ビー・ア・ブリス・ニニィ (ネオテニーX)
シャワーを浴びて戻ると、立てた両膝を抱えて顎をちょこんと乗せた笠松が、ちらりと視線を投げてきた。
「……よぉ、獣」
「……」
反論はできない。まだ太陽が天上に高くある内から、淫行に耽っていたのだから、笠松の言い分ももっともだった。その笠松自身も、黄瀬と同じように獣であることを認めてくれるのだったら、という条件付きだったが。
下半身は薄手の掛け布団で隠されていたが、笠松の全身には満遍なく黄瀬の印が落ちていた。強く弱く、濃く淡く、方々に散らした赤は爪先からこめかみまで。笠松の全てに自分の印があることに一人満足した。
これ明日の午後までには消えてるんだろうな。午後からの練習時に残ったままでは差し支えあるのだと、特に鎖骨のものを気にしているらしい笠松に、いざとなったらハイネックか湿疹で誤魔化せばと提案したところ、それで誤魔化されてくれる奴なんて早川くらいだと溜息を吐いていた。
『二人揃って湿疹だなんて都合良すぎだろうが』
見上げてくる眼、触れられたのは左の耳朶、そこから流れて耳の下の窪み、首。先程まで、散々笠松に舐られていた箇所はさぞ赤くなっているはずだった。
『……センパイ、今日珍しく噛んだから』
二人きり、しかも情事の後に他の男の名前を出されて、更に痕を残してやりたいと考えた薄暗い自分が立ち消える。躰に痕を残されることは稀だった。笠松のそれはモデルである黄瀬を慮ってなのか、唯舐めるだけで、吸ったり噛んだりというものではなかった。
子どもがするような優しいだけの唇に反比例する形で、黄瀬は只管に子どものように自分のものだと印を付けた。強く吸う。噛む。言い逃れのできないような痕を言い逃れできない箇所に付けていく。引っ掻くことはしなかったが、加減を忘れて掴んだ手首に青く痕を残してしまうことはあった。そういうときにはリストバンドで隠せたが、熱が過ぎた後にそれを見ると、独占欲よりも罪悪感を強く感じた。
黄瀬にモデルとしての側面があるように、笠松にも多くの側面がある。バスケ部の主将であることもその中に含まれていて、他にも色々と黄瀬の知らない側面も、悲しい上に悔しいことだけれど、あるだろう。そのときに、普段していないそれに対して周囲はどう思うのか。そして笠松はどう返すのか。些細なことかもしれなくても、しなくてもいい手間を掛けさせている自覚はあった。
そういう風に自身後悔することが多くても、怒られることも何もかも承知で、せめて自分だけの方でも彼に残したかった。それが、なかったことにされたくはない自分の弱さからくることを黄瀬は自覚している。
笠松に引っ掻かれたのは、最初のときの腕の数本だけ、それ以降はきっちりと爪を切ってくるようになった。流石に深爪過ぎるのではというくらいに切っていたときにはやんわりと止めるように言ったが、やはり痕が残されることはなかった。強く抱き着いてくる腕は同時にとても優しく、黄瀬の躰を傷付けないように閉じ込めることに長けていた。――いつでも終われるように、逃げ道を用意されているような気がしていた。
だから、黄瀬はこの恋人に付けられた「男の勲章」というものに無縁で、早くそれが欲しくて仕方がなかった。
「――――背中、」
ぽつりと落ちた一言、それだけで黄瀬はこそばゆい気持ちになってしまう。
「その……大丈夫、だったか」
沁みたんじゃないのかと眼を逸らし訊いてくる笠松が可愛くて、黄瀬は相好を柔く崩しながらベッドに腰を下ろした。
「大丈夫スよ。っていうか、いつも残してくれて構わない……残して欲しいって言ってますよね、オレ。オレ、センパイのなんスから、傷の一つや二つ」
「おま、馬鹿か! 傷とか言うな、躰は大事にしろ! ってか恥ずかしいこと抜かしてんじゃねぇよ!」
恥ずかしいのは存在だけにしとけ、と酷いことを言われるが、両膝に顔を埋めても尚解る、耳の赤さで相殺される。右の肩胛骨の上には赤い線があるだけだったが、左の肩胛骨の流れに沿って痛みの線が数本走っていることを浴室で改めて確認し、黄瀬は自分の顔がだらしなくにやけていくのを抑えることができなかった。――初めて、だった。
「……そういう気分だったんスか?」
今日は出だしから随分と想定外のことが続き、黄瀬にとっても対処しにくいような状況だったのだが、今のこれもそうだった。
平素ならば、この可愛い年上の人に対して余裕を見せようと大人振る。揶揄いつつ、甘い言葉の一つや二つを口移しで伝えて、本当は余裕など掻き集めてもないような状態であるのを必死に隠そうとする。そういう自身の懸命は、実は笠松にも全て見抜かれている、ということに黄瀬も薄々感付いてはいたが、だからといって直ぐに情けない自分を臆面もなく曝すことなどできるはずもなかった。
唯、今はそういう風に取り繕うことすらできなかった。彼が好きで愛しくてどうしていいか解らない。それ故に、直球で尋ねるしかなかった。あれほどまでに頑なに痕を残すことを静かに拒んできたのに、一体どうしたというのだろう。
ぐいと手をベッドに突く。完全に乗り上げて笠松に顔を近付けた。急な接近に笠松の躰がびくり揺れ、それを宥めるように肩を抱いた。汗の引いた左の肩口に顔を埋める。鼻先を押し付ける。笠松のにおい、というもので躰を満たすように深く吸い込むと、普段とは違う情欲に染まったものも感じられた。
「……シャワー浴びてない」
だから寄ってくるなと言いたいのだろう。だが、いつも繰り返していることなのだから、黄瀬がいうことを聞くことはないというのも解っているはずだ。案の定、流しても笠松は何かを続けることはなく、為されるがままでいる。
引っ付く自分を剥がす面倒だからなのかどうかを考えるのは野暮だった。耳殻を甘く噛んでじゃれてくる可愛い人が、狙いをピアスに移したのを見計らい、どうしてと再び口にした。
「オレしか、聞いてないスから」
黄瀬とは違った意味で人の前に立つことの多い笠松は、言葉を選ぶ習慣がある。元々の性格故なのかもしれないし、今のように主将という立場になってからそれを意識するようになったのかもしれない。だが、どちらにせよ今この状況では立場のことは忘れて欲しかった。
「盗聴器とかないし、こっそり携帯で録音とかもしてないスよ」
「……そうやって先手を打たれると逆に不安になるからやめろ。ってか盗聴器の心配しなきゃいけないレベル……か、お前」
「まぁ、そこそこに」
苦笑の緩やかな振動が抱いた躰から伝わってきて、黄瀬もつられて小さく笑う。自分も結局、モデルの側面を完全に隠し切ることも捨て切ることもできない。それを含めての自分なのだから。
「……だから、大丈夫だよ?」
それでも、少しだけ踏み越えてみる。笠松の後輩という側面を潜めて、恋人の色を強くした口調。それは敬語ではないと言うだけだったが、黄瀬には今でも緊張する一瞬だった。
「ね、だから、笠松さん。……ゆきお、さん」
肩に回した腕をゆるりと外す。笠松の腰の横に手を突く。顔を上げた笠松を、真正面からではなく、上目遣いで見つめる。黒く濡れた眼にまた煽られる。白と黒のくっきりした眼に何度でも煽られる。欲の余りにきつくなり過ぎな眼を和らげる。シーツを掴む指に力が篭る。触れたいのを我慢する。どれだけをこの恋人に求めていいのか解らない。欲は際限なくある。だから、無理矢理にでも抑え込む。
笠松は一度だけ瞬いた。その眼が再び黄瀬を映したとき、黄瀬は彼を見失った。正確には、彼の輪郭を捉えることができなかった。近過ぎて、ピントが完全にずれていた。首に腕を回した状態で、笠松は何度か黄瀬の唇を突付いては離れ、を繰り返した。
触れては逃げる唇を追い詰めることもできた。それができなかった。上体を離した笠松を、黄瀬は呆然と見るしかできなかった。己の柔い部分を啄ばんだ唇が濡れている、と笠松を見て思った。あんなに短い間だったのにとも思った黄瀬は、間抜けにも硬直してしまっていた。
漸く黄瀬が動けるようになったのは、笠松が細く、しかしはっきりとその一言を紡いだ後だった。
「痕残すのに、別に、理由なんていんねぇだろ。もうお前はオレのもんなんだから」
頭を抱き込まれている。左の耳殻を鋭い歯でかりと噛まれている。痛みを感じない程度、獣の仔が遊ぶような、本気ではない噛み方。かり、かり……下る歯は耳朶に至り、今度は口の中に含まれる。ぴちゃりという水の音に混じって耳の中で響くのは、軟らかな舌と硬い歯に弄られるピアスの悲鳴。かきん、と短い悲鳴の後。
「――けど、オレもとっくのとうにお前のモンになってるってことは、忘れてくれるなよ」
一際高く、悲鳴を上げたのは何だったのか。
さっきは追い詰めることすらできなかった唇を容易く奪う。口腔内を犯す。強引に腰に巻きついていた掛け布団を剥ぐ。脚の間に割り入り、上半身を押し倒す。性急に過ぎた所為で、ベッドの方も悲鳴を上げる。上体をベッドの上に投げ出される形になった笠松の顔が、きゅっと顰められる。けれど、無視する。何処もかしこも悲鳴を上げているのだから。
「……やっぱり、獣だな、お前」
「センパイもでしょ。頭の良い獣なんて、余程じゃないスか」
顔の両脇に肘を突いて、濡れた吐息が鼻先で溶け合う距離で笠松に噛み付く。言葉も言葉にならなかった声も息すらも全て飲み込めるような距離で、もう一匹の獣に噛み付く。
「――オレにはね、あるんスよ。アナタに痕残したい理由、ちゃんとあるんだよ。……アンタが、オレのモンだって解らせたい、確かめたいんだ」
笠松に、周囲に、何よりも自分にそれを解らせたい。自分のものだと確かめたい。直ぐ忘れそうになる、笠松幸男という人が自分の恋人であることをもっと眼に見える形で残したい、それだけで。
「っき、せ!」
一転して焦った声。肩を押されるも、ものともせずに顔を剥き出しの首に埋める。今まで全身に赤を散らしても、ここだけはと埋めることを躊躇って避けていた。一番目立つ部分、獣の心では一番狙うべき部分。舌を這わせた直後、ごくりと上下に動いた咽喉の突起を柔く唇だけで解すように食む。ひゅっと息を呑む音を頭上で聞いた。
「……――ね、もっかい、いいスか?」
下半身に集まる熱をそのままにしておけるはずもなく、舌を滑らせて耳元に口を寄せて請うと、くっと絡み付く四肢に力が込められた。
「っいちいち確かめんな、アホ……っ」
馬鹿の次は阿呆ときた。恋人の相変わらずの減らず口に、しかし黄瀬の唇は自然笑みを象っていた。片腕で腰を抱くと、触れ合う肌の面積が一気に増える。――黄瀬が再びの誘いの言葉を発するより前に、笠松は黄瀬の背中に腕を回し、腰に絡めた足も組み直した上で、ぴと、と躰を押し付けてきていたのだ。確かにこの状態で口頭での確認など、無意味だった。無粋ですらあった。
「――ごめんね、センパイ?」
黄瀬はにっこり笑った。それを見て墓穴を掘るどころか墓石まで注文してしまったことに気付いたらしい笠松がちょっと待てと前言を撤回しようとする。だが、笠松のものである黄瀬は従順だった。謝ったのは今のことと、これからのこと。彼の要望通りに以降黙々と、かつ思う存分その躰の内外に自分のものであるという印を付けることに専念した。
ネオテニーのおまけという名の蛇足。
bliss ninny:《俗》至福のばか。恍惚となった[白痴のように見える]者