黒子のバスケ

キリエ・キリエ

あぁオレ今どこにいるんだろう。ここにいるんだろう。
温かな水にぷかり浮かんで揺蕩う感覚は、けれど海やプールで浮かんでいるのとは違って、ふぅと息を吐いた分だけ軽くなった躰はふわふわ浮いて上に上にと向かう。ふわふわり、それなりに重い躰が羽毛よりも軽く空気を流れて、形なんてないはずの意識、のようなものが沈んで。下へ下へ、重力支配。落ちるように、融けるように、とろりどろりすとん。――落ちて、落ちた。
薄く水を纏った絹が下りた視界の向こうに、ぴんと伸びた背中を見つける。
「……かさまつ、せんぱい?」
咽喉の奥の熱さに縺れた舌で紡いだ言葉のたどたどしさに、振り向いた顔がどんな表情をしたのか眼では解らなかったけれど、空気で解った。ふんわりと揺れた空気は温かく、起きたか、と近付いてくる彼をぼんやりと見る。何だ、まだ寝惚け眼か。その語尾が優しく飽和して、黄瀬に零れてくる。明瞭な線を持たなくても、笠松の声は芯の部分で黄瀬に触れる。ほわり肌の上に零れたものは、少しずつ沁みていく。沁みて沁みて、今ではもう笠松の声でいっぱいに満たされている。たぷりと音がしそうなくらい、笠松の声ばかり。皮膚、肉、骨はとっくに潤されている。それでも尚、神経と血管とに溶けてぐるぐると全身を巡る。
焦点がいまいち合わずに笠松と背景が混ざりそうで、あぁでも笠松センパイがこの部屋に混ざっちゃったら、いつでも一緒なのかな、と考えた自分がおかしかった。やだよ、笠松センパイが混ざるなんて。
でも、笠松センパイがこの部屋に馴染んでくれたらいいのに。一緒にいてくれたらいいのに。センパイのにおいとオレのにおいがおんなじになって、そうしたら、おかえりもただいまも言える。言われる。素敵なこと。まだ一緒に、ずっと一緒にいられればいいのに。でもそれは我儘だということくらい、知っている。
「……黄瀬?」
ベッドに沈んだままの自分の額に触れた手はひんやり。直ぐに境目が解らなくなった。触れた場所が滲んだのか溶けたのか、あぁ、センパイの手が自分に溶けたのかもしれない。あのときみたいに、皮膚一枚の境界線なんて容易く侵せてしまうように、溶けて、一緒くたになっているのかもしれない。それくらい、この躰は熱い。
もう片方に手に持っているものからひやひやと流れてくる空気は、皮膚の一番上に触れただけで散り散りになってしまっている。
黄瀬、まだお前眠ってな。多分今が、一番熱くなってるときだ。額に張り付いた髪を左右に除けた指は離れて、あ。と思った次には代わりにびゃっと柔らかく冷えたものが触れた。笠松のもう片方の手に持たれていたものだった。
「……センパイ、もう、だいじょーぶ、ス」
多分、もうすこぉしすれば親も帰ってくるんで、と少し長めの言葉を紡ぐと、咽喉の奥が空気に擦れてひりひりした。言った言葉に嘘はないけれど、確証もなかった。そもそももう高校生なのだし、いっぱしに稼いでいる身でもあるのだから、風邪だから、病気だからと親に甘えることを黄瀬は自身に許すことはできなかった。ふぅと息を吐くだけでも、内臓をごっそり持っていかれるような感覚になる。どうにも緩くなっている顔筋に無理を強いて、そのまま唇を笑みの形に作る。それだけでも随分つらかった。
「も、おそい、し」
笠松は部活終わりに家に寄ってくれたらしい。とすると、きっと今はもう随分遅い時間だ。あんまり夜に出歩かせてはいけない、と一昔前の思考をした。笠松は女でもないし子どもでもないけれど、大切な人を思えばそういう思考になった。唯でさえ部活で酷使している躰、早く家に帰って休めて欲しいのに。
視界は相変わらず滲んでいて、笠松の線すらはっきりと捉えられない。いつもだったらこんな至近距離、それも笠松の方から近付いてくることなんて滅多にないのに。もったいないなぁオレ、と細めた眼、ゆるゆると細く熱と共に息を吐いて、内の熱よりは幾分低い温度の空気を吸い込もうとした、とき。……少しくらい、我儘言わせろっての。そうと目許に触れた指先の硬さに、ぴくり眼の下の筋肉が痙攣した。
「……セ、んパイ?」
「お前がオレに気遣ってくれてるの、解るけど。……甘やかしたいって我儘も、あるってこと知っとけ」
つうと目尻からこめかみまで伝う指に拭われたのは、ぽろりぽろりと零れていた小さな雫。きっと汗だ、きっと熱に浮かされていたからだ、と思おうとしたのだけれど、本当のところ、それがどうして零れてしまっていたのかは解らなかった。
「なぁ、黄瀬」
相変わらずの笠松の声は黄瀬の躰に沁みて、沈んで、それだけで黄瀬を満たしてしまう。低い、優しい、温かい、柔らかい、丸い、甘い声で満たされて、一杯になって溢れて零れてしまいそうになっている。――もう、零れてしまっている。
――もう少しだけ、いさせろよ?
その我儘の優しさの分だけ、黄瀬の眼からぽろぽろと甘い水が零れた。


Kyrie Eleison : キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)

(20100704)