繋がり強いから引退したOBが良く練習に来てくれるって聞いてたし。二階から見たときも半端なかったけど、実際高校推薦で受かって一足早く土日練習に参加させてもらってたときとか、至近距離であのプレー見れてもうオレ興奮して仕方なくて! 話しかけてもらって直接教えてもらったときとかなかなか眠れなかったし、頭撫でてもらったときには髪洗うの勿体無いって本当――……」
森山も多少引くくらいに熱い思いの丈を迸らせていた笠松が、口を噤んだ。噤まざるを得なかったと言った方が正しかった。それくらい、後輩の――年下の恋人から出るオーラは、禍々しかった。暗雲立ち込めるどころか積乱雲の只中にいるかのような雰囲気に、囃し立てた森山すら黙った。
もしかしなくても、これはまずいのでは、と察した笠松が恐る恐る「黄瀬?」と呼びかける。
「……おい、あの、黄瀬?」
「へーえ、へーえ、センパイにもそんな、ミーハーな一面があったんスねぇー」
「……お前も青峰に憧れてバスケ始めたんだろ? 後、黒子引き抜こうって誠凛にまで行っただろ? 同じだよ、それと全く寸分違わず狂いなく、同じ。うん、同じだよな笠松?」
「うん、同じ同じ。憧れてたり好きだったりする相手には皆そんな風になるよな、な?」
「へーえ、へーえ、へーえ、好きだったんスか、へーぇ」
「……」
笠松と森山の沈黙が、被った。背中を滝ののように冷や汗がだらだらと流れる音を二人は確かに聞いた。
「センパイが憧れてて好きだった先輩スかー。へー。髪洗うの勿体無いかぁ。確かオレが初めてキスしたときセンパイ直後に必死に拭ってましたよねー。手繋ごうとするといっつも引っ込められちゃうくらいなのに、そうスかー、憧れてて好きだった先輩に触れられた場所は洗いたくないっスかー。いいっスねー、純情スねー」
最早人の話に聞く耳を持たない黄瀬を、どうするか。目線だけで笠松と森山は相談しあう。
このまま放置するのもありだが、このぼそぼそと紡がれる話の内容に憤怒することができないくらいに笠松はこれから先の始末を考えていた。
今ここで鉄拳を食らわせれば、堰を切ったように黄瀬が暴走するのは眼に見えている。過去に学んだ。いたいけな中学生が囲む中、そんな不健全な事態を引き起こすわけにはいかない。だが放置することを選んでも、やはり笠松の精神衛生上よろしくない。
笠松が、お前がけしかけたんだから責任取れよと肘で森山の脇腹を突付けば、飼い主はお前だろと突付き返される。その間にも黄瀬が「そういえばあのときも……」とぶつぶつ呟く。
泥沼に両足を突っ込んだ三人が、頭まで飲み込まれそうになった、まさにそのときだった。

「でも、幸は黄瀬がウチにくるって監督から聞いたときにも凄く興奮してたぜ? 傍目変わんなかったけど」

それと幸、もう十分経過しそうだとストップウォッチを指差す小堀に、はっと気付けされたように笠松は笛を鳴らした。慌てていた所為で息を吸い込みすぎた結果、ピピィっと響いた笛は近くにいた者達の鼓膜を劈いた。
それは黄瀬とて例外ではなく、ぶるり全身を震わせた後、憑き物が落ちたようにはっと顔を上げてきょろきょろ周囲を見渡していた。
「ちょ、幸慌てすぎだし音大きすぎるって」
苦笑しつつ、小堀が取り敢えず五人五人でチーム作ってみたけど、と続けそうになったので、「ちょっと待って下さいっス小堀先輩!!」と制止をかけた。
「何だ黄瀬」
「いえ、あの、今の本当っスか? その、笠松センパイがっていう」
掴みかからんばかりの剣幕の黄瀬に、あぁと鷹揚に小堀は頷いた。
「本当だって。キセキだっていうのでオレらざわついたけど、幸の場合『黄瀬が来るのか』って。そんだけだったけど、まぁそれで推して知るべしっつうか」
それは解るだろ、黄瀬、と朗らかに笑う小堀に黄瀬はこくこく頷く。笠松は分け隔てなく人に接する人間だ。黄瀬が海常の部活に初めて参加したときも、笠松は他の部活推薦入学予定者と黄瀬とを何ら隔てない、いつも通りの態度でいた。
その笠松が、黄瀬が来るときに興奮していた、という。
まさかそんなことが、と笠松を凝視する黄瀬に、笠松は視線を返せない。合わせて来ようとする黄瀬の動きに併せて、右へ左へ斜め上へ、視線を必死に泳がせる。止まったら死んでしまう回遊魚のように、ひたすら視線を動かして黄瀬に絡め取られないようにする。
「センパーイ?」
「ううう、うっさい黙れ練習に集中しろ!! 早川を見ろ、さっきからアイツのうるさい大声があるからこそお前のぶつぶつモードが隠されてんだ、見習え、早川を見習って練習に励め!! 大声出して気合入れろ!!」
「大声出していいんスか? だったら大声でセンパイへの愛をっふうう!!!」
「そういうこっちゃねぇ!!」
心臓の真上に渾身の肘鉄を食らい、これがハートブレイクショットと呻きながら崩れた黄瀬に、普段だったら二回の観客から心配の声が上がる。
しかし今日は「憧れの海常高校バスケ部の練習」に目を輝かせているために、別の部分が曇りがちな中学生が観客だった。
「聞いてた通り、部員同士の仲良いんだねー」
ころころ笑う声は長閑なものだった。笠松の黄瀬への暴力もじゃれ合いに見えたのは、しかし彼ら彼女らの若干浮かれた意識の所為ばかりではない。
コートに膝を突き顔を伏せる前、黄瀬の顔に浮かんでいたのが幸せにふやけきった笑みだったからだった。


have kittens:《口》興奮する、うろたえる、たまげる、(笑いなどで)卒倒する。

(20110212)