リンガラウンダ・ロージー
「なぁなぁ、早川」
「何すか!!」
「あのさ、お前、ちょっとオレの名前フルネームで言ってみ?」
「……も(り)やま……」
「よし、次は小堀」
「こぼ(り)……」
「んじゃ、黄瀬」
「きせ(りょ)た……」
「自分の名前は?」
「はやかわみつひ(ろ)!!」
「最後、笠松」
「かさまつ、ゆきお!!」
「おおおおおおお!!」
言えた、早川がつっかえることなく全部言えたぞ!! と練習に励みながらも耳をそばだてていた海常バスケ部の面々は、ゆきお、の最後の一文字を早川が綺麗に発声したとき、無駄な達成感に溢れた。ギャラリーの女子の黄色い歓声をも打ち消した男達の叫びに、その中心にいた早川だけがびくりと肩を竦ませた。
「も、も(り)やまサン……!?」
一体何を盛り上がっているのかわけが解らず、早川は先程から自分にレギュラー陣の名を言わせていた森山を振り向くと、そこには森山だけでなく笠松や小堀までがぱちぱちと拍手をして自分を見ていた。
「凄いな、早川! お前笠松の名前だけはちゃんと発音できるんだな!」
「いや、何かオレ今無駄に感動したわ。これで駄犬が一匹になったつうか」
「成長したな……」
尊敬する先輩陣に感心した声で褒められ、取り敢えずそれだけで満足した早川はうす! と満面の笑みで応える。
「よし、もう一回笠松の名前、呼んでみようか!」
「うす!」
かさまつゆきお!!
再びの歓声。今この場の中心は、確かに早川だった。笠松に頭をぐしゃぐしゃと掻き撫でられて、尻尾を千切れんばかりに振っている犬のようにでれりと笑う。本当に犬だったならば、今頃笠松の顔面を嘗め回しているに違いなかった。
――その和やかな空気の中、ゆらりと幽鬼のように近付いてくる男が一人。
「……ちょ、いいスか」
ギャラリーに捕まっているのなんてしょっちゅうなので、今の今まで黄瀬が何も言わないことを疑問に思っていたものは誰もいなかった。当たり前になってしまうと、殊更それに注目しなくなるのも当然だ。それよりも、早川の快挙の方がずっと部員の興味を引いた。
だが、元々体格も大きい上に、いつもの爛漫な雰囲気ではなく冷気を漂わせてぬぅと笠松の背後に現れた黄瀬を見て、何人かがはっと気付いた。――これは、危険だと。
「何で、早川先輩が笠松センパイの名前連呼してるんスか……? しかも呼び捨て」
黄瀬の指摘に、漸く笠松もそう言えばそうだな、と正気に返る。つい場の空気に載せられて、自分から言え言ってみろと唆してしまった気もする。そもそも、今は部活中なのだからこんなことをしている暇などないはずだ。笠松が散開を命じようと息を吸い込もうとした、それよりも僅かに早く、黄瀬が大きく息を吸い込んでいた。
「オレだって皆の前でセンパイの名前呼びしたいのに早川先輩ずるいっス!! あーもー、オレだって言ってやる、笠松幸男、幸男さん! あーやっぱいいスね、幸男さんって名前音は可愛くてでも字は男らしくて大好きっス幸男さん!!」
若干どころかかなり主旨がずれているが、それは黄瀬の与り知らぬところだった。大勢の部員の前で、普段は叶わない下の名前を心行くまで連呼する。一年のフットワークは終わりました幸男さん、次どうしましょう幸男さん。ロードワーク行った方がいいスか、それともディフェンスの方スかね幸男さん、幸男さん。幸男さん。
まるで語尾が幸男なのだと言わんばかりに、これみよがしに幸男を連発する。背後から抱き竦めることをしないだけ、黄瀬にはそれなりに躾が行き届いているんだなと思いつつ、部員の大半はそっと眼を逸らして各々の練習に戻っていった。完全に当初の話題を置き忘れたこの状況の末を予想するのは、絶好調のときにフリーの状態でレイアップシュートを決めることよりも容易い。巻き添えを食うのはごめんだった。
「ゆき、」
「――黄瀬ばっか何言って(ン)だよ!!」
ぴーちくぱーちく鳥のようにあるいはきゃんきゃん吠え続ける犬のように幸男を連呼していた黄瀬を遮ったのは、もう一匹の犬、もとい早川だった。一瞬ぐっと息を呑んだ黄瀬に、漸く静かになったかと笠松が一息吐いたのは一瞬だけ、早川の言葉に疑問符がぽんと生じた、直後だった。
「幸男
何故か対抗心を燃やしてしまったらしい早川までが無駄に笠松の下の名を連呼し始めた。マジかよ、と頭を抱えた笠松は、後ろからぎゅっと抱き締められる。誰に、などと考えることはない。こんな事を仕出かすのは唯一人だった。
「何スか、何で早川先輩まで幸男さんを幸男さん呼びするんスか、呼んでいいのはオレだけっスよね幸男さん!?」
「だ(れ)がンなこと決めたんだよ!! ってかお前後輩の癖に生意気! オ(レ)お前よ(り)年上! 敬え!!」
「それとこれとは関係ないス!! ね、ゆきお……」
「だああああ、もううるせぇ!! うるさすぎるから黙れ!! テメェら先輩呼び捨てにするたぁ良い度胸だなぁオイ!!!?」
そろそろ切れる、と周囲が思っていたよりかは耐え切ってみせていた笠松だったが、やはり最終的には、ぷっつんと堪忍袋の緒が切れた。上半身を黄瀬に拘束されながらも早川の腹に一発右足をめり込ませると、早川はぐえっとコートに沈んだ。それを見て怯んだのか、緩んだ腕の中で躰を反転させると、ボクサー顔負けの渾身の右の一打を黄瀬の肩に放つ。幸男さん痛い! と黄瀬が尚も足掻いたので更に一発見舞った。これには堪らず黄瀬もその場に蹲る。
至近距離とはいえ、いつもと寸分違わないその威力に、ちらちら観ていた部員達は思わず「おおっ」と歓声を上げる。我らが主将は日に日に武闘派になっている。その内他の部活からもスカウトが来そうだ。――唯、ギャラリーの女子生徒の間には非難轟々の嵐が吹き荒れていたが。
「――だって、最初早川先輩には許してたじゃないスか! 何でオレだけそんな扱いなんスか!!」
「早川は別だ! お前、あの早川がまともに聞き取れる言葉を言い切れたってだけでもすげぇだろうが!!」
「だからって何でそれがセンパイの名前なんすか!!」
「…………そういや、そうだな」
確かに、ラ行が入っていない名前ということなら監督の名前でも良いはずだ。幸いなことに、今日は監督がいない。コートに伏したままの後輩二人を放って、疑問符を浮かばせて森山を見やれば、にんまりと彼はにたついていた。
「いや、一番楽しくなるかなぁって思って?」
「……この状況、予想してたっつうことだな?」
ぴくり、と浮いたこめかみの青筋に、存在感を限りなくゼロにするという幻の六人目並みの技を発揮していた小堀は、そろそろと声を掛けた。
「……まぁ、幸、落ち着け? な、落ち着け?」
多様な問題児が満遍なく揃っている海常レギュラーの中では、一、二を争う真っ当な人間である小堀にしかこの場を治めることはできない。そうでなければ、おそらくこの後地獄のロードワークが待っている。皆の期待を一身に背負い、小堀は笠松の肩をぽんぽんと叩く。
「元気が良いのは、こいつらの良いところじゃないか。幸だって、そう思うだろ」
「……こぼ」
「あああ、ほら、小堀先輩には『幸』って呼ばせてるくせに! いいじゃないスか、呼び捨てじゃないんスから、ちゃんと『さん』付けしてるじゃないっスか!!!!」
お前ちょっと黙れ!! という部員達の心の叫びも全く意に介さず、上半身だけ起こしてずるいずるいと不平不満を垂れ流す黄瀬に、笠松はにっこり――否、口の端を引き攣らせて、言い放った。
「――お前、と、早川、二人揃って仲良く外周行って来い!!!! 今日はお前らずっと二人で組んで練習しろ!!」
「えぇえ!! 何でスか、何で早川先輩と組まなきゃなんないスか!!!?」
「こ(ん)の……!!! テメ、そんな嫌そうな顔す(る)んじゃねぇよ!! ってか今のオ(レ)明(ら)かに巻き添えだし!!」
きゃんきゃんどころがぎゃんぎゃん吠え立ててくる犬のような――本当の犬の方がまだ良かったかもしれない――二人を笠松は「黙れ!」と一蹴する。
「お前ら、さっさと行かねぇと今日オフェンス錬させねぇぞ!!」
いくら何でもそれは嫌だ。止めの一言に背中を丸め、黄瀬と早川は互いにぶつぶつ文句を垂れながら体育館の出入り口へと向かう。黄瀬がいなくなれば、それに伴いギャラリーも消える。少しずつ静かになっていく体育館内、二人の後姿が見えなくなるまでじぃっと追っていた眼を、くるり笠松は森山に向けた。
いきなり振り向かれた所為で、逃げ出すことも叶わず森山は失敗した、と内心零した。背中を丸め、しょんぼりという言葉を体現しているような態で体育館を出て行く二人が楽しく、かつ面白くてにやにや眺めていた。全く油断していたものだから、少しでも場を和ませよう、もとい誤魔化そうと笑うが、油を注し忘れたブリキの玩具ばりのぎこちない笑みになった。
「……森山」
「…………何かな?」
「お前、今日、覚悟しろよ?」
にっこり、今度の笑みはまさしく綺麗に口角の上がったそれで、こめかみに浮いたものさえ見なければ笠松機嫌良いじゃん、と茶化したくなるくらいだった。――本当に、こめかみにぷっくりと浮いた青筋さえ、見なければの話だった。
「……お手柔らかに、お願いしたいなぁ、なんて?」
「さぁ、どうすっかな?」
二人の薄ら寒い笑みの応酬に、これは小さい蛇に睨まれた大蛙だな、と一歩離れた所にいた小堀は一人嘆息する。しかして、今回のこれは確実に森山の非、もとい、失敗なので助け舟は出さなかった。
いくら、早川も黄瀬も、笠松までをも一度に弄れるからと言って調子に乗るものではない。特に笠松のような男を相手にするならば、やはり程度と限度を知らなければならないのだ。だから、たとえば主旨がずれたのに便乗し、小堀が中学時代の笠松が「幸ちゃん」と先輩から呼ばれていたことをあの状況でばらしたら――更なる大惨事がこの場を見舞っただろう。
「おーい、幸」
せめて吐かない程度に抑えてやれよ、とだけ声を掛けて、小堀もすっと練習に戻っていった。
ring-around-a-rosy:歌いながら輪になって踊り、合図でしゃがみ込む遊戯