黒子のバスケ

テイク・ナンセンス

自分が後二年早く生まれていたら、と考えることの無意味さを、黄瀬はとっくのとうに知っていた。より正確に言えば、知らされた。それは彼が同級生の肩を気安げに抱いているときだとか、勉強で解らない部分について質問しているときだとか、後輩である自分にはけして取らないだろう態度でいるときを見たとき。
彼は部活動に置いても学校生活に置いても、兎に角長幼の序を重視する人だったから、後輩に対して一線を画した態度でいるのは当然といえば当然だった。それがバスケットボールの世界では「キセキの世代」の一員として広く知られているだろう黄瀬であっても、例外ではなかった。強豪の主将に恥じない態度と実力で、彼は黄瀬を始め部員達をしごき、まとめていた。
凛とした、という言葉がこれほどまでに似合う存在に黄瀬は初めて出会った。彼が背負うものの重さを想像するのは容易かった。インターハイ常連校の主将である、ということだけでも、それに付随する様々な期待や重圧は並大抵のものではないだろう。
けれども背筋をぴんと真っ直ぐ立たせて、射抜くような強い視線で、他人だけでなく自分に対しても誤魔化しや半端をけして許さない彼の姿を、黄瀬はバスケットの実力とは無関係に好ましいと思った。尊敬できる、っていうのはこういう人のことを言うんだろうな、と思うくらいには、彼を見ていた。裏を返せば、その時点で黄瀬は先輩らしい先輩としての彼しか知らなかった、ということだった。
だから、初めてそれを――先輩らしくない彼を目の当たりにしたときはどうしようもなく胸がむかついて、オレにはあんな風な態度を絶対にしないのに。胸どころか胃の底の辺りでぐるぐる鳴る、妙に粘ついた感情を持て余し、その全ては主に部活で発散した。そういうときのプレーは自覚できるくらいには雑になった。ゴールリングに叩き付けたボールはそのままコートに突き刺さり、大きくバウンドして遠くに逃げる。その繰り返し。
自分でもそう思ったのだから、彼のその大きな、コートと試合の隅の隅までを見渡せる眼には、更に雑に見えたに違いない。実際、ボール捌きが雑だ、運び方が独りよがりだ、試合が見えていない。ことごとく駄目出しをされ、同時に、肩、背中、ときには商売道具の顔にまで容赦なく拳もしくは足が飛んできた。
「もっと、周りを見ろ」
そう諭すように自分を真っ直ぐ見る二歳上の男に抱いている感情が、世間一般で言う恋というものだと気付いたのは、つい先日だった。
いつ芽生えたのか――いつ変化したのかも解らなかった自身の感情に、しかし、あぁそういや何でオレ、女の子で発散しなかったんだろう。以前だったら何の躊躇いもなく選んでいただろう昇華の方法を取らなかったことに、黄瀬はそのとき初めて気付いた。
自然と避けていたその方法は、件の彼が嫌悪する類のものであることは容易に想像がついた。遊んでいるわけではない、けれども、本気というわけでもない。その曖昧さで誰かと関係を持つことを、彼は酷く厭うだろう。そこに躰が入れば尚更、当然というべきか、潔癖というべきか、黄瀬が思う彼は真摯さをもって相手に接するべきだと言うに違いない。
そこまで明確に言葉にして考えて、改めてオレってセンパイのこと結構前から好きだったのかもしれないっスね。自身の無意識の思考をなぞって、一つ結論を出す。そうだ、もうずっと前から好きだった。だからこそ、心底嫌われるような行動だけは避けていた。だからこそ、あんなにも胸がむかついて、自分に彼の先輩としての笑顔しか向けられないことに苛立った。
笠松への恋情に気付いた以降の黄瀬の行動は、しかし何も変わらなかった。いつも通りにセンパイと呼びかけて、少しばかりの羽目を外して、どつかれて、練習に集中していく。――その流れを変えられなかった、と言った方が正しかった。今の笠松は、唯只管インターハイに向けてチームと自身を仕上げている真っ最中だった。
「誰もが常に百パーセントの状態で試合に臨めるわけじゃねぇ。だからこそ、チームとして考えなきゃいけねぇ部分が大事なんだ」
百パーセントだろうと十パーセントだろうと関係なく、個人の卓越した能力を寄せ集めて、そこに協力だとか連携だとかはなかった――チームとして成り立っていなかったチームの考え方・在り方、そういったものに染まっていた黄瀬に対して、笠松はことあるごとに口にした。その笠松の考え方を入部当初鼻で笑っていた黄瀬は、だが、元チームメイトがいるチームに惜敗した後から少しずつ、本当に少しずつ笠松の言葉を考えるようになった。
百パーセントの力でいつでも試合に臨めるか、と問われたら、あの試合の前ならば当然のように頷いていただろう。そして心の中でこっそりと舌を出す。百パーセントの力など出さなくても勝てる、と。黄瀬がかつていたチームは個々は勿論、チームとしてでさえ、百パーセントだろうが十パーセントだろうが関係なかった。各々が一試合のノルマをこなし、かつ勝てばそれで良かった。勝つのが当然だった。それが絶対だった。
しかし笠松は、試合に臨む上で個々が百パーセントであるのが理想、しかし、そうでない場合にもチームとして百パーセントであるのが理想であり、かつ当然だと言う。最終的にその状態にまでチームを仕上げるのが主将の仕事だと、勝気な黒の眼で黄瀬を見て言う。チームとしても、時には個人としても、百パーセント以上の力を試合の最中に発揮することもできるのだと、何の衒いもなく真っ直ぐ言う。
少しずつ積み重ねられていたその言葉、その重さに気付けるようになった自分に、あぁもうオレは帝光バスケ部じゃないんだ、と微かな寂しさが胸を過ぎったのも事実。けれどもそれ以上に、海常というチームの一員であるという確かな実感、手応えに、今までに感じたことのない昂揚を覚えたのも事実だった。
だから、今は何も言わない。黄瀬は自分自身に言い切る。靴越し、足の裏に感じる土は、足に返る余分な衝撃を逃がしてくれると同時に前への跳ね返りもない。その分、余計に躰の軸を意識して走る。軸がぶれていると、この状態の足ならば簡単に縺れて転倒するのがオチだった。
走り始めてから一時間程度経過しただろうか、額の汗が幾筋も頬を伝って落ちていく。今日は割合涼しい気候だったが、それでも黄瀬の躰は内側に熱をじわりと溜めていた。足の筋肉の筋一本一本が熱で膨張し、気を抜くと同時に力も抜けてしまいそうになった。
頃合を計って速度を落とし、腹での呼吸を意識し、徐々に躰を通常時にまで戻していく。酸素を腹から爪先まで行き届かせるように吸い込み、溜め、そして余分な熱を吐き出すように二酸化炭素を吐き出す。躰の隅まで意識を巡らせ続けると、ふっと意識していることを忘れる瞬間が訪れる。自分が走っているはずなのに、誰が走っているのか判らなくなるときがある。意識と躰の境が融けたとき、その瞬間を一つの目安にして、今度はストレッチに入る。
今年の夏は、笠松にとっては高校最後の夏。そして自分にとっては笠松と共に臨める最初で最後の夏。――どうしても考えずに居られない無意味な事実を、後二年早く生まれていたら、を考えそうになっても、直ぐに頭から追い払う。追い払って、隙間を埋めるように自分が何をすべきかを考える。軽く伸ばした足の筋肉、運動の後のストレッチを入念に行う。これで怪我でもしようものなら、本末転倒だということくらい黄瀬にも解っていた。
今は唯、只管に自身を鍛えていく。試合に常に百パーセントで臨めるように、黙々と自分に何が足りないのかを考え、それを補うべく練習を増やし、走り込む。百パーセント、それ以上の力でも、試合に臨めるように。
今の黄瀬にできる最善は唯一つ、チームが勝つために自身を最高の状態にまで仕上げることだけだった。


take nonsense:無意味な事を考える。

(20100630)