黒子のバスケ

ネオテニーT

近付いてきた黄瀬は、焦点が結ばれていない、どこか胡乱な眼をしていた。



いつも大きくなったり細くなったり、いろいろと忙しい蜜の色をした眼。しかしその中心の黒の部分にきゅっと凝縮されているのは間違いなく、人の心を眼だけで奪えるくらいの乱暴な力で、周囲を囲う蜜が甘く溶ければ溶けるだけ、黒の色は際立った。そういうときの黒を見るのが好きで、甘く揺れる蜜の中心をじぃと見つめていると、そんなに見られると恥ずかしいんスけど。はにかむ年下の男を、笠松は周囲が思うよりずっと好いていた。
その男の仕事もなく、躰をしっかり休めるようにと言われて部活もなく、つまりは丸一日予定が空いている日、家に来ませんか、とおずおずと提案された。まるでお伺いを立てる犬のようで、くるり濡れた一途な眼に呆気なく絆された。
『まぁ、いいけど』
そして今日、一人暮らし中の黄瀬の家にやってきたはいいものの、インターフォンを押しても返事がなく、携帯に電話をかけても留守番電話になり、玄関前で立ち往生した。
このまま帰ろうかとも思ったが、そうすれば後で黄瀬が立ち直るのに時間がかかることを経験上知っていた。短い溜息とともに、気が進まなかったが以前渡されていた合い鍵を財布から取り出す。お邪魔します、と返されることがないのを知りつつ口にして、部屋の中に足を踏み入れた笠松が眼にしたのは、ベッドの上で泥のように眠る黄瀬の姿だった。
人との約束すっぽかして何してんだ、と思ったのはその瞬間だけ、次に零したのは仕方がねぇなと言う苦笑だった。自分と違い、黄瀬は部活の休息日にもよく仕事が入っていて、躰も神経も休める暇が極端に少ない。だからこそ今日のような日にゆっくり休むべきで、それはまさに眼前の黄瀬の状態だった。これが望ましい、黄瀬の今日のあり方だ。
それなのに、この男は自分に家に来て欲しいなどと口にした。少しでも一緒にいたいのだと、控え目に、しかし強くその眼で訴えてきた。どれくらいすれば眼が覚めるのかは解らなかったが、暫くはいてやろう。この事態を予測していなかったわけでもなく、バッグから出した課題一式をベッドの脇のローテーブルに広げ、黙々と解き始めたのだった。





「――どうした、寝惚けてんのか?」
一時間ほど後、ごそりと身じろぐ音に顔を上げれば、ぼんやりとした顔で黄瀬が上体を起こしていた。ゆるりこちらに向けられた顔には何の表情もなく、こいつのこういう顔を見るのは初めてだな。新鮮な驚きを持って笠松は黄瀬の様子を見守った。生まれたての動物とかこんな感じかな、とちょっとした好奇心も手伝って、まじまじと黄瀬の動向を観察する。
暫く言葉を忘れたかのように無言でいた黄瀬が、少ししてかさまつ、せんぱい。それだけを口にした。笠松センパイ。無垢な声と眼で繰り返された自分の名が妙に耳を擽る。
まるで図体のでかい子どもだな、微笑ましくなって側に寄ろうと笠松が腰を上げるより先に、黄瀬が動いた。のそりとベッドから降り、近付いてきて――やはりその姿は寝惚けた子どもそのままだった――そして、ぎゅうと抱き付かれた。お気に入りのぬいぐるみを力任せに抱く子どものように、ぎゅうぎゅうと腕の中に笠松を抱き込もうとする黄瀬の胸からどうにかこうにか顔だけ上げ、間近に黄瀬を見た。
「――黄瀬?」
普段明瞭な輪郭を持つ黒の瞳、その境界が蜜の部分と滲んで混ざり、ぼやけている様を、互いの鼻の頭が触れる距離で改めて確認し、どうしたんだ。伸ばした指で、しゃらりと流れる触り心地のよい髪を梳いた。左の耳を隠す髪を掬って後ろにかけてやれば、リングピアスの鮮やかな青が視界の隅に映った。光の色の髪と、空の色のリングピアスの対比はとても映えて、視線が僅かにそちらに寄った、そのとき、――駄目だよ。黄瀬のやたら甘ったるい声がした。駄目だよ、ちゃんと、見てくれなきゃだめ。甘ったるく甘えてくる、柔らかな舌は笠松を責めた。
「オレだけ、見て」
今この状況で笠松が見ているもの、もとい見ることができるものは眼の前の彼だけだというのに、黄瀬は駄々をこねるように笠松の顔を両手で挟み込んで固定してしまった。
これでもうオレだけだ。ふふっと笑む顔は嬉しいよりも満足したようなそれで、これで、オレだけ。繰り返された言葉に、お前どうしたんだ。流石に不安になって問うが、どうもしないよ? ことり小首を傾げた男は、そのままちゅっと音を立てて笠松の目尻にキスを一つ落とし、それから。
「――っ」
緩く開いた口から覗く赤を眼の前に、咄嗟に閉じた瞼の上をべろり。生温く、僅かにざらりとしたものが触れた。右の瞼が薄暗い。眼を、舐めようとした。その事実に、黄瀬、と上げた抗議の声は、唇に当てられた人差し指一本で封じられる。つぃと上唇をなぞる指先は、その柔らかさを確かめるように、時折いたずらに内側に浅く侵入してきた。
「……き、」
この指を、笠松はより深い部分で感じたことがある。躰の奥に埋め込まれたこの指に遊ばれ、惑わされたことがある。だけど、こんなに浅く軽く触れるだけの指にも何も言えなくなることを、笠松は初めて知った。
「き、せ」
気ままな指先に翻弄されながらも、その二音だけをどうにかして紡ぐ。ぎゅうと閉じたままの瞼の上を、未だに舌は這っている。センパイは、甘い。薄い皮膚に染み込んでくる言葉こそがまるで蜜のようで、熱かった。瞼の下、守るように隠した眼をも溶かされてしまいそうだった。
怖かった。眼を、狙われた。それをまともに意識すると同時に、動物の本能のままに笠松は黄瀬の胸元をがむしゃらに押して離れようとした。こんなの、いつもの黄瀬じゃない。だがそれは逆効果で、一層強い力で距離を詰められた。普段黄瀬から感じることのない乱暴さに、頭が混乱する。
頬に添えられていた方の手で腰を強く抱かれ、胸と胸とを突き合わし、そのまま笠松の上半身はベッドの側面に押し付けられた。両足の間に躰を割り込ませ、唇に遊ばせていた手を滑らせて頭の後ろを取った黄瀬は、これで大丈夫。何が大丈夫なのかを笠松に解らせないまま、再び顔を寄せて瞼に口付けた。右と左、交互に触れられる。
何で、こんなに甘いんだろう。合間に囁かれる言葉、熱く濡れた舌は、飽きることなく薄い皮膚をめくるように下から上へ動く。閉じた眼にも動く影は解り、瞼の裏にじんわり熱が溜まっていくのも解っていた。
「センパイ」
黄瀬は今、どんな表情で自分の瞼を弄っているのだろう。気にならないはずがなかったが、それを見るには眼を開けなければならない。それだけはできない。固く閉じられた瞼を抉じ開けようとする舌は、弱く、強く、緩急を付けて器用に動いた。それ自体が一つの意志を有した生き物のようで、存外巧みなその動きにつられてひくり瞼が痙攣する。ひくひく震える瞼を、次の瞬間、唇で食まれた。
「――っあ」
指で摘むよりずっと優しく、柔く、食まれた刹那、頭の天辺から腰にかけて一直線に感電した。ぞくり、背骨の真ん中を駆け抜けたものに咽喉の奥が痺れ、笠松は息を止めた。一番上の皮膚だけを走った漣のような震えは、ぐるりと巡って腰に溜まり、もう動けなかった。
笠松が漏らした声に、ふふと笑う吐息がこめかみに触れた。センパイ、可愛い。気を良くしたのか、黄瀬は腹全体でべろり、犬のように左右の瞼を舐め続けているかと思えば、少し固くした先端を瞼の合わせ目に差し込んでくる。
眼球をじかに舐められるのだけは避けようと目許に力を込めただけなのに、全身が緊張した。ぐっと爪先まで筋肉が収縮する。躰全体がこの状況に何とか対応しようとしていた。それなのに、笠松は心の部分でどうすることもできなかった。
舌の動きに敏感に笠松の反応する様が面白いのか、黄瀬は腰と首の後ろに添えた、笠松の躰を知り尽くした指はけして動かそうとはしなかった。その気になればあっという間に笠松を溺れさせることができるのに、そうしようとはしなかった。唯只管に、柔らかく、熱く濡れた舌で、笠松の眼だけを弄った。
「……ねぇ、眼、開けてよ」
笠松さんの眼も、きっと甘い。だって、あんなに真っ黒で綺麗だから。舌足らずな口調で囁くように紡がれる言葉、その意味は全く解らなかった。真っ黒で綺麗、それはお前の眼だろうに。蜜の海に浮かぶ黒を、弄られ続ける瞼の裏に思い浮かべた。
センパイの眼、見せて。ふわふわ繰り返される言葉に、漸く一言、なん、で、とだけ返す。途切れ途切れの自分の言葉も、黄瀬とさして変わらないくらいに一杯一杯だった。
だって不純物なんて全然ない、真っ黒な眼だから、ね、だから見せて。きせ。かさまつさん、ねぇ。
「オレだけに、見せて?」
そしたら、オレが全部舐めて、食べてあげる。
黄瀬のその声は、起きてからもうずっとふわふわした舌足らずなそれだった。だけど、その眼はもうきっと正気に戻っている。あの蜜の中心にぽっかり空いた黒で自分を見ている。けして動こうとしなかった指先に込められた確かな意志に、もう確信している。――だから、せめてそれだけでもこの眼で確かめてやろう。
笠松はゆっくりと眼を開けた。


(20100704)