黒子のバスケ

シリー・シャリー

なぁ、お前って童貞か。
そんなことを二人きりの部室で、思いを寄せている先輩に言われた日には一体どうしろというんだろうか。



「……あの、まず、一ついいスか」
「…………何だ」
「オレの答えが、今後笠松センパイとの関係、ないしは部活に何らかの影響を及ぼす可能性っていうのは、どれくらいあるんスかね?」
「………………」
応えが返ってこない。ロッカーの方を向いてけしてこちらを見ようとしない笠松が、今どんな顔をしているのかは黄瀬には解らない。先の質問のときも同じ、ロッカーに向けて語りかけただけだと強引な言い訳ができそうなくらいには唐突に黄瀬に問いかけてきたこともあって、一瞬反応が遅れたのだった。
締めようと首に掛けたネクタイをそのままに、背中合わせにロッカーが配置されている彼を振り向けば、ロッカーと睨みっこしているかのような笠松がいた。耳や剥き出しの項の紅潮に、自主練習の後で未だ熱が引いていないのか、それ以外なのかは解らなかった。
(っつうか、笠松センパイが何でそんなこと)
生真面目で一本気で頑固、おそらく昔気質と呼ばれる性格をしている彼が、よりにもよってこの状況で黄瀬が童貞かどうかを聞くなんて信じられなかった。後輩の下半身事情まで把握しなければならない主将なんてどの分野でもいないだろう。部員の下半身の面倒まで見る女マネージャーもののAVなら、あることはあるだろう。黄瀬は興味の対象外だったので見てはいない。
それはさておいて、試合ごとに可愛い女の子に勝利を一方的に捧げているらしい森山でもあるまいし、何かの罰ゲームか何かなのだ、と考えるよりなかった。自分は知らないが、三年の間か何かであったのだろう。賭けの対象になっていることも考えられるな、と黄瀬はあちこちに考えを巡らせる。
たとえそのどれであったとしても、この不躾な質問にさして怒りが湧いてこないのは、聞いてきた当人である笠松が、ひたすら我関せずの態度を取り繕って着替えていたからだ。いつもだったら、さっさと答えろと回し蹴りの一つくらいしてくることを黄瀬は経験上知っている。
黙々とシャツのボタンを上から順に留めていた手が、腹の辺りで止まって、小さな舌打ちの後、また上へと戻っていく。何というベタなことをしてくれるのだろう、と黄瀬の表情が蕩けるように緩む。ボタンを掛け違うくらいには、彼の人自身も緊張しているらしい。
(自分で聞いてきたくせにね)
今も顔を見せようとしないということは、たとえ罰ゲームであったとしても、笠松自身も先程の質問に対して、好奇心以上の何かしらの感情を含ませていたということだ。単純な好奇心だけならば、笠松という人の性格ならばあけすけに聞いてくるだろう。昨晩何を食べたかのかを聞くように、昨晩誰を食べたのか、わざわざ二人きりの状況を選ばずに、他の部員たちがいるときにでも聞いてきただろう。本当に罰ゲームなら、そちらの方がいいぐらいだ。
「……そっスねぇ。どっちだと、思いますか?」
くるり、躰を反転させる。黄瀬のこの先の行動を敏感に察したらしい笠松が躰を逃がす前に、後ろから覆い被さるようにして動きを止めた。手を笠松の顔の両脇のロッカーに突き、少し身を屈めて赤くなっている右の耳に唇を寄せる。
「オレ、でもモデル仲間の中では、遊んでない方っスよ。特に今なんか、そんな暇ないス」
跳ねた躰を抑え込むような形で背中にぴたりと胸を押し当てる。梅雨を目前にした時期に取るにしては、大半は不快さだけを訴えるだろう体勢だった。例に漏れず、黄瀬、と腕の中からした声に含まれる感情を黄瀬は分析してみる。
(不機嫌半分、怒り三分の二、焦り三分の一ってとこかな)
「ちょ、黄瀬、てめぇ本当何して」
「センパイ、オレがそういう風に遊んでたように見えます?」
笠松の声に被せて聞けば、ぐっと詰まった彼はそのまま何も言わなかった。シュートの時にはしなやかに伸びる背中の筋肉が、薄くひくつくのを張り合わせた自分の胸に感じ、図星を指されたときの人の躰はこんな風に反応するのか、と黄瀬は一つ新しく知った。熱の引かない耳を下って、項、肩口。まだ赤く、そして平均的な男子よりはしっかりと厚みのある筋肉に視線を這わせる。――女とは違う、硬い線に縁取られているこの躰は女を知っているのだろうか。
(……しかし、まぁ)
沈黙はほとんど肯定と同じなんだけど、と思って苦笑する。勿論声は出さずに、口角を緩く上げただけのそれだった。笠松の素直すぎる反応に不快さを感じないのは、彼への実るはずもない思いもあったし、少しばかりの諦めもあった。
普段のギャラリーの女子への笑顔の対応は半ば仕事のようなものでもある。黄瀬は確かに海常バスケ部のレギュラーだったが、同時にモデルでもあった。どちらも黄瀬には大事だったから、バスケット選手としての黄瀬を買ってくれている仲間を裏切るようなこともしたくなかったし、モデルとしての黄瀬を好いてくれる子を蔑ろにすることはしたくなかった。双方のバランスを取ることはけして楽なことではない、ということを今の笠松の反応に改めて感じた。他のことなら兎も角、部活動に関しては一番公平さを保っているだろう笠松でさえ、この反応なのだ。今後もう少し気を遣わなきゃな、と思いながら笠松の様子を見た。
笠松は相変わらず何も言う気配がなく、触れ合った箇所からももう特別な反応がない。あんまり調子に乗っていると本当に怒らせてしまう。引き際を見極めることは後腐れない関係を維持するためにも必要で、その術やタイミングを読むことくらい黄瀬には易しかった。――すみません、センパイ。
「ちょっと、センパイが意外なことを聞いてくるもんだから、オレも吃驚しちゃって」
言葉の端で笠松のことを少しだけ茶化して、躰を放す。引っ付いていた所為でシャツが笠松の背に張り付いていて、更に一歩分後ろに引くことでへりと剥がれた。
「……おい、黄瀬」
離れた直後に呼ばれて、あぁこれはじきに回し蹴りがくるな、と予想した。さり気なく躰を斜めに引き、最小限の被害に留めようと構える。だが、ゆっくり振り返った笠松の表情に、黄瀬はきょとんとしてしまう。
「――お前、何で答えようとすんだ?」
「…………はい?」
後退ったのか、もたれかかったのか、ロッカーにがたんと背中を貼り付けてきっと見上げてくる笠松の目許は微かに赤が残っている。けれど、そこにある感情は怒りでも照れでもなく、強いて言うならば困惑だった。
「こんなこと聞くなんて不躾っつうか、答える義理はねぇぐらいのこと言っても当然だろ。オレだったらそう言うし」
それなのに、何で、と心底意味が解らないと言いたげな顔で問うてくる笠松に、聞かれたからですとは言えない。事実、黄瀬自身も答えに詰まってしまい、視線を笠松の耳辺りに逃がしてしまう。先程唇を寄せた右の耳、その付け根の辺りに小さくて薄い黒子があることを知っている。
黄瀬が何も言わないことに痺れを切らしたのか、……がし、と後頭部を右の手で乱暴に掻き、「もう言っちまうけど」と前置いて笠松は口を開いた。
「――三年部員の間での、ちょっとした賭けっつうか何つうかがあってな、で、負けた方代表でオレがお前に童貞かどうか聞くっつうことになったんだよ。だから……まず何よりも、オレは、そういう罰ゲームの対象にお前を選んだことと、選ぶのを止めなかったことをお前に謝んなきゃいけねぇ」
悪かった。
後頭部を掻いていた手を外し、左右の腕をしゃんと伸ばして躰の脇に揃えると、そのまま頭を下げる。後輩相手にきっちり腰を曲げて非礼を謝罪する笠松に、逆に黄瀬は慌ててしまった。
「ちょ、そんなのいいスよ、別に。慣れてますし」
自身の外見の所為か、職業の所為か、そういう質問をされることは多かった。同業者、同級生は勿論、初対面の女性からだってある。それにしどろもどろになっていたのは、せいぜい最初の数回だった。何度も繰り返されれば黄瀬にも解る。――自分は、軽薄な人間に見られているのだ、と。
「だから、センパイもそんな気にしないで下さい」
顔を上げた笠松は、きゅっと眉間に深い皺を刻んでいる。笠松はしかめっ面が標準装備の男だったが、割合その表情を――起伏の激しい感情を読むことは容易かった。歳にしては幼い顔立ちを少しでも紛らわせようと、わざと剣呑な顔をしているのではないかとすら黄瀬は思っている。
だが、今の表情がどういった感情故なのかはいまいち解らなかった。怒りなのか、自責なのか、それとも他の感情か。笠松の心中を推し量ることはできなかったが、自身についてはちゃんと解っていた。
黄瀬は、笠松に対して情けない顔は見せたくなかった。彼を困らせたくもなかった。だからいつも通りに――そういう質問をされる度にする――波風を立てない程度に苦笑して、オレだってこう見えても純情な部分あるんスよ。誤魔化す一言を忘れずに添えて、口を閉ざした。これで、この話は一旦打ちきりにさせてもらおう。笠松もこれ以上この話を続けたいと思っていないだろうから。
黄瀬の思惑に対し、しかし、笠松は予想外の一言を口にした。
「……殴りてぇ」
「――は、い?」
まさかの発言に、黄瀬は間抜けな声を出してしまった。眉間の皺が、先程よりも深く刻まれているような気がして、その黒の眼はぐつぐつと煮えるような怒りを映していた。――そう、今なら解る。笠松は、今完全に怒り心頭に発している。
まさかの憤怒の表情に、躰の脇に揃えられたままの笠松の手に視線を恐る恐る移すと、間違いなくその拳は殴る寸前の固く握られたそれ。
「――え、あの、ちょ、オレ?」
「違ぇよ、お前じゃない。自分をだ」
お前殴ってどうすんだよ、と力を抜くように吐き出された息は深く、ゆるりと右の拳が解けた。
「……本当、な」
瞼をぎゅっと閉じた笠松は、あーとかウーとか呻き声を上げながら、拳を解いたばかりの右手で首の裏を擦る。その様は笠松自身の困惑を反映しているようで、黄瀬は何を言っていいかも解らずに眉を八の字にして次の笠松の言葉を待った。情けない顔を見せたくないのが本心、だが笠松が何故自分自身に対して怒りを抱いたのかが皆目見当も付かなかった。
暫くすると呻き声も消え、二人きりの部室に余所余所しい沈黙が降りてくる。笠松は首の後ろに手を当てたまま少しだけ俯いて、視線は恐らく床、黄瀬の爪先辺りを彷徨っていた。黄瀬の視線はその笠松の右耳に向けられていて、オレって耳フェチだったのかな、と自分を茶化してみようとするものの無駄だった。思考は直ぐに、笠松の心に向かってしまう。
童貞かどうかを聞かれ、ちょっとだけ調子に乗った。それだけだったはずが、この沈黙は一体どうしてだろうか。間違えた、黄瀬はそう思った。思ったが、どこで道を間違えたのかが解らないから、どこまで遡り、どこから反省すればいいのかも解らないままで、視線は耳に固定されているままなのに、思考だけは右に左に彷徨うばかりだった。それを、すっと留めたのは、――なぁ、黄瀬。一頻り呻き終えて落ち着いたらしい、笠松の穏やかな声と、射抜くような視線だった。
「別に、オレお前のそんな顔見たかったわけじゃねぇし、させたかったわけでもねぇよ。お前、こういう失礼に慣れるなよ。怒れよ、怒っていいんだよ。――モデルっていう世界じゃどうなのか、知らねぇけどさ……少なくとも、ここじゃそういうのは、怒っていい」
聞いた当人のオレが言うことじゃねぇのも解ってるけど、言わせろ。最後の言葉には溜息と自嘲が半々の割合で含まれているのに、黄瀬は敏く気付いた。強い黒に射抜かれて心臓の下辺りにぐっと引き攣ったような痛みを覚える。思わず胸の辺りを手の甲で押さえた。
次第に増してくるのは、痛みよりも苦しさだった。気道が塞がれて息ができなくなっていくような苦しさ。どんどん膨らんでいくものに押し潰されそうな苦しさ。何かが破裂してしまうような躰の内側での苦しさ。決壊する寸前のダムのような、危険水域を越えた川のような、そういうイメージに溢れる思考に気付く。押し留めることなど到底敵うべくもない、圧倒的な力。何よりも深く強く、――優しい黒の眼。
(あふれる、流れる、感じ)
厚い筋肉ではなく、皮膚一枚で何とか持ち堪える。ぴりと何かに引っ掛かれたら最後、全部が溢れ出してしまいそうな内側からの圧力、圧迫感。
(……恥ずいっスわ、コレ)
笠松の性格ならば、童貞かどうかくらい何てことないように聞いてくるだろう、と思っていた自分を情けなく思う。黄瀬が思う以上に、笠松という人は潔癖で、真っ直ぐで、人の内側の部分に対して敏感だった。先の緊張も、きっと単純な緊張だった。好奇心とそれ以上の感情、興味、そういったものは関係なく、唯、黄瀬にこの不躾な質問をしたことに対して緊張し、そして後悔していたのだろう。耐え切れずに俯いてしまった自分を、黄瀬は薄く笑う。
(怒っていい、って言われても、でも)
「……でもそれって、オレのイメージって奴だから、仕方ないんスよ。少なくとも、たとえばセンパイは滅多にこういうこと聞かれないでしょ?」
笠松を見て、女をとっかえひっかえしそうな奴だとは誰も思わないだろう。バスケットや部員に対しての姿勢を見れば尚更、婚前交渉なんてありえないと言い出してもおかしくない――むしろ妥当だとすら思われるかもしれない。――そして自分は、そういう人間として見られていない、それだけの話だった。お世辞にも綺麗とは言えない部室の床に落としたままの視線は、近付いてきた足を認めた。
「――何でそこで、そんな顔して諦めるんだよ、お前は」
いきなりがしり、と頭を鷲掴みにされ、乱暴に髪を掻き回された。頭上で聞こえたのは確かに呆れたような溜息だった。
「ちょ、いきなり、何、痛いっス! 髪引っ張ってる!」
反射で顔を上げれば、直ぐ近くに見上げてくる強い眼。遮るものもなく、構えることもできず、あ、と呆けた。きゅっと引き結ばれた唇が、黄瀬、と自分の名を呼んだ。
「――センパ、イ?」
「言ってもしょうがないことと、言う前からしょうがないって諦めることは違うからな。――少なくともオレは――うちの部員は、お前が本気で言うことを笑うことも疑うこともしねぇよ。そんな顔されるの、嫌だからな」
言いたいことを剥き出しにして伝えてくる笠松の言葉は、まるで血が滴り落ちている肉のように生々しくて、熱くて、それを飲み込んで消化しようにも黄瀬には大きすぎて無理だった。唯でさえ内側の何かが溢れそうで、それを押し留めるので一杯だった。その上にこの言葉の重さで、溢れる、と思った。もう溢れてしまう。精一杯だった。見開いた眼は笠松以外のものを映すことを忘れて、頭を解放されても尚じぃと見ているとその黒だけの眼に融けてしまいそうになった。
笠松という男を黄瀬は知っている。クレバーかつ冷静に試合を運ぶ県内屈指のポイントガードで、熱血体育会系の典型的な性格だから言葉よりも先に手と足が出て、礼儀にうるさくて、努力を積み重ねることを知っていて、海常というチームを誰よりも解っていて、何よりもバスケットが好きな男だった。
そして、その言葉はひたすら直球一本で、クレバーさの欠片もなく、策士の片鱗も見えない、まるで持ち球がストレートしかない投手のようだった。それも黄瀬は知っている。知っていた。だからこそ、この後何を言えば、どうすればいいのか解らなくなって途方に暮れた。――何か下手なことを言えば、もう自分に押し留めることなどできない。そう直感していた。
(……そういや、センパイ、「そんな顔」って)
笠松の言う「そんな顔」は、鏡でもない限り当然の如く黄瀬には解らない。いつも通りの苦笑、ちょっと困っているような顔で、歯を見せずに口の両端を僅かに吊り上げて、そういうもののはずだった。――笠松の眼には、一体どんな風な自分が映っていたのだろう。再び沈黙に沈んでしまう前に、それを聞こうと思った。
「センパイ、オレ……そんな、変な顔してましたか?」
自分の表情が他人からどんな風に見えるか、思われるかなどさして気に留めたことはなかった。自身が思った通りの表情を顔に乗せることができる、それがモデルという人種でもあったし、黄瀬という人間でもあった。周囲の眼など考え出したら、負けなのだから。――それでも、今は聞かずにはいられなかった。迷いも濁りもない黒の眼が映したのは、どんな自分だったのか。
黄瀬の伺うような視線を至近距離、真正面から受け止めた笠松は、暫し思案する素振りを見せると、小さく「別に、変な顔って言うわけじゃねぇけど」と呟いた。何かしら思うところがあったのか、向けられる視線の柔らかさは先の言葉の熱さとは違ってふわりと胸の辺りを擽った。羽根の先で皮膚の薄いところを撫ぜられるような擽ったさとこそばゆさに、緊張の糸が緩んだ。
「……諦めた顔をした犬、なんて見たくないだろ普通」
「――――――って、犬!? 何故に犬!? オレが犬!?」
緩んだのは笠松との間の意思疎通の糸だったのか。直球は直球だが構えたところではなく鳩尾に食い込んできた言葉に、敬語も忘れて黄瀬は声を上げた。握った拳にぎゅっと力が篭る。若干悲痛な声になってしまったのはしょうがない、と自分に言い訳をする。肩を掴んで揺す振ることをしなかっただけでも良い方だった。そんなことをすれば笠松の拳が己の肩に飛んでくるのは眼に見えている。
黄瀬のその必死な剣幕に、笠松が固く引き結ばれていたふっと口元を綻ばせた。大口を開けるでもなく、口の端だけを歪ませるでもなく、息を吐くように自然に、ふっと零れたような笑み。
「――そういう顔の方が、オレは好きだ」
お前なんて、いっつもだうだう言ってりゃいい。諦めるみたいな顔、その歳で覚えてんじゃねぇよ。
自然、だったからこそ装うこともてらうこともない。まるで花が咲うにも似た、普段の剣呑さを欠片も見せない笠松の微笑に、黄瀬は動きを止めた。
柔らかな目許は優しいというよりも穏やかなもので、柔く包み込むような深さに息を呑む。光がないゆえの黒ではなく、影が幾重にも折り重なってこその黒、その色の深さに、この表情は一体何と言うのだろう。この表情をさせる感情は一体何なのだろう。今までに見たことのない種類の笑みを前にして、黄瀬は何も言えなかった。視線が縫い止められてしまったように、笠松から眼を離すことができなかった。
(……好き、って)
それを、今この場で言うのか。黄瀬は笠松の心が全く解らなかった。解るのは、笠松の言葉に欲も何も含まれていないことくらいだけだった。今も解らないのは、笠松の言う「そんな顔」と「そういう顔」。――どんな、顔をしているというのだろう。
「なぁ、黄瀬」
見上げてくる顔の、相変わらずの至近距離に息が詰まる。先に笠松に後ろから覆い被さっていたときと比べても、せいぜい拳一個分ほどしか離れていないことに、互いの距離感――少なくとも笠松の距離感は狂っていると思った。
二人きりのこの状況で、この距離感のおかしさくらい気付いても良さそうなのに、敢えて気付かない振りをしているのか。普段だったら気に留めもしない些細な違和感を積み上げて何とか距離を保とうとする。全てが溢れる前に、壁を少しでも高く積まなければならない。だって、もう少し溢れてしまっていたのだ。――黄瀬。
「ここにいる限り、早々に諦めることは許さないかんな。――諦めることを、諦めろ」
最後まで足掻ききってくたばれるくらい、たっぷりしごいてやるからよ。
左右の頬をばちんと挟まれ、食われる寸前のような吐息のかかる近さで、不敵な、勝ちへの貪欲さに塗れた眼に射抜かれる。先に見せたあの笑みと同じ眼のはずなのに、ぎらぎらと光る眼、この眼はまるで、全てを飲み込む黒だ。黄瀬は瞬きもできなかった。包み込むより前に飲み込んで、深いというよりも底無しで、唯勝利を望むだけの眼は、しかし酷く眩しくも見えた。光を放つ黒、なんてものがあることを、黄瀬はまさに今知った。――どれだけだ、と思った。
(どんだけ、好きにさせりゃいいんスか)
優しいだけではなく、勝ちたいという欲に燃え、全てを包み込むような労わりも、根こそぎ奪うような酷薄も、全部持っていて尚――これほどまでに真っ直ぐな、眼。
「……諦めないスよ、もう」
笠松の両手首を掴み返す。自分から放させるためではなく、放さないために、掴む手に力を込めた。
「諦めるなんて、恰好悪いスからね」
歯を見せず、左右の口角をきっちり綺麗に吊り上げる。意識して作った笑みでもあった。それ以上に、意識して作ったように見せかける余裕があることを、他の誰でもない自分自身に意識させたかった。内側からの圧迫感は益々強くなっていて今にもはちきれそうになっていた。所詮皮膚一枚のダム、これ以上何かを笠松に言われたら決壊するのは明らかだった。
今の自分に、この人に見合うだけの直球さで思いを伝えることは無理だということくらい、解っていたから。
「……上等だ」
せいぜい頑張って、イケメンモデルの黄瀬君イメージを保ちやがれ。言葉と共に、拘束を諸ともしない腕力で頬を叩かれた。先程とは比較にならないほどの強い力に「ちょっとこれ絶対跡残るっス仕事に支障が!!」と叫んだ自分が、その実溢れた思いに泣きそうだったことなど、笠松はずっと知らないままなのだろう。


shilly-shally:ためらい、優柔不断

(20100707)