こんなにもこんなにも、冷えた手に安心するよ
ひんやりとしたものが頬を撫ぜて、それの正体を眼で知る前に兄さん? 声に出していた。
「――あぁ、ごめんね、起こしちゃったね」
薄く開いた眼はすまなさそうに笑う兄を映して、それからよく見知った日野家の居間を映した。
「……おれ、寝ちゃってましたか」
「うん、珍しいね。さくらくんが昼寝をするなんて」
何か疲れていたのかな、とテーブルの上に紅茶の注がれたカップと、この間職場で貰ったんだと丸缶に入ったクッキーをことんと置いた。彼は職場でも大層気に入られているのだろう、よく菓子やら土産やらを貰っていて、それを隣人である春永家にも分けてくれることが多かった。
「――有難う御座います、頂くっす」
桜は他所の家で僅かとはいえ寝入ってしまったことに若干の気恥ずかしさを覚え、それを誤魔化すようにクッキーに手を伸ばした。一口サイズのそれは予想よりは軽い甘さで、紅茶の僅かな苦みだけで舌の上はさっぱりしてしまう。頭をすっきりさせるまではいかなかったが、躰の内側に温かいものを入れたことで、四肢がゆるりと生き返っていくのが解った。
「二人もおやつにする?」
兄がベランダ際にいるマリーと一緒にお絵かきをしていたリリエンタールを呼ぶと、二人はきらきらした眼で「はい!」と元気よく返事をした。くんくんと鼻を動かすリリエンタールの姿に、そうだ彼は犬だものな、と改めて知る。どうやらまだ頭の方は眠気を引き摺っていて、クレヨンやらお絵かき帳やらを閉じ、ととっと足取り軽く寄ってくる二人の姿をぼんやりと眺めていた。
「今日はクッキーですな!」
「美味しそう」
自分よりも年の若い二人の声は高く、耳に転がり落ちた音の優しさに桜は眼を細めた。自身がいまだ子どもと呼ばれる年齢であることは十二分に承知していた。それでも、子どもの声に含まれる首筋を撫ぜるようなくすぐったさに、あぁいいな、と頭の後ろにぼんやりしたものを残したまま思い、クッキーを口に運んだ。
いまだに飽和した意識の中、ふと肌を撫ぜる風を感じて、小さな二人が先程までいた場所にゆるりと視線を移した。太陽の光が苦手なマリーのためにつけられた薄いレース地のカーテンがふわふわと風に遊んでいて、長閑だと思った。床に置かれた画材も、二人の子どもと兄の声も、紅茶の香りも、クッキーの甘さも、触れられた頬に残る冷たさも、他人事のような長閑さの象徴だった。自分は、じゃあ、何処にいられるのだろう? どうして此処にいるのだろう? 此処にいるのだろう? 漠然とした思考の泡沫がぷちんと脳内で弾け拡散した。
この空間を観察している自分は、その実何処にもいないし、いられない。唐突に気付いた。薄く、広く、この空間から除外されている自分に気付いた。溶け込めないならば観察者としての立場を誇示するしかできず、観察者は外部にいることを前提とする。此処は桜にとって外部なのだ。その外部の長閑さを構成する要素として、自分がいられるはずがなかった。だから、ここにとって桜は異物だった。
だって桜は知らなかった。いつの間にかレース地のカーテンを買っていたことも、床に置かれた画材の中に姉である雪が以前使っていた物が混じっていることも、リリエンタールとマリーが兄に向ける声の微妙な高低の違いも、兄が二人に向ける声の柔さにも、紅茶の茶葉が以前と違っていることも、自分の方にだけさりげなく甘さを抑え目にしたクッキーが寄せられていたことも、
兄の指先があんなに冷えることがあることも。
冴えた頭は居心地の悪さだけを鋭敏に感じ取ってしまい、普段日野家に来たときには感じない居た堪れなさを覚え、桜は中途半端に解凍された肢体をソファに沈み込ませたまま動けなくなった。どうして此処に自分がいるのだろう?
「……さくらくん?」
どうしたの。心配を滲ませた兄の声に。油の切れたロボットのように首の筋肉をぎしぎし軋ませながら動かして。ひんやり。冷たい指先が頬を撫ぜて。
「気分が悪いのかい?」
見上げて、兄の顔だけを映して。
「……いえ、大丈夫す」
そのまま、桜はゆっくり眼を閉じた。触れる指先が離れる前にそうと自分の頬を押し当てると、触れている桜にだけ解る程度のぴくりとした緊張が伝わってきた。それが驚いた所為なのか戸惑いなのかは定かではなかったが、変わらずに触れたままの指に猫のように頬を摺り寄せる。柔らかな肉に伝わる冷たさに、首の裏が粟立ち、ざわざわと足の爪先まで皮膚の表面が震えて。
「さくらくん?」
頬を優しく撫ぜてくれた指の温度に、いつか自分の熱が移ればいいと思った。
まさかの一ヶ月以上の更新のなさ……!!
(20100516)