イグニス・インナチュラリス
皆が着替え終わろうとするそのとき、日曜日、誠凛と秀徳の試合を見に行かないスか!と提案した。
「行かない」
綺麗に重なった声は四重奏。レギュラー陣の先輩達に総スカンを食らった。
「何でっスか! 明日午後は休みなんスから偵察行きましょうよ!」
「偵察ってお前、透明少年と火神?だっけか、あいつら応援するだけで分析も収集も何もしねぇじゃねーか」
「でも、当たったときに対策とか……!」
「マネージャーにビデオ撮ってきてもらうからいいよ」
「生で見るのとは違うでしょ! 迫力とか雰囲気とか……」
「――黄瀬、悪いな」
笠松、森山に続いて、小堀にまで困ったような顔で断られ、黄瀬は泣きたくなった。入部当初部員との間に感じていたような薄い壁は感じなくなったと思ったのに、この振られっぷりは何だ。女の子に振られたことはないのに、どうも黄瀬は男には振られ続ける運命にあった。恋愛云々関係なく。
「じゃ、じゃあ早川先ぱ……」
「明日はばあちゃんちで草毟(り)すっか(ら)!」
最後まで言わせてももらえなかった。他の部員は全員帰っており、つまり全員に完全に断られた格好だ。本格的に泣きそうな黄瀬を横目に、草毟りは足腰鍛えられるからな、しっかり婆ちゃん孝行してこいと笠松が笑い、それに馬鹿でかい声で返事をする早川はやたら嬉しそうだった。二人を見る森山と小堀の視線も心なしか柔らかい。
「――な、何でオレには厳しーのに早川先輩はまるで末っ子に向けるような優しさを向けるんスか! 不公平っス!」
「あのなぁ、黄瀬……」
森山が呆れを隠そうともせずに黄瀬に向き直る。
「お前、どうも忘れがちだけどよ、今はもう十一月で、でオレら三年なわけ。解る?」
「? そんなこと解ってるス……ってぇ!?」
笠松からの容赦ない蹴りを背中のど真ん中に受け、黄瀬は勢いよく部室の床とキスをしそうになった。寸前で手を着いたものの、膝を強か打ってしまう。前置きのない暴力に意見しようと背後の笠松を振り返る。
「ちょ、いきなり何スか!」
「――うっせぇよ、バカが」
険しい表情で吐き捨てられた言葉に笠松の苛立ちを感じ取り、黄瀬は続けようとしていた言葉を飲み込んだ。笠松の変化を感じ取った小堀が、幸、と声をかけると、それに片手を顔の前でひらひら振って答える。
「大丈夫だ、落ち着いてる」
殊更意識したのだろう、ゆっくりした口調に、小堀は僅かに眼を細め、森山は片眉を器用に上下させ、早川はきゅっと唇を引き結んでいた。
自分以外のメンバーが理解しているだろうことをさっぱり理解できない、一人除け者にされた居心地の悪さに黄瀬は知らず知らずに眉間に皺を深く刻んでいた。黄瀬が口を開こうとする、その前に笠松に遮られる。
「黄瀬、お前今日居残れ。小堀達は先帰ってて」
ここ最近、自主練習を終える時間が重なればレギュラー陣は駅まで一緒に帰るようになっていた。黄瀬にすれば笠松と二人きりの時間を削りに削られているわけなので、その面で言えば嘆かわしい状況と言ってもよかった。
だがそれが不満にまでならなかったのは、黄瀬にしても他の先輩達とぐだぐだと喋りながら帰る時間が息抜きにもなったし、嬉しくもあったからだ。まるで中学時代のようで、皆で楽しくいられる時間が大切にすらなりつつあった。それを笠松も解っているはずだった。
「……センパイ」
黄瀬は意図せずに笠松の怒りに触れてしまったらしい。だがそれが何に由来する怒りなのか解らなかった情けなく眉尻を下げて笠松に視線を向けるも、返されるのは沈黙だけで、そうなると打つ手は一つもなかった。
せめてもの救いは、ほとんど着替えが終わっていたこと。小堀と森山、そして早川が連れだって部室を出るまでにさして時間は掛からず、部室のドアが閉まる間際に森山が笠松の耳元で立てた掌で口元を隠しつつ囁いていた。
「……あんま、叱ってやるなよ。あのバカさが黄瀬のいいとこでもあるぜ」
それがフォローなのかどうなのかは解らなかったが、やはりこの先に待つのは説教なのだ。それだけは解って、黄瀬はがっくりと頭を垂れた。
かちかちと秒針の音が響くばかりで、普段だったら気にもしないその音の大きさに、今この部屋の中がどれだけ静寂で満たされているのかということを突きつけられる。暖房が切られている所為で室内の温度は下がる一方で、黄瀬のテンションに関してはこれ以上ないくらいに下がりきっていた。
「……おい」
部室の隅っこで膝を抱えて丸まっていた黄瀬は、頭上に降ってきた笠松の静かな声に肩を震わせた。恐る恐る見上げると、笠松は真一文字に引き結んだ口元ときりと吊り上がった眼と眉で、自分をひたと見つめて視線を逸らさないこと数秒、「……黄瀬、お前」と口を開いた。
「お前はさ、ウチのときは推薦で、きっと帝光のときも、そういうので入ったクチだろ」
「……? そっス、けど」
急に振られた話題の唐突さに困惑しながらも、笠松の言葉を首肯する。帝光のときは学業と、後モデルの実績も含めて何の苦労もなく入学できた。海常のときはバスケ推薦。学業面では到底黄瀬の頭では無理なレベルの学校でも、バスケットという強みが黄瀬にはあった。お陰で受験戦争とは無縁の人生を送っている。
「それじゃあさ、何でお前、帝光とかウチに入ったんだ?」
「そりゃ……」
帝光のときは親が帝光ブランドに憧れていたという理由が大きい。黄瀬にしてみればどこでも同じだったから、受けてみたら入れてしまった。その程度の話だった。
海常に至ってはもっと話は単純で、スカウトされたから、だった。他にも多くのスカウトを受け、その中から海常を選んだ理由もあったはずだったが、それを決めた時期はイコールで他のメンバーとばらばらになりかけていた時期で、正直自分でもどうしてここを選んだのか解らなかった。
黄瀬はそのとき、何故だが酷く責められているような気がした。笠松の視線は黄瀬に答えを求めていて、それに答えることができない自分を責められているような気がした。
突き刺さるのは視線、咽喉を締め付けるのは沈黙。肌は冷えるばかり。言葉に窮した黄瀬に、笠松は「だから解んねぇんだろーな」と一言口にした。そこに含まれている呆れに気付きたくなかった。
「オレは、この学校に入りたくて、ここでバスケしたくて勉強も頑張ったよ。バスケだけで推薦取れるほど――お前みたいに抜きんでた実力もなかったしな。両方あって、はじめて推薦してもらえたし、それで受かったし。私立なんて特待生以外狙えなかったしな。――そんで」
そこで言葉を区切る。視線の強さは変わらないままだったが、笠松はしゃがみ込み、黄瀬と目線の高さを合わせてきた。
「大学ももう行きたいとこ決まってる。そこでやりたいことも決まってる。だから、今だって毎日勉強欠かさねーし、部活ない日は丸一日それに費やすし。でもそれはオレだけじゃねぇよ? 小堀だって森山だって、今部活にでてる三年は皆そうだ。皆、努力して目指しているものが、求めてるものがある。きつい練習の中でも、どちらも半端にしたくなくて、限られた時間やりくりして頑張ってんだ」
幼さばかりを感じさせる大きな黒の眼が放つ光は強く、黄瀬はごくりと固唾を飲み込んだ。
「――お前が今、少なくともバスケに関しちゃもの凄く真面目に取り組んで、努力してるのは知ってる。モデルの仕事だって、きっと凄く真面目にやってんだろうなって、思ってる。唯でさえ時間ないのに、よくやってるって。――その上で言う。それでもやっぱりお前は解ってない。お前が当然のように受け取ってきた特待生だとか推薦だとか――勝利、だとか、そういうのは、誰にとっても当然なんてわけじゃないんだ。皆が皆、求めなくても手に入れてきたお前みたいに――才能だけで世の中渡れるわけじゃ、ねぇんだよ」
お前と自分達の間に線を引きたいわけじゃない、けれど、最初から存在している線を意識しない、ということもできないのだ、と。笠松は噛んで含めるように黄瀬に告げた。刺さるような言葉とは裏腹に、責めるような色合いを潜め、柔い眼差しを向けてくる笠松に、黄瀬はきゅっと唇を噛みしめる。どうしてだか、先よりも酷く心臓が痛かった。
「オレはさ、最初の頃の、その線を壁か境界線みたいにして他の奴を締め出してたみたいなお前よりは今のお前の方がずっと好きだけどさ。――でも、ああいうお前の態度も、多分在り方として間違っちゃいないとも、思う。認めるかどうかは別として、それが許されるくらいの天才って奴を、お前は確かに持ってるから」
あぁ、後練習さぼるの云々は別だけど、と茶化すように付け加えられた言葉は、しかし黄瀬の耳には届いていなかった。
「……」
どうして、どうしてこんなことを言うのだろう。黄瀬には解らなかった。黄瀬にチームプレーを教えたのは、バスケは一人でするものではないのだと教えたのは、他の誰でもない、目の前のこの人だった。「キセキ」として最初から特別な存在として入部した自分を――監督ですら、特別優遇して扱っていた自分を、唯一他の部員と対等に扱ったのはこの人だけだった。殴られ、蹴られ、叱られ怒鳴られ、そうして褒められて。
それなのに、どうして今、こんなことを言う? 黄瀬には、笠松の真意が解らなかった。揺れる視線を縫い止めるように、黄瀬、と笠松に視線を重ねられた。二つ年上なだけの男の眼は大きく子どものようですらあったのに、その色の深さに呑まれた。呑まれたからこそ、続けられた笠松の言葉が信じられなかった。
「だからこそこれから、もしかしたらしんどくなってくるかもしれない。だからこそ、言う。――いいか黄瀬。お前は、ちゃんと自覚しなきゃ駄目なんだ」
お前は、オレ達とは違うんだ、と。
続いた言葉が信じられなかった。信じたくなかった。黄瀬をずっと特別扱いすることなかった男のそれを、その一言を認めることは、すなわち。
「――っ違わない、何にも違わないでしょ!? 何言ってんスか、何、センパイ言ってんスか!!」
認めてしまったらそれはすなわち、黄瀬が海常で得たことを全て否定することになってしまう、から。
だから、黄瀬は否定するしかなかった。それ以外にできなかった。
火を噴くような怒声と同時に立て膝を突いて笠松の両肩を押さえつけるように力任せに掴んだとき、その顔が痛みに歪んだことにすら気付かなかった。怒りで視界が真っ赤になっていた。熱の塊となった躰は全身の毛穴を開いてのたうち回る熱を外に逃がそうとしていたが、到底追いつかない。爪先から頭の天辺まで、唯熱かった。
「っ黄瀬」
「だって、センパイでしょ? オレにチームでのバスケを、皆でやるバスケを教えたのは、センパイじゃないスか。何でそんな今更、今更、」
「黄瀬、」
「オレは何にも違わない。同じでしょ? 違うって言うなら、何が違うんスか。オレと先輩達と、何が、」
違うんスか、と声を荒げれば荒げるだけ、一層自分の怒りが膨張していく。自身の声に煽られて、笠松の自身を宥めようとする声が落ち着いていることにすら煽られて、歯止めが利かなくなっていく。
「オレは、同じです。何も変わんない、何も、」
息する間すら作らずに吐き出し続けた言葉の、その僅かな間隙を縫って、黄瀬、と挟まれた小さな言葉なんて、無視してしまえばよかった。それができなかったのは、自分の名を呼んだ声が、頬に触れた指が、見上げてくる眼が、
「――きせ」
あんまり、優しさばかりに溢れていて。
宥めるでもなく、落ち着かせようとするのでもなく、大人でもなく子どもでもなく、それしか言葉を知らない動物を前に、黄瀬はごろりとした言葉と空気の塊をぐっと飲み込んだ。そのとき、自分の指が白くなるくらいに笠松の肩を掴んでいたことに漸く気付き、強ばった指を一本一本剥がしていった。
笠松も相当痛みを感じているはずだったが、それを全く表情には出さずに、唯ひたりと黄瀬を見ていた。まるで凪いだ海のような静けさと深さに、噴き出した火がふっと鎮まるのを感じた。
「……スミマセン、センパイ」
自分一人だけが見境なく怒りを撒き散らした様に居たたまれなさを覚え、腰を落として眼を伏せた黄瀬を、真っ黒な髪と眼を持つ動物は、眼、ちゃんと見ろ。それだけを言った。
「……」
躊躇いを引き摺りつつ言う通りにした黄瀬を見て、笠松は一度瞬いた。
それだけでさっと色を変えた眼差しは、まるで試合のときのように鋭く貫く黒の槍に似て、心臓が一瞬、止まった。引き結ばれていた唇がゆっくり開いていくように見えたのは、おそらく時間の流れがここだけおかしかったからだった。――あのな、黄瀬。
「オレは別に、壁を作れって言ってんじゃねぇよ。自分を特別だと思って驕り高ぶれなんてのも言わずもがなな。でもな、黄瀬、これだけは自覚しとけ。お前が求めようと求めまいと、皆お前に特別を――『エース』を、求めてる。オレだって、そうだ」
お前に、エースであることを望んで、求めて、それにお前は応えてくれた。
「――お前は、確かにオレにとってもエースだった」
滑るように動いた指が頬に触れ、慈しむように添えられた掌の温もりに、とくりと左胸の内側が小さく揺れた。
エースであることを求められる――それはもう、海常に入学する前から黄瀬に求められていたものだ。裏を返せば、それだけを求められていた。それが入部当初の黄瀬の態度を許す免罪符になっていた。
だから、そのときの黄瀬はエースなんてものではなかった。自分でもそれは解っていた。あのときの自分は唯のスタンドプレイヤー、点取りマシンであって、チームに信頼されてボールを託されるエースなんてものでは、けしてなかったのだ。
センパイ、と吐き出す息の代わりに言葉が零れた。
「笠松センパイ」
何かを伝えたかったわけでもない。でも名を呼ばずにいられなかった。繰り返す名は、今の黄瀬にとって呼吸に等しかった。
意味もなく名を呼ぶ黄瀬に、しかし笠松は少しだけ目許を緩めた。普段だったら用もないのに呼ぶなと肩に一発食らわせる手は、今も尚黄瀬の頬に優しく触れている。
「もう十二分にエースになってるお前に、だから、本当はこんなこと言うこともないのかもしれねぇ。余計なお世話だって思われても仕方がねぇとも思うし……でも、お前はオレにとって大事な仲間の一人だから、やっぱ改めて言っとく。――だってお前、『エース』であることを求められて当然だって思ってても、自分で『エース』であることを望んだわけじゃねぇだろ」
今だって、もしかしたらそうだろうと問われ、黄瀬は眼を見開いた。海常のエースであることを求められていた。入学前も今も、それは変わらなかった。求められたから応えた。応えられるだけの――それこそ才能というものを、黄瀬は有していたのだから。
「……笠松センパイ」
図星を指されて渇いた口が紡いだのは、やはり眼の前の男の名。
漸く黄瀬には笠松の言わんとするところが朧気ながらに見えてきた。薄く頭の中にかかっていた靄の先に、一筋の黒い光を見つけた。
「求められて応えられる、なんてのは、実際誰にでもできるもんじゃねーんだ。それができちまってたお前が、それを当然のように思うのも仕方ねぇけどよ。……自分が求めているものならばいざ知らず、求めていないものを他人から求められる、それが重圧になっても尚、お前は海常にいる限り背負い続けなきゃならない」
その黒の光が、一段と輝きを増した。強く大きくなった黒は、先より距離が詰められていたからだった。――両手で挟まれて、頭を引くこともかなわない。
「だから、黄瀬」
一呼吸置いて、笠松は言った。いっそのこと、求めろ。
「腹括って求めろ。エースであることを。そんで、それすらも当然だって笑えるようになってみろ。仲良しこよしのチームじゃなく、競い合って笑い合える、そういうチームの中でエースになってみせろ」
とん、と。
真ん中を射止められたと思った。唯一点、中心点を。軽快な音を立てて、突き刺さったのはたった一言。
『仲良しこよしのチーム』
――壁がなくなって嬉しい、と思っていた。皆と過ごせる時間が楽しいと思っていた。笑って帰る時間が大切だった。それもこれも全て、でも黄瀬には本当には解っていなかった。
自分は、周囲とは違う人間なのだ、と。
瞬きを二度三度繰り返しても、自分を見る笠松の眼は変わらずに貫くそれで、その揺るぎなさに確信は強くなっていく。
笠松をはじめレギュラーの面々も、他の部員も、けして馴れ合いを黄瀬にして欲しいわけではなかったのだ。黄瀬だって、そんなつもりは毛頭なかった。けれども、黄瀬がしていたことは――しようとしていたことは、まさしく馴れ合いだった。自分を基準にして、自分が居心地のいい場所を、海常に求めた。そうではないと否定したくても、黄瀬は解っていなかった。三年生の冬が、選抜以外の意味を持つ時期だということを解っていなかった。黄瀬には経験のないことだったから。
「……だから、センパイ怒ってたんスか。オレが、甘えてたの解ってたから」
「別に怒ってたわけじゃねぇよ。コイツ本当にバカだなって呆れたけど」
「……オレにとっちゃほとんど同じことっス」
笠松の肩に頭を預けるように上体を傾ぐ。触れた肌が熱く感じたのは、自分が熱いからなのか笠松が熱いからなのか解らなかった。寒い部室内、温もりを分け合うかのように黄瀬の頭を抱いた笠松のその行為に甘えて、黄瀬も笠松の背中に手を回した。為すがまま、為されるがまま。
「……オレが、エースっスか」
発した直後に消えそうなほど細く小さく紡いだ声を、掴み損ねることのなかった手は、言葉の代わりに黄瀬の頭を抱く力を強くした。
強く、加減を一片も感じさせない程に強く抱き締める腕が伝えてくる際限ない優しさに応えるように、黄瀬も背中を抱く腕に力を込める。互いの躰の間にあった隙間が磨り潰されて笠松の躰が熱いのだ、と黄瀬は気付いた。その熱を少しだって無駄にしたくなくて、剥き出しの首筋に己の頬を強く押し付けると、かさりとした感触を耳朶に感じた。
――――お前が、エースだ。
耳朶に直接触れさせて、普段けして耳にすることがないくらいに細く小さく紡がれる。唇を微かに動かしただけ、空気を多分に含んで音としての形をほとんど為していないにも関わらず、今までで一番明瞭な響きを伴って黄瀬に届いた。鼓膜を震わせるほどの強さもなく、貫くほどの鋭さもなく、水のように静かにゆっくりと躰に滲みて、全身に行き渡っていく。
――お前以外に、オレのエースはいない。
再び囁かれた言葉は、黄瀬以外の誰にも聞こえないほど、黄瀬以外の誰にも聞かせないと言わんばかりで、どれだけこの人は自分を付け上がらせる気だろう。心臓が熱で一気に膨れ上がった、その瞬間だった。
海常の、笠松のエースであり続けることを、黄瀬は初めて心から求めた。
Ignis Innaturalis. : 隠された測り知れない炎(物が持つ内なる力や人の注意を引く力のこと)