ネオテニーV
眼が覚めると同時に躰も覚める。まるでスイッチをオフからオンに入れたかのように、モノクロ画面がカラー画面に切り替わったかのように、それまでの世界と今の世界の境界、その鮮やかな断面を頭の後ろの後ろに感じ、そこで思考が停止する。今、確かに眼が覚めて、眼が覚めている。
その状態を認識しながらも、腕の中の温もりにどうしてか兎に角安心してしまって、すり、と頬を寄せれば細く、そして少し硬いものにちりと引っ掻かれた。それは彼の人の髪の毛に感触がとてもよく似ていた。鼻を摺り寄せにおいを嗅ぐ。それはやはり彼のにおいだった。
犬みたいなことをするなとしょっちゅう怒られるが、好きな人を五感全部で味わいたいというのは至極当然だと思う。犬の気持ちがそうなのかは解らないけれど、少なくとも自分はそうだ。眼で、耳で、鼻で、舌で、肌で、ときにはそれらでない何かで、好きな人を知りたいと思うのは当然だ。腕の中に抱いた彼を一層強く抱き締める。声を聞きたい。どんなときでも聞き分けられる自信がある、大好きな人の声。
「……かさまつせんぱい……」
「起きたか」
間をおかずに返されて、ぴたり、停止した。
どうして、笠松の声がここで、ここに、聞こえるのだろう。ここは、確か自分の家だったはずだ。シーツの感触も同じ、馴染みになったにおいも同じ、抱き心地具合も同じ。昨日は撮影が日付の変わった後に終わって、久し振りに部活も仕事もない、丸一日の休みを確保した日で、変に眠るのが嫌だった、だから。
そこまでのろのろと今日という日を辿っていた自分の脳天にダンクを決めたくなった。
「かさ、笠松センパイ……!!」
飛び起きると同時に後退る。笠松から少しでも距離を取ろうとした結果、どん、壁に勢いよく背中をぶつけたが、そんなことは全く気にもならなかった。
一体どうして、自分は笠松を抱き枕代わりにしていたのか。心臓がばくばく血液を全身に巡らせる音がやたらと頭の内側で響いている。むしろこれは全身が一つの心臓になったようだった。ばくばく、どくどくと脈を打つ音、血の流れ、管の収縮までが全身を巡る。反響する。
「ど、どうして、……っいや、解ってます、解ったんすけ、ど」
オレが、寝ちゃってたんですよね、と拙い言葉を接ぐと、笠松は頷いた。表情は固いまま、探るような眼で黄瀬を見上げている。その両の瞼、もとい目許がやたら腫れぼったいというか、赤くなっているのが気になったが、その理由が自分にあったら、と思うと何も言えなくなった。
何と言うことだろう。自分から誘ったくせに、約束の時間まで――時間を過ぎても眠りこけて、挙句、何故だか抱き枕にまでしてしまっているなんて。もしかしたら、それ以上の何かしらの無体をはたらいてしまったのかもしれない。いや、けれども自分も笠松も服をちゃんと身に纏っている。変に乱れてもいない。だからそれ以上のことはしていないはずだ、と思った。思いたかった。しかし記憶がない。
自身のあるまじき失態に黄瀬が半ば泣きそうな顔になっていると、笠松は眼を伏せて、ふぅと一つ短く息を吐いた。よく見ればその睫も濡れている。もしかして、泣かせてしまったのか。怒らせてしまったのか、怖がらせてしまったのか。一体自分は笠松に何をしでかしたのか。色々なことが頭の中を漂ってはぶつかって、迷って回って、黄瀬はもうどうしていいか解らなくなった。ぎゅうと集まった熱の所為で、眼の奥が痛くなる。
「……バカ、勝手に泣きそうになってんなよ」
のそりと上半身を起こしてベッドの上で胡座を組んだ笠松は、がしがしと後頭部を掻く。いつも通りの悪態に、それでも今の黄瀬は救われる。眉間の皺が消えた、それだけで嬉しくて泣きそうになった。
「センパぁイ……!」
ずっと鼻を啜ると今度は呆れた顔で、お前モデルだよな、と聞かれたのでそっすと答える。
「昨日も、やってきたっス」
「昨日ってお前、練習後にかよ!? それじゃ何時に帰って……!」
未成年にゃ決められた就労時間ってのがあるだろーが、という今度の言葉には若干の怒気を感じ、びくりと肩を竦ませてスミマっセン! 条件反射で謝った。
「いや、別に、お前に謝られてもっつうなぁ……」
眉間に浅く皺を刻む笠松に、いや、オレがいけないんス、と心の中で小さく謝る。体調管理はしっかりするように口酸っぱく言われている。だから昨日のような撮影が稀なケースで、黄瀬自身の都合で無理を言って昨日の夜に組み込んでもらったのだ。それは当然笠松の知るところではなかったから、彼の言い方も歯切れ悪くなったのだろう。
全て、今日一日を笠松と過ごすためだった。丸一日を笠松との時間に当てたくて、昨日の内に詰め込んだ。撮影が終わる時間などまちまちで、待ち合わせの時間に間に合わない、という事態だけは避けたかっただけだったのだが、こうなった今では本末転倒だった。
しかもこの状況。黄瀬の思惑込みで全てを笠松に包み隠さず馬鹿正直に話せば、まず第一にお前はバカか、と怒られるのは必至。次に大人しく休んでろ、というにべもない一言で終わる。緑間が心酔しているおは朝の占いより確実に、強制的に休息させられることが予想できた。だからこそ、単純に今日は仕事休みなのだという態で笠松を誘ったのだ。――それなのに。
「……ごめんなさい。オレの方から誘ったのに、こんな」
恥ずかしさに顔が熱を持ってくる。情けなさに項垂れて、顔を両手で覆い隠した。そうしていると、この場にいることそのものが恥ずかしくなってきてしまって、兎に角躰を小さく小さく折り畳む。
膝を折り曲げ、背中を丸め、まるで叱られるのを怖がって隅に逃げる体育座りの子どもそのものだ、と関係ない方向へ考えを飛ばそうとするが、いっそ叱られた方がすっきりするか、と思い直す。仕切り直しも兼ねて、笠松が肩パンの一発でもくれれば、何とかこの恥ずかしい自分を誤魔化せるかもしれない。そこまで思考が逃げ切って、再び、あぁこんなはずじゃなかったのに、と数時間前の己を罵る。一体何のためにあれほど苦手なコーヒーを飲んだのか。
「――正気に戻った、みたいだな」
ぽつり呟かれた、安堵したような一言に、黄瀬は薄く開けた指の間から笠松の様子を伺うと、ばちん、と音を立てて視線がぶつかってしまった。あぁ、怒ってはないかも、とほっと胸を撫で下ろしたくなったのは、片方の眉を下げてちらちらと投げかけられてくる視線に、気遣わしげな色を見つけたからだった。――気遣わしげ、という部分に疑問を抱く。そして、笠松の言葉にも。
「……正気?」
一体何のことだ、と不思議に思ったのが顔に出たのだろう、笠松はぴくりこめかみを引き攣らせた。
「あ、何か、何かしたんスねオレ、すんません、本当スミマセン!!」
青筋がくっきり浮かび上がる前に先手を打つ。ベッドの上だが、額をシーツに擦り付けて土下座する。この際、恥も外聞も関係ない。
「おま……そこまでしなくてもよ……」
頭上に笠松の呆れ声が落ちて、顔上げろバカ、という言葉に恐る恐る上体を起こす。眼を合わせることなど到底できず、視線は笠松の耳から口元辺りをさまよい、最終的に己の膝の上、固くした両手に固定された。何が悲しくてベッドの上で正座をして、胡座を掻いている恋人と対面しなくてはならないのだろう。構図の情けなさに最早涙も出てこない。
「……黄瀬、ちゃんと顔上げて、オレの眼見ろ」
それなのに笠松は容赦なくそんなことを言う。せめてもの抵抗の証である上目遣いすら許されないのか。この状況で真正面から笠松の眼を見るだなんて、そんなのメデューサの眼を真正面から見るというのと同じくらいの自殺行為に思えた。
だが、ここで「イヤです」などと言うことも黄瀬には到底できるはずもなかった。唯でさえ何かをしでかしたらしい――約束の時間まで寝過ごしたこと、以外で――のだ。ここは大人しく石になることを選ぶしかない。覚悟を決めて、ぐっと真正面の笠松をを見据える。途端、もう動けなくされた。
「――せ、センパイ!?」
手をベッドに突いて、上半身だけをぐいとこちらに寄せてきた笠松に、黄瀬は文字通り固まった。これは所謂センパイがいつも嫌がる四つん這いじゃないスか、と煩悩に塗れに塗れた部分で反応したのは、それが本能というやつだったからに違いない。その証拠に、それ以外の思考はろくに働きもしなかった。覗き込んでくる顔は、何かを見定めようとするそれで、黄瀬はごくりと苦味混じりの生唾を飲み込んだ。
ほんのりと眦から瞼までを朱に染め、濡れた睫に縁取られた真っ黒な眼は、白眼の部分との境がくっきりしていて鮮やかだった。白黒はっきりつける、という言葉はこの眼にも当てはまる。黒と白の切り出したような明確な境界線は眩しく、その強い対照は鋭い切っ先になって眼に突き刺さる。
このままだと穴が開くのではないかと黄瀬が怖くなるほど、じぃと微動だにしなかったと思えば、すぅと刃を引くように静かに滑らかに動いて黄瀬の口元や耳元を舐めていく。唯そうやって見られているだけなのに、視線の跡が肌の上に残ってじわりと熱を帯びた。尖らせた舌先を、薄く這わせられているときに似ている、と熱くなっていく躰に思った。このままだと、何かをしでかしてしまいそうだと、思った。
黄瀬は知っている。この眼が溶けて甘くなる瞬間を、甘い涙で滲んで曖昧になった線を、ぎゅっと閉じられた瞼の下で、ぐずぐずに溶けきった色で、それでも黄瀬を見ていることを知っている。
――やられっぱなしは性に合わない。ちりと胸の奥で小さな火が熾きた。ちりちりと、その火が広がってまともな思考を焼いていく。たとえば、そう、まずはこの眼、自分を煽ったこの眼を。
「――――ってぇ!!!!」
「テメ、やっぱりおかしいまんまかよこの野郎!!」
右手に触れた頬、少し顔を下げて目許に唇を寄せようとしたまさにそのとき、完全に死角だった場所から飛んできた笠松の右の拳が黄瀬の肩を貫いた。一切の誇張なく、貫いた。
「な、何スか、何なんスかもう!!」
「そりゃこっちの台詞だ大馬鹿野郎! 何でそう眼を狙ってくるんだお前は!! 急所狙うなんてまるきり獣じゃねぇか!!」
「け、けものって……」
容赦ない拳により、上半身を壁に打ちつけられた黄瀬は堪らず抗議の声を上げるが、それ以上の大声で笠松に怒鳴り返された。その言葉の不穏さに、流石の黄瀬も言葉を詰まらせる。正気に戻るだの、急所だの、狙うだの、挙げ句獣ときた。先程から笠松の遣う言葉はどうにも物騒だった。
「……オレ、一体センパイに何したんスか……!?」
これはもう単刀直入に聞く以外にない。崩した足はそのままに、意を決して尋ねた。若干怯えも混じった黄瀬の視線を受け、再び胡座になった恋人は憮然とした表情を崩さずに、その前に一つ質問させろと言ってきた。
「……お前、変なモンに手ぇ出してないだろうな?」
「……はい?」
「だから、そういう……クスリ、とか」
流石に最後の言葉は言い難そうな素振りだった。そうでなければ黄瀬はこのときばかりは、たとえ笠松とはいえども怒っていただろう。
「アレっスか、芸能界の薬物汚染的なやつっスか? 生憎オレはクスリどころか酒も煙草も未経験ですけど。苦いのも苦手だし。……本当、オレ笠松センパイに何したっていうんスか……」
現状までの笠松の黄瀬に対しての態度から、相当不信感を持たれていることは解った。だが、それだけしか解らなかった。立てた片膝を両手で抱き、ごと、と頭を乗せる。そうして笠松から顔が見えないようにしてしまう。
薬物に手を出していないかとまで聞かれるとは流石に予想外で、情けなかった。恋人に聞かれたくないこと上位三位くらいには入るんじゃないだろうか。吐きたくなくても自然漏れてしまった溜息に呼応するかのように、もう一つの短い溜息。すりすりシーツを擦る音の後に、そうと頭に手を置かれた。
「……悪ぃな、黄瀬。今のは、オレも言い過ぎ……つうか、疑い過ぎだった。ごめん」
抑えられた声は笠松の悔いを色濃く反映していて、黄瀬の頭を優しく撫でる指はいつもの通りに温かくて、そろりと黄瀬は首を捻って恋人を仰ぎ見た。
「センパイ、オレ」
何したんスか、と何度目か解らない台詞を紡ぐ。くるりと動いて視線を重ねてきた黒の眼は、幾度かの瞬きの後に一言口にした。
「――眼が黒くて綺麗だから甘いはずだ舐めさせろ食べさせろって延々人の眼の回り舐め回してた」
「…………はい!?」
「挙げ句飴玉みたいだころころしてる溶けちゃいそうなのに溶けないんだ、でも噛み砕けば終わりとか言い出して、本気で目玉抉られて食われるんじゃないかと一瞬思った」
「ちょ、何スかその鳥肌立つような台詞連発の変態」
「……それがさっきまでのお前だっての」
敢えて感情を殺して淡々とした口調にしていたのだろう、言い終えた直後、はぁと泥のように重く深い溜息を吐いた笠松とは対照的に、黄瀬は絶句した。
一体どうしてそんなことをしたのか、と自分に問いかけるも、記憶がないのだから答えようもない。いや、確かに笠松の眼はとても綺麗だと思う。それが甘く溶けていく様も好きだ。けれども舐める食べるの発想はおかしいだろう。飴玉みたいにころころしている云々の発想に至ってはDHAたっぷりのマグロの目玉じゃあるまいし、まともな意識状態の人間が言う台詞ではない。
あの笠松の態度や言葉はもっともだったのだ、ということだけは痛切に実感した。
「……何かもう……スミマセン……」
再び体育座りになり、膝に顔を埋めてしまう。今なら紐なしバンジージャンプに挑戦できると思った。むしろ志願したいくらいだ。いきなり恋人がそんなことを言ってきたら誰だって怖がるに決まっている。それが、たとえばまだ指なら愛撫の行為に収まるかもしれない。足フェチ、指フェチ、その辺りなら黄瀬も知人にいる。だが、眼を舐める、食べるの発言はどう考えても二三歩引きたくなる類の言葉で、行為だった。眼球フェチなど最早猟奇の世界だ。
しかも言うだけではない、実際自分は行動にまで移しているのだ。起きたときのあの状態を思い出すに、強引に笠松に迫り、彼の眼の周囲を舐め回していたのだろう。そしてそのまま再び眠ってしまったのだ。――これは、笠松でなくても誰でも引く。
縮こまる黄瀬の頭をふわふわ撫でながら、笠松は何だ、あれ寝呆けてたのかと重ねて聞いてくる。それに黄瀬は首を僅かに横に振った。
「……オレ、そんな寝呆けても、ここまで完全に記憶失うってことは今までになかったっス」
「まぁ、お前寝起き悪い方だけど、確かに寝呆けるってのはあんまりなかったもんな。さっきのアレ……何つうんだ、酔っ払ってるみたいな感じだったし……疲れが一周回ってハイになってたのかもしんねぇな」
お前、だから自分でも気付かないくらいに疲れが溜まってたんだよ。そう言ってくれる声は優しく、こんな声を出させるくらいに心配させてしまったことに、再び眼の奥が熱くなり、つんと咽喉が痛んだ。自分の情けなさと、恥ずかしさと、笠松の優しさに泣きそうになって、眼を強く膝で押し込んだ。
笠松なら、この体たらくに対してもっと荒々しい声で黄瀬を叱り飛ばして、かつ体調管理を怠るなと頭を叩くくらいのことをするだろうと思っていた。たとえそうされても、根っこの部分では自身を案じてのことだと黄瀬も知っているから、甘んじて受けるどころか自ら進んで鉄拳制裁を貰いに行っただろう。――この恋人は、不器用ながらも本当に自分のことを好いていてくれるから、それを解っているから。
「――……ごめんなさい、本当ごめんなさい、笠松センパイ。折角、わざわざウチまで来てくれたのに、待たせて、変なことして、こんな、」
「まぁ、過ぎたことはしょうがねぇだろ」
「――……っ」
遮られなければ際限なく続いただろう懺悔の言葉の続きを、黄瀬は無理矢理飲み込んだ。嚥下したそれはとても苦く感じられて、しかし吐き出すことも叶わず、しゃっくりのときのように躰が大きく揺れてしまう。その様子に対してだろう、微かな苦笑の後、笠松は一つ一つの言葉を丁寧に音にしながら、ゆっくりと続けた。
「今日はゆっくりもう休めよ。――また、予定空いて、体調万全な日に、な? 埋め合わせしてくれりゃいい」
ぽすんと頭を腕の中に抱かれ、そのまま背中に回された手に、まるで子どもをあやすようにぽんぽんと労わりを持って叩かれる。人肌は優しくて、触れる指も、包むにおいも、届く声も、掛けられた言葉も、きっと眼だってとても優しくて、それだけで心の何処かでほっと安堵してしまっている自分がいた。大丈夫、ちゃんとまだ、好かれている。
まるで、どころか自分は唯の図体のでかい子どもで、優しくされればされるだけ、黄瀬は涙を堪えるのに必死だった。