グリーナイズ・モンスタ
「センパイ、好きっス」
単刀直入に告げた一言に返されたのも、一言だった。
「何が」
インターハイ予選の第一戦を翌週に控えた放課後の部活動の真っ最中、コートの真ん真ん中での海常高校一番の色男の告白は、告白と認識されなかった。
それもそのはずで、黄瀬の告白は日常茶飯事になっていた。その証拠に、センパイ、の最初のセの一語の時点では、部員の誰もがまるで統制されたかのように無視を決め込んでいた。また始まったよ、という若干の疲れと生温い視線を少しでも見せようものなら、直後笠松の投げたボールの餌食になることを既に嫌というほど知っていた。
だが、今日は少しばかり事情が違った。笠松が黄瀬の言葉に返したことに対して、最初にあれと何人かが違和感を覚えた。
笠松は流れる汗を服の裾で乱暴に拭い、「お前が好きっつうと、あれか、ダンクかペットボトルのお高い水か、女子の黄色い悲鳴か?」 他の部員に指導の声を張り上げたその後に、およそ見当違いの言葉を継いだ。好きだと告げた瞬間には確かに黄瀬を見ていた、黒の大きな眼は既にコートへと向けられている。黄瀬よりも頭半分は小さいために、自然見下ろす形になった後頭部からは、もう彼のことを欠片も気に留めていないのが容易に知れた。
「――何で、そうなるんスか!?」
誰がいつ好きなシュートや飲み物の話をしたのか。というか、いつもいつも呆れられても尚、自分は笠松のことを好きだと言い続けてきた。たとえその後に罵声と暴力の嵐に晒されても、黄瀬の暴走を止めるものではなかった。いつだってアクセルは全開で、ブレーキなどあって無きが如しだった。黄瀬という暴走車は、たとえ火の中だろうが水の中だろうが、その先に笠松がいるのならば最短距離を直進するだけだった。
だから、笠松が暴力無しに返してくれたとき、一瞬呆けた。笠松センパイがまさか応えてくれるなんて、とその事実だけに感激しそうになり、数拍遅れて思考が内容に到った。そうして、叫んだ。まさかの内容に、黄瀬は悲鳴に近い声を体育館に響かせた。
これには何ごとかと部員達の視線が一気に二人へと集中し、ボールの弾む音も掛け声もふっと消える。注目を浴びた一人である笠松は、しかし直ぐさま「呆けてる暇があったら一秒でも多く練習しろ!」と部員を叱咤し、その一言だけでいつも通りの海常バスケ部の形に戻った。戻れていないのは、黄瀬だけだった。
思い立ったが吉日、即行動を掲げている身ではあったが、それでも連日の告白の結果として予想していた事態は幾つかあった。一、ふざけるなと怒られ、殴られるか蹴られるか。これは既に実証済みである。二、気色悪そうな眼で見られるか。気色悪いというか、最近ではげんなりとした顔になりつつある。三、はたまた気まずそうになかったことにされるか。
最後の予想が先の笠松の反応に一番近かったと言えば近かった。しかし、気まずさの欠片もない笠松の様子に、もしかして本当に自分の告白の真意を解っていないのではと黄瀬は瞬時に自身の理解を修正した。だから、更に言葉を継ごうとした。自分が好きなのは、笠松なのだ、と。
「オレが好きなのは」
「――あぁ、悪ぃ。後、あの透明少年を忘れてたな」
で、それは今この部活の時間に改めて言うことなのか、と地を這うような低い声で振り返った笠松は、しかめ面がの割合が多いとはいえ普段は表情豊かなその顔に、真っ白な能面を被ったかのようだった。顔がある、なのに表情がない。感情がない。
言葉を遮られ、息を呑んだ黄瀬が再び口を開くよりも早く、笠松の声は黄瀬の躰の隅々にまで徹る。
「今は、部活の時間だ。練習する気がないなら、他の部員の士気にも関わる。主将命令だ、さっさと帰れ」
全くもって先輩としての――主将としての態度で、笠松は黄瀬を切って捨てた。真正面から向かい合えば、自分を見る眼が冷え冷えとしていることに気付かないはずがなかった。いつもの、迷いない意志の強さをそのまま反映した濁りのない黒の眼が、まるで石のように硬化していた。光を返さない黒、その眼が、自分を映しているかどうかも黄瀬には判別が付かなかった。
「……センパ、イ?」
冷えた黒に言葉も思考も飲み込まれてしまい、そうなれば黄瀬にはもう何もできなかった。――一体自分は、笠松の逆鱗にいつ触れたというのだろう? 昨日の部活終わり、一緒に帰ったときはいつも通りだった。黄瀬の告白の後には呆れながらの肩パンというワンセットを滞りなく済ませ、クラスの出来事や中学時代の部活のことを話して帰った。昨日と今日の隔たりの深さに、棒を飲まされたように立ち尽くす黄瀬に一瞥をくれると、笠松は再度、帰れ。短く言い放った。それは棘よりも尚鋭く、重く、まるで槍のように黄瀬を貫いた。
「邪魔だ、かえ――……」
「――幸」
笠松の容赦のない言葉を遮ったのは、八番を背負う小堀だった。いつの間にか笠松の背後に立っていた彼は、ぽんぽんと笠松のいかった肩を軽く叩いた。
昨年の笠松の悔恨を知っている小堀には、今の笠松の気が立っていることは容易に想像がついて、だからこそ今の今まで見守る姿勢を維持していた。だが、流石に今の黄瀬への態度は眼に余った。小堀は笠松の背中を軽く叩くと、強張った顔の後輩にちらりと視線を走らせる。いつもは爛漫な犬のように明るい表情ばかり見せる黄瀬だったが、その顔から若干血の気が引いているようにも思えた。今の笠松の言葉が相当堪えているらしい。小堀は小さく嘆息した。
「無駄な力抜けよ、幸。張ってるぞ?」
「……小堀」
黄瀬と同じくらい身長のある小堀を振り仰いだその顔に、一瞬浮かんだのははっと我に返ったような表情で、直後ばつが悪そうに視線を横に逃がしたのを黄瀬は見逃さなかった。
先輩、主将、黄瀬に対峙するときの笠松の諸々の立場の顔ではなく、三年間共に過ごしたチームメイトであり、同級生であり、友人である小堀に向けられたその顔は、どこか幼さを感じさせ、それはけして黄瀬には向けられない顔だった。強いて言うならば、甘えを感じさせるような、心を許している相手に向ける表情。
「――……」
その場に自分を縫い付けていた鋼の視線が緩み、外れたと同時に、四肢の硬直も解けた。だが、その代わりに黄瀬の心を黒いものが覆った。ぐる、と胃の底で動いたものが、あまり良くないものだということに直ぐに気付けるくらいには、黄瀬はもう自分の感情を知っていた。
「そーそー、一体全体どうしたんだよ笠松、らしくない」
その小堀の背に隠れていたのか、ひょっこりと肩越しに顔だけ覗かせたのは森山だった。「言葉よりも手を出すのが笠まっつぁんだろうに」
「……何だその呼び方はよ」
そもそもオレは普段そこまで手は出してねぇ、と苦虫を二三匹噛み潰した顔で口をとがらせた笠松に、確かに手よりも足が出るもんな、お前。森山は全く意に介していない調子で飄々と返した。こちらも手馴れたやり取りで、主将と副主将という間柄も手伝って小堀に対するそれよりも一層気軽さが見て取れた。
「まぁ兎に角、ちょっと二人で外周行ってきたら? クールダウンも兼ねて」
「まだクールダウンって時間じゃ……」
「いーから行ってきなさい。副主将命令」
笠松の反論を許さずに、びしぃと人差し指を真っ直ぐ体育館入り口に向け、レットユーゴーと何とも適当な発音で口にした森山に苦笑しながら、まぁ俺もちょっと一呼吸置いた方がいいと思うぞ。小堀は笠松に声を掛けた。
「幸、インハイを前にして気合い入ってるのはいいけど、気合いって押し付けるもんでもないだろ? エースとして黄瀬に期待してるのは解るし、俺らだって同じだけど、……今のは、何だか一方的過ぎだった」
やり取りの内容ではなく、黄瀬への態度そのものを穏やかな口調でやんわりと窘められ、おそらくは無意識、条件反射だろう、きゅっと笠松の眉間に刻まれた皺は、しかして直ぐに均された。何を言おうとしたのか、僅かに開かれた唇は、そのまま言葉を閉じ込めるようにきゅっと真一文字に引き結ばれる。笠松は俯き加減に小さく息を吐き、軽く左右に頭を振ると、がっと顔を上げた勢いのままに黄瀬の名を呼んだ。
「悪かったな、黄瀬。……外周は俺一人で行ってくる。お前は練習続けてろ」
その眼にはいつもの光が戻っていて、笠松は確かに自分を見てくれている。黄瀬はそう思った。今の笠松は、間違いなく普段通りの先輩らしい先輩で、主将らしい主将だった。自分の非を素直に受け入れ、謝ることのできる、曲がったところのない良くできた人間だった。
腹が立った。
「何スか、それ」
ぐっと抑えたはずの怒気は、それでも声に漏れてしまった。胸にびきびきと皹が幾筋も走って、そこから怒りやら悔しさが漏れて零れているかのようだった。笠松に出会ってから――海常高校に来てから、それまでになかった様々な感情を注がれてきたその部分は、割合頑丈だと黄瀬自身は思っていた。だが、そうでもなかったらしい。こんなに呆気なく、容易く皹が入ってしまうものだとは知らなかった。
眼の前の笠松だけではない、小堀や森山も黄瀬の声音の変化に気付いた。黄瀬? と森山に呼ばれたが、黄瀬はそれには答えずにぎり、と笠松唯一人を睨んだ。
「――んだよ、その眼は」
怯むことなくその眼を受け止めた笠松は、黄瀬の次の言葉を待つことを選んだようだった。大方八つ当たりに近いことをされて怒っているのだ、と思っているのだろう。黄瀬はそう判断した。笠松も、森山や小堀も――いや、笠松だけは、恐らく黄瀬が全く別のことに怒りを覚えていることに気付いていた。でなければ、あんな風な言葉を返してくるはずがない。
無言で睨み返してきた笠松の眼に、少しだけ、ほんの少しだけ笠松幸男という人自身の生の感情を見つけて、一気に吹っ切れた。能面を剥がした部分、未だ眼の部分だけではあったが、そこだけでも剥がれれば十分だった。もっとこういう顔を、見たい。笠松センパイ、と呼ぶと、何だよ、剣呑さを隠そうともしない声が返ってきた。
いきなりの一触即発、不穏な成り行きに、幸、と小堀が小さく窘める。主将である笠松が、平素部活に関しては私情を極力抑えるよう努めていることを知っていた。端から見れば唯の暴君のように思えるかもしれないが、内から見ればこれ以上ないくらいに主将としての立場を守っている男だった。その男が、どうにもおかしい。黄瀬に対しての過剰な態度も、今のこの状況も、おかしい。そう思って、声を掛けた。それだけだった。
だが、それが黄瀬のブレーキを完全に壊した。使わないだけで残っていた、そういう無用の長物を跡形もなく、黄瀬は自分自身で壊した。残っているのはもう、アクセルしかない。
すぅと腹の底まで息を吸い込んで、止める。――センパイ。
「いつもいつもいっつも言ってますけどオレが好きなのは笠松センパイです好きです大好きです笠松センパイっていうわけで付き合って下さい!!!!」
一息で言い切るべく吸い込んだ空気は若干多めだった。多めだった分腹の底から躰全体を震わせて発した声は体育館どころか、おそらくは外にまで筒抜けだっただろう。黄瀬がこんな大声を出したのは初めてで、部員達は一瞬誰の声かと声の主を探したほどだった。内容を考えれば、それは黄瀬以外の誰でもなかったのだが、その冷静な判断ができなくなる程度には、黄瀬の張り上げた声は皆の思考を一時停止させた。一時停止の後、あぁ何だ黄瀬かと動きを取り戻しかけて、再び停止する。
(――付き合って?)
部員は知っている。黄瀬が連日、それこそ第三者であるにも関わらず、耳にタコができるくらいに笠松に好きだと言っていることを、確かに知っていた。
だが、どこかで皆こうも思っていた。それは所謂「先輩後輩」の仲としての「好き」なのだろうと。キセキの世代の一人として、帝光中時代には望むべくもなかったその関係性に憧れを抱いているのだろう、と、そう信じ切っていた。笠松という男は、まさしく先輩らしい先輩で、懐くのは当然だと。――それが、今の黄瀬の発言で完全に覆された。
付き合って、というのは、つまりは恋愛感情の好きだった、ということを意味する。
部員、というよりも、体育館という場が硬直した。ボールすら静止している、物音一つなく、その空間はさながら時間が止まったかのような状況だった。
――唯、一人を除いて。
「――黄瀬、てめぇ……」
こめかみに浮いた青筋は一つどころの話ではなかった。腕、拳、びきびきと音を立てて笠松の全身が硬くなっていく。黄瀬はそれに真っ向から対峙した。
黒の眼の奥に、先まではなかった火種が煌々と燃えているのを見つける。熱視線は黄瀬の眼の奥の奥まで焼き切らんばかりで、そうだ、笠松はこういう眼をする人だった、と黄瀬は舌なめずりしたくなった。あんな冷え冷えした眼は、笠松に似合わない。試合の前のように気分が昂揚してきた。
笠松の纏う雰囲気の変化に、あ、切れる。森山と小堀は以心伝心でそう思った。二人がさっと耳を塞ぎ一歩分距離をとったのと、笠松の怒声が体育館を震わせたのは同時だった。
「マジぶっ飛ばす何が好きだ付き合ってだ本当いい加減にしろよ何様だテメェちゃんと毎回ストーカーばりに部室に居残るテメェと帰ってんだろメールだって返信必要そうなのにはちゃんと返してんだろそれが何だ昨日テメェ何を間違って帰りに黒子黒子女の子黒子に火神に黒子に新発売のミネラルウォーターとか知るかこのボケ何でそんな話を延々二人で帰ってるときに聞かされなきゃなんねぇんだよ黄瀬お前今すぐ天然水で溺れ死ねもしくはアマゾネスに殺されろ!!!!!」
びりびり、と窓ガラスが身を震わせたのは気の所為ではない。先程の黄瀬の大音量での告白の方がまだ可愛げがあった。耳を塞ぐのが間に合わなかった面々は、ぎゅっと耳を覆って尚耳の中で反響する声に耐えるしかなかった。笠松がなまじ声量があり、かつ骨に響く声質だったものだから、頭が痛くなった者が体育館内の大多数を占めた。内容に頭が痛くなったのは、この時点ではまだ誰もいなかった。
「……センパイ?」
笠松の火を噴くような咆哮に、咄嗟に耳を塞いだ黄瀬だったが、その内容はきちんと聞き取っていた。顔を真っ赤にし、肩で息をする笠松をじぃと見つめる眼は最初は真ん丸く、徐々に蕩けるように細められていった。もしかして、この人。胸の裡を満たしていくものが、今度は漏れるのではなく、溢れていく。満ちて、溢れて、零れて、自分でも顔が緩むのが解った。
この状況にそぐわない、蜜のように甘く溶けていく黄瀬の顔を見て、漸く三年レギュラーの二人が冷静に笠松の言ったことを思い返し、吟味し――呆れた。一歩飛び退いた分離れた距離から、笠松、お前、とその背中に口を開きかけたのは森山だったが、それよりも早く、その一言を黄瀬は口にしてしまった。
「嫉妬、っスか?」
あ、言っちゃった。
森山の呟きは本当に小さく、先の笠松の声に比べれば蚊の鳴くようなそれだった。しかし、響いた。兎に角響いた。
斜迎の部屋の中で一円玉が落ちる音が聞こえるくらい静かって言うのは、こういうのを指すんだろうかと小堀は若干現実逃避に走りかけ、横を見れば森山は面白いものを手に入れたかのようににやにやと細い眼を更に細くし、更に向こうに視線を飛ばせば、リバウンドの練習をしていたらしい早川が固まったままだった。何を考えているのかさっぱり解らなかった。
――そして、敢えて外していた笠松に視線を戻す。どういう顔をしているのか、皆目見当も付かなかった。付けようとも思っていなかった。だがそのときの笠松は、三年間共に過ごしてきた自分でも見たことのない表情をしていた。
「――な、にを」
黄瀬の言ったことを理解していないかのように、躰を硬直させてまるで石像のようになった笠松に、追い討ちのように黄瀬はふんわりと笑った。子どものように邪気のない、羽根に包まれたような微笑に、笠松が眼を見開く。体育館内に響く大声量で告白をやらかした人間とは思えないその優しい表情に、流石モデル、と硬直が解きかけていた部員達は場違いに思った。おそらくそれは、逃避行動だった。
「センパイ、オレのこと、好きでしょう?」
あ、言っちゃった。
再びの森山の声は、今度は確信を持って呟かれたそれだった。にやにやにまにまにたにた、腹に一物を抱えた人間の笑みを形容するための擬音を掻き集めても、今の森山の笑みを表現するには足りなかった。まるでどころか石像になった笠松の背中を見るのも、その笑顔で落とせない人間はいないだろうと思えてしまうほどの満面の笑みを見せる黄瀬を見るのも、毒林檎を白雪姫に渡す前の魔女ばりの笑みを見せる森山を見るのも居た堪れなくて、小堀はそうと耳を塞いだ。今の彼にできることはそれくらいだった。
幸、幸せに、なれるかな? なれよ、と言い切っても良かったが、そこは敢えて疑問形を維持した。笠松の今日の態度は、私情を抑えようとして抑え過ぎた結果なのだと、今更ながらに結論付ける。公私をきっちり区別しようとした結果、一周回って公私混同になってしまったのも、笠松とて一高校生、青春只中の少年なのだと考えれば致し方ない。父親のような心境で、小堀は静かに、これから予測されるだろう私情全開の暴力の嵐の巻き添えを食らわないために、更に笠松から距離を取った。横を見れば、森山も張り付かせた笑みをそのままに、自分よりも遠くに逃げていた。
――ゆらり、硬直していた石像、基、笠松の躰が大きく揺れ、腕が大きく振り上げられたのを小堀は眼を閉じる寸前、確かに見た。
「っざけんなあぁぁああああああっっ」
熟れた果実ばりに真っ赤な顔をした笠松の、説得力の欠片もない、本日二度目の咆哮が体育館に響いた。
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