賢い犬リリエンタール

君の家に神様は来ない

自分が歓迎されていないことは解りきっていたが、まさかこんな目に遭うとは想定の斜め上だった。シュバインは赤くなった両手首を眺め、血が滲んでいないことを確認した。組織が借り上げているアパートメントの一つは、街の外れにあり、多少の荒事を起こしても迷惑を訴える住民などいない。それを見越して自分をここに連れ込んだということは、最悪壁の中の住人か、もしくは裏で飼われている犬の腹に収められていたかもしれなかった。
その思惑はさておいて、抵抗できないように強く縛り上げたつもりだったのだろうが、縄抜けの方法など初歩の初歩、自分を名の通り豚の餌にしてやると息巻いていた男の背後に近付き、振り向きざまに一撃。それから後は消化試合で、煙草に火を点け一服する頃には立っているのは自分だけだった。
血の色が目立たぬよう暗色で構成された室内、快晴の日であっても陽の光が入ってくることはない北向きの部屋。己の煙草の火だけが唯一の灯りだったが、暗闇に慣れた眼にはそれで十分だった。人の形をした肉塊は、しかし息はしている。流石にこの数を殺してしまったら言い訳も利かないだろう、そう判断した結果だった。
あまりにも呆気なく終わってしまったものだから、退屈で仕方がなく、足元に転がっている主犯格の上司のこめかみを蹴り上げた。僅かな頭蓋の窪みに硬い爪先をめり込ませ、蹴り切る。首が繋がっている所為でサッカーボールの代わりにもならない。いっそ切り落としてやろうか、と思った心をシュバインは他人のもののように感じた。一人くらいなら許されるだろう。見せしめにもなる。
ゆるりと室内に巡らせた視線は、壁に掛けられている大振りのグルカナイフに留まった。さぞ人の血も獣の血も吸ってきたのだろう。装飾のためではなくあくまで実用的な目的で掛けられているそれに向かって歩を進める。途中、床に投げ出された腕をぐにゃり踏み、それは随分柔らかな腕で、こんな豚のように脂肪を蓄えた腕でよくも自分に手を出そうと思ったものだ、と侮蔑に口の端を歪ませた。口の端から立ち昇る、ゆらり揺れる煙の向こう、こんな豚が、どうして自分を豚の餌にできる。
笑みを浮かべたままナイフを壁から外し、手に取る。鞘からすぅと抜けば、あぁ、これはやはり人の血を多く吸っている。それなりに手入れはされてきたのだろう。だが、永年吸った血脂に鈍くなった刃が、煙草の橙をぬらりと血のようにその身にまとう様に一気に酔いが回る。酒に酔ったときのように、これから流されるだろう血を想像して脳内が飽和した。――やはり、全員殺してしまってもいいだろう。十六になったばかりの人間に殺されるようならば、結局その程度、今後とてさして使いものにならないような人間だ。
シュバインは手に馴染ませるように、ナイフを振り下ろした。風を裂く音が重く、厚い。その重さに腕が持っていかれそうになるのを堪えて、再度振り下ろす。今度は自分の腰の辺りで上手く止めることができた。これなら、綺麗に首も切り落とせるだろう。
――だが、と煙草の灯に照らされる刃の先、その先の転がる肢体を見てしまい、思考が揺らいだ。死体の始末はどうする。シュバインにはまだ人を動かせるだけの力も金もない。たとえ肢体をうまく処理できたところで、いくら赤が目立たぬような配色の部屋とはいえ、流石に何もなかったで済ませることはできないだろう。臭いもひどいことになる。いや、仮にこのままにしても、事務所に戻り報告すれば後は組織が片付けてくれるだろうから、その点では問題はない。だが、それもその点に関してだけの話だ。最終的にこの事の顛末を報告させられる羽目になる。
実際適当なもっともらしい嘘を吐くことなど容易ではあったが、何よりも肝心なのはその嘘が通用する相手か否かを判断することだった。そして目下のところ、シュバインの上司である男は後者の人間だった。街の不良でしかなかったシュバインを、組織に引き入れたのも彼だった。その彼を、今現在まで騙せたことは一度もない。騙されてくれた、ことなら多少あったが、今回のことでそういう態度を取ってくれるからシュバインには判別が付かなかった。――最終的に、諸々を考え出すと殺す方が得にならない、どころか損の方が大きいという答えになった。
途端に酔いは醒め、ナイフを元あった場所に掛け直す。手から失せた重みに、この場所に留まる理由さえなかったことに気付いて舌打ちする。呻き声もない部屋の中、その音はやたら大きくシュバインの耳に返った。その虚しさにまた舌打ちしたくなったが、それを堪えて玄関へと足を向けた。
結局、何処もかしこも同じだ。シュバインがいる場所は、ひいてはシュバインがいられる場所で、そういった意味で何処であろうと同じだった。何処まで行っても、糞の上に子どもを敷き詰めて自分の靴が汚れないことに腐心する、こういう人間がいるような場所でなければ自分は生きていけないのだ。そう諦めるしか、否、腹を括るしかない。解りきったことだった。
床に吐き捨てた煙草を踏む消す足の強張りの強さに、自身が考えているほど割り切れていないこともシュバインは解っていた。それすらも、解りきったことだった。


今ではない時の話。
(20100612)

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