グッバイ、ディア・ディアドリ
それは部室で着替えている最中だった。自主練習の後、チームのエースたる一年の後輩と共に雑談を交えながら、シャツに腕を通してボタンを留め始めたとき、――センパイ冬出ないってホントっスか。何の前触れもなく背後から放られた。振り返るとそこには一足速く着替え終え、口を真一文字に引き結んで射抜くように自分を見る黄瀬がいた。
睨まれているとは思わなかった。唯、普段はやたら懐っこい男が、そんな風にやたら張りつめた表情をするものだから、さて何と返せばいいのか。笠松は逡巡した。試合のとき以外、黄瀬は基本犬同然のあけっぴろげな感情表現をする男だったから、不意打ちのようにまともな顔でまともに来られると対応に困るのだ。穴が開くのではないかと思えるほど真っ直ぐに見つめてくる黄瀬の視線に、何とも言えない据わりの悪さを覚え、顔を前に戻して眼を逸らした。
外での基礎体力作りが中心だった今日の練習の後に、自主的に残って最後まで練習に励んでいたのは笠松と黄瀬の二人だけだった。炎天下での走り込みなどの後に更に残るなんて、モデルなのに日焼けとか大丈夫なのかとは思ったが、そんなことは笠松が言うまでもなく黄瀬がいちばん解っているだろう。だから何も言わずにいた。
だが、黄瀬が残った本当の理由はこれだったのだと笠松は悟った。笠松がウィンターカップに出ないことの真偽を確かめたくて、残ったのだろう。
しかし、何をどう言うべきか。平素とは異なる顔を見せる後輩に惑った笠松の行動と暫しの沈黙を、黄瀬は肯定と受け取る。あぁやっぱり本当だったんだ。悲しいのか切ないのか、痛いのか苦しいのか、自身でもどう言えばいいものか解らない胸の裡を、兎に角落ち着けようとゆっくり息をする。
弱めの設定にしてあるものの部室には冷房が効いていた。それにもかかわらず、夏の残滓を多分に含んだ空気は熱く湿っていて、じゅっと気道を焼く音がした。もう夏も終わるというのに、この熱は何だ。些細なことに苛立ち、それくらい気が立っていることを自身知る。
そうやって吸い込んだ空気とともに、胸のものも胃から腹へと自然降りていった。腹の底まで行き渡らせて、そこに留める。酸素が躰に馴染んで溶けてなくなる。二酸化炭素を細く吐き出す。名も付けられない感情は凝りになっただけだった。
「……何で、出ないんスか」
「――夏までだって、決めてたから」
先の沈黙とは打って変わって簡潔で明瞭な返事に、何も言えなくなる。言わせてもらえなくなる。躰ごと黄瀬を振り返った笠松の眼にも言葉にも揺るがないものを見る。夏のインターハイ、それが笠松が自身に課した期限だったことなど、黄瀬にも解っていた。嫌になるくらいに、解らされていた。
彼が冬のことを口にすることはなかったから。だから黄瀬も、笠松の前で冬のことを口にすることはなかった。笠松からの決定打がもたらされることを、恐れていたから。
俯いた彼がその薄い下唇を噛み締めるのを視界の隅に捉えた笠松は、それだけで黄瀬の渦巻く心中を解ってしまった。
向かい合うこの大型犬は大層自分に懐いていた。泣いて笑って、時折牙を剥かれたこともあったが、総じて黄瀬は笠松に心を許してくれていた。だから、解った。
「……新しいチーム作りに取りかかるのは、早ければ早いほどいいんだよ。特にオレがポイントガードだったからな、ゲームメイキングとか、オレので慣れたまんまだと支障も出る」
笠松の言いたいことを、本当は既に黄瀬は解っていた。たとえばミニゲームで、さも当然のように黄瀬や早川は三年レギュラー以外とチームを組むようになった。むしろ、三年チームと一、二年チームというようなチームの組み方をするようになっていた。
インターハイ以降も残った三年生は少なく、しかも笠松はその残った方だった。だから、僅かに希望を抱いていたのだ。もしかしたらウィンターカップも出るのではないかと。自主練習の回数が減ったことや、彼の声がコート内に響くことが少なくなったことを全部無視して、まだ笠松と同じコートに立てるのだと、思いたかった。それなのに。
「オレは、さ。黄瀬」
俯いたままの黄瀬が、どんな表情をしているのか、気にならないはずがなかった。自分の声以外には、冷房の音しかしない。躰の脇で握られた拳が何かを堪えるように震えている。そんなに固く握ると爪が食い込んでしまいそうだと思ったが、しかし、もう笠松は黄瀬に伸ばしてやれる手を持っていなかった。黄瀬に差し出してやれる手は、きっとあの日一度きりのものだった。一度きりのあの夏と同じように。
「お前と一緒のチームになれて、プレーできて、本当に良かったよ。嬉しかったし楽しかったし、――もっとバスケがしたくなった。好きになったよ。できればもっとお前とプレーしたいって、思う」
「それじゃ……っ」
「でも、オレはポイントガードで主将で、だから――お前のためだけにゲームを作るようになってもいけねぇし、お前のためにもならねぇんだよ。だから、冬は出ない。それが海常にとってのベストだから」
一切の未練を断ち切られ、黄瀬にできることといったら立ち尽くすことだけだった。海常というチームを一番に考えるその思考を知らないわけではなかった。笠松は主将なのだから、それは至極当然でもあった。その彼が、自分の癖をチームに、黄瀬に残したままではいけないという。それも納得しなければならないことだと解ったのは、けれども、頭の部分でだけだった。咽喉がやたらと狭まっているような気がするのは俯いた所為かと思ったが、それもきっと錯覚だった。何も言えないのは、言える言葉がないからだった。
笠松がウィンターカップに出ないと知ってから、黄瀬はそれをいつ確かめようか、どうやって聞こうかとずっと考えていた。どこで、どのタイミングで聞けば、いちばんいいか――ダメージを最小限に抑えられるか、ずっと考えていた。だが、笠松の口から出ないという一言が出たとき、たった三つの音が予想していたよりも大きな衝撃を黄瀬に与えた。血に溶けたそれは、鈍く速く全身に巡って黄瀬の躰と心をおかしくした。心臓が煩い、呼吸の音も耳に響く、流れるものは流れるままで、それなのに手も足も動かずに、思考も停止していた。
もう、笠松とプレーすることはない。
ダメージを最小限に抑えようとしていた。無駄だった。最小限が最大限だった。それだけだった。笠松からのパスを、黄瀬はもう受けることはない。笠松は、引退する。黄瀬は後二年、この海常というチームでエースとして皆を引っ張っていかなければならない。笠松のいなくなったチームで、エースで在り続けなければならない。
笠松が引っ張り続けたこのチームを、自分が駄目にしたなんて言われることのないように。
海常のエースで在ること。それはもう入学前から、黄瀬に期待されていたことだった。
それでも。
「……オレが、まだセンパイとやりたいんだって言ってもっスか」
笠松の眉がぴく、と僅かに上下する。黄瀬は変わらず俯いていて、落下した言葉は弾けるよりも溶けるように消えた。独白だったのか、笠松に向けてのものだったのかは解らなかった。唯、黄瀬の口から――心から零れ落ちたその言葉は。
「――お前がそうやってズリーこと言う限り、オレが出ることはねぇよ」
「――っずるい、って、」
笠松の硬い声に、黄瀬が弾かれたように顔を上げる。笠松の言を理不尽なものと捉えたらしい彼の眼に、怒りの色がちらと点っていることを認めて、もう一度溜息を吐いた。これではまるで成長していない。いや、黄瀬は確かに成長した。負けることを知った、チームを知った、信じることを知った、諦めないことを知った。それを笠松は知っている。けれども、根本的な部分でこの犬はとてもずるかった。
笠松にとって黄瀬と同じコートに立てることが、どれだけ嬉しく楽しいか。どれだけこの男の存在が頼もしいか。その男に、まだ一緒にやりたいなどと心を零されて、嬉しくないはずがないというのに。それが、海常のためにならないと解っていて頷きそうになるというのに。自分の持ちうる全てを教え込もうとすればするほど、無限の可能性を狭めるかもしれないのに。それを恐れながらも尚、離れたくなくなるというのに。
そういう風に共にプレーするメンバーに思わせることができるだけの存在であるということを、黄瀬自身無意識の部分で確かに解っていて、その上であんな風に縋ってみせるのだ。それを本能の部分でやれてしまうのだ。
何てずるい。
「……お前、オレをどんだけお前に甘いだけの、チーム丸無視の最低野郎にする気だよ」
「な、に」
「言っただろうが。お前ともっとプレーしたいって。その上でお前、そんなことお前に言われて、はいやっぱり出ます、とか言えると思うのかよ。いいか、オレは海常のポイントガードで、主将だったんだ。チームを強くして、勝たせるためのオレが、何で弱くすることに加担しなきゃなんねぇんだよ」
「――っそんな、そうじゃない、そうじゃ、ないっス!!」
「何がだよ」
「そういう意味じゃない!!」
「なら、どういう意味だよ」
「オレは、そんな意味で言ってない!」
「だから、何がだよ!」
否定ばかりで具体的な事を何も言わない黄瀬に痺れを切らして、笠松も思わず怒鳴り返す。いやいやと駄々を捏ねる子どもでいることを延々許してやるほど、気は長くなかった。知らず知らず眉間に力が入る。
黄瀬はその様を見て、どう言えば伝わるのか。少ない語彙を必死に頭の中で掻き回す。笠松が何に対して呆れたのか、解らないほど莫迦ではない。前は解らなかったかもしれない、けれども今は違う。違うのだ。黄瀬は自分の我儘を知っている。解っている。これは、我儘だ。引退を決めている笠松に、まだ一緒にプレーしたいのにと口にすることなど、我儘以外の何物でもない。笠松に硬い声を出させ、溜息を吐かせたのはこの我儘だ。けれども、違うのだ。
もう、それだけではない。
「オレは」
そこで一度、深く息を吸う。熱くなりやすい思考を、言葉、胸の中のものを落ち着かせるために。先は熱さしか感じずに不快だった空気を静かに、そしてゆっくりと躰の奥底へ沈める。しかし言葉と感情は胸に留めて、笠松にきちんと伝えるべきこと、伝えなければならないことを自身でしっかり捉える。硬く握っていた拳から力を抜くと、全身からも余計な力が抜けたように感じた。
「――オレは、海常のメンバーだけど、そうじゃなくて……ううん、だからこそ、オレ、がまだセンパイとしたいんスよ。だって、オレまだセンパイに色んなこと教わりたい。試合のことも、そうじゃないことも、だって――オレは、海常のエースだって、センパイ、言ってくれたでしょ?」
視線を笠松の口元に緩く合わせる。真っ直ぐに引き結ばれた唇は、今は黄瀬の言葉を聞くだけだという心の裡をそのまま表しているような気がした。
笠松が気にしている、部の引き継ぎ、チームの引き継ぎ、ということを黄瀬自身正しく解っているとは思わない。少なくとも、帝光でのそれはさほど重要視されていなかった。当然といえば当然だった。チームなど――黒子が言っていたように――あの場には存在していなかったのだから。
「センパイ、オレは――オレは、もっと強く、上手くなりたいし、けどそれって、オレ一人だけじゃ駄目で――チームとして、オレがオレを強くすることが、海常ってチームが、皆が強くなることに、なるでしょ?」
一人だけで勝手に強くなろうとは、もう思えない。バスケットでも他のスポーツでも、相手より点を取ることが勝つことで、ならば唯シュート力を、突破力を磨けばいいだけの話だった。チームのことなど考えずに、自分自身を強くする。海常というチームの厚みを考えればそれも許されるはずだった。他の誰にも許されなくても、黄瀬には許されるはずだった。独りよがりだろうと、周囲を信用してなどいなくても、それで勝てさえすれば何も言われずに、これまでと同じように許されるはずだった。
しかし、黄瀬自身がもうそれを許せなくなっている。
「……でも、だからセンパイともっとやりたいっていうのは、オレの我儘っス。もう新しいチームとしてウチが始動してるのも――新学期始まる前に早川先輩が次の主将になるんだろうってのも、全部解ってるんスよ、ちゃんと」
黄瀬はそこで、漸く視線を笠松のものと交わらせた。一ミリだってずれていない、重ねた視線の先には大きな眼を更に大きくして自分を見る人がいる。
いつまでも彼に、笠松に甘えていられるはずがない。あの日、差し出された手に縋るしかなかった自分でいられるはずがない。あんな思いはもう、あの日一度きりで十分だった。
一人で泣いていただろう人を、一人でいさせてやることしかできなかった、不甲斐ない自分を悔しく思うのは、たとえチームが変わったとしても、あの日で最後にしたかった。あの最初で最後の夏、一度きりにしたかった。
だから。
「オレは、このチームで勝ちたい。もっと、もっと勝ちたい。そのために、オレはやれること全部やります。全部。だから、笠松センパイだけじゃない、森山先輩や小堀先輩、早川先輩からも、海常で得られること全部、オレのものにしたいんです。全部背負うとかそんな恰好良いもんじゃなくて、唯、勝つためです。それだけのために、オレは全部をオレのモノにしたい。それだけなんです。――だから、笠松センパイ、」
オレは、何よりも先ず、アナタから全部もらいたんです。
隠されもしない勝利への欲求、誤魔化しの一切ない言葉に、笠松は知らず溜まっていた唾を、咽喉を大きく上下させて嚥下した。見縊っていた。言い訳が利かないくらいに、黄瀬という男を笠松は見誤り、見縊っていた。それを知った。
自分の全てを黄瀬に教え込むことで、彼の無限の可能性を自分の幅に合わせて狭めてしまうかもしれないことが怖かった。それでも尚、離れられなくもなるだろう自分を予期して怖くなった。――けれども、本当に恐れていたのは一体何だったのか。
こんな傲慢な言葉を口にしてしまうほど人を舐め腐っている男に、そんなつまらない遠慮をする必要などどこにもないというのに。
大きく一歩踏み込んだ。一歩分の距離だけだったが、それだけでずっと黄瀬の体温が強く感じられた。急に詰めた距離に引くことなく、当然のように僅かに顎を引いて視線を合わせてくる黄瀬の胸を強く叩く。入部時よりも厚くなった筋肉に、子どもの躰から大人の躰へ、少しずつ成長していることを確かに感じ取る。
「……調子に乗ってんなよ、洟垂れボーズが。
しかし、まだこれはあらゆる面で完成には程遠い男だった。それを揶揄し、挑発する言葉に返されたのは、悠然とした笑みと、くれてやった挑発以上の挑発だった。
「やってみなきゃ、解んないスよ?」
空気を伝ってくる黄瀬の熱に、同じように自分の熱も黄瀬に伝っているはずだと笠松は思った。この一メートル四方だけ、気温が急激に上がっているに違いない。
「だから、ねぇ、センパイ」
――これからも、よろしくお願い、します。
――あぁ、監督に、これからのことをどう言おうか。黄瀬の腕の中で、黄瀬以上の我儘を押し通すことを決めた笠松は、しかし、熱くなった腹の底から湧き上がる興奮に似た歓喜に笑っていた。
Deirdre:《アイル伝説》デルドレー(Urster王Conchobarの妃と定められていた美少女。恋人のNaoiseが殺されて自殺した);ディアドリ(女子名:アイルランドに多い)
〔Ir = sorrow〕