賢い犬リリエンタール

泣きたくなる時があるよ、でもそれがいつかは君には言わない

それ(・・)を作ったとき、周囲の人間のほとんどは驚嘆と同時に賛辞を惜しみなく与えてくれた。流石日野博士の子どもだ、いや、もしかしたらそれ以上の天才かもしれない。この歳でこれを作れる才能なら、きっと将来も明るいだろう。飛び抜けた才に対して、大学の人間は非常に素直だった。元々が才ある人間の集まる場であり、それ故に自身がどう足掻いても到達することのできない才というものを見極める眼も持っていたということだろう。嗜虐的な言い方をすればそれは諦める才能だったのだが、大学の人々はそこに付随する悲観的な感情を一切表に出すことはなく、彼の才能を称賛した。
彼自身の温もりある性格や雰囲気のお陰も多分にあった。敵を作ることのない柔和な性格、しかし自身の意見を述べることも知っている彼を、悪く言う人間などいなかった。年若い天才の誕生を、皆手放しで喜んでくれた。
唯、一人だけ。
『貴方はどうしてこれを作ったの』
どうやって、ではなく、どうして、と。
問うてきた女の人に、何も応えることはできなかった。
だって、作れてしまった。それだけだったのだ。作っていく過程が楽しかった。そうしてできあがっていた。それだけだったのだ。だから、理由などなかった。
『どうして、こんなものを作ったの』
答えられない彼を前に、同じ問いを繰り返した彼女は悲しそうな眼をしていた。悲しそうな眼で、彼を観ていた。
『あなたは、だから天才なのね』
悲しそうに、憐れむように、そう言った。


「あにうえ!」
ガレージから出た丁度そのとき、声のした方を振り向くと、小脇に何かを抱えてとととっと駆けてくる小さな弟と、隣の家の大人びた少年が連れ立ってやってくるのが見えた。今日はマリーと共に昼食の直後から隣に遊びに行っていたはずだが、一足先に帰ってきたのだろう。眼が合った桜にこんにちはと挨拶をし、それから少し腰を屈めてリリエンタールを迎えた。
「お帰り、リリエンタール。その本はどうしたんだい?」
「さくらが貸してくれたのです!」
抱えていた大判の本をびしぃと頭上に掲げながら、リリエンタールはその円らな黒の眼をきらきら輝かせていた。その表紙には、「九十九パーセントの努力と一パーセントの閃き」という金言を残した人の名が大きく記されていた。通常の伝記ではなくごく幼い子ども向けに書かれたものらしいことは、カタカナの名の上にふられた平仮名とその本の薄さで解った。
「……前ウチに来たとき、(こいつ)といるときにあのロボットが出てるCMが流れて、興味覚えたみたいで。ちょっと昔の本整理してみたらあったんで」
「そうか。有難うさくら君」
笑って礼を述べると、桜は気恥ずかしそうに眼を逸らした。読書好きの桜のことだから、蔵書量もなかなかなのだろうと思う。この子ども向けの本をわざわざその中から探してくれた彼の好意に感謝した。あのロボットとは、この間見た二足歩行をするあれのことだろう。リリエンタールはまだ幼いから、これくらいの本が丁度いい。
桜は、あまり感情を表に出すことのない上に年齢不相応な外見と頭脳を持つ少年だが、言動の端々に感じられる不器用な素直さと優しさには年相応の幼さが感じられた。たとえば今の、隠し方が下手なところがそれだったが、敢えて指摘することなどはしなかった。
視線をリリエンタールに戻すと、好奇心旺盛な小さな弟は、掲げていた本を下ろした。それからその表紙に描かれた人の顔をじぃと見つめた後、ぐいと真っ直ぐな視線を向けてきた。
「これは、『はつめいおう』という人のおはなしらしいのです」
うん、そうだねと頷くと、あにうえもご存知でしたかと嬉しそうに声を弾ませた。それを見て、ほわり胸の辺りが温かくなる。リリエンタールの素直さは、人を卑屈にさせるのではなく素直にさせるもので、彼の持つ不思議な能力よりもずっと凄いものだと思う。だから、思わず気が緩んでしまったのだ。
「あにうえもいろいろなものを作るのがすごいので、きっといつかこの人のように本になると思うのです!」
その口からあんまり真っ直ぐな言葉が飛び出して、吃驚して何も言うことができなかった。ありがとう、の一言も口にできなかった。完全に不意打ちを食らった。
「――だから、わたくしめもあにうえに恥じぬようなりっぱな弟になるのです!」
リリエンタールは、いつものように真っ直ぐで。その言葉に嘘偽りがあるはずなかったから、余計に胸に刺さって。
構えているつもりでも、予想外の柔らかなところに真っ直ぐ気持ちを伝えてくるものだから、どうしようもできない。唯わけも解らず、どうしてだろう。
泣きたくなった。
「……あにうえ?」
リリエンタールの声に不安げな色が混じって、首を傾けながら顔を覗き込んでくる。
「あにうえ、いかがしたのですかな?」
本を脇に抱え、おずおずと尋ねてくるリリエンタールが気付く前に、大丈夫だよ。湧き上がった何かを胸の中に押し込めて笑った。腰に手を当てて、ぐっと顔をリリエンタールに近付ける。この小さい弟に、こんな感情を教えたくなどなかった。
こんな自分を惨めに思う気持ちなど、知られたくなかった。
「それじゃあ僕も、リリエンタールがもっと自慢できるような人にならないとね」
「……! いえ、あにうえはもう十分すごいのです! あにうえがもっとすごくなったら、わたくしめももっとがんばりますぞ!」
「そっか、それじゃ一緒に頑張ろう!」
「はい!」
居間のテーブルの上におやつを置いてあることを告げると、顔を輝かせてでは手を洗ってこなければなりませんな、ととととっとリリエンタールは家の中に消えていった。その後姿を、少しだけ余裕の生まれた心で微笑ましく思いながら見送る。てつこもとても良い子だと思うが、リリエンタールも同じくらいに良い子だった。
「……兄さんも、あんな顔するんすね」
それまで沈黙を保っていた桜がぽつりと呟いた言葉に、腰から手を外して緩慢に振り向く。眼を眇めて自分を見る桜の表情からは、あまり感情が読みとれなかった。
(あいつ)は、でもきっと気付いてるんじゃないすか」
正しく解っているとは思わないけれど、言葉ではなく肌で、頭ではなく心で解っているような気がする、と続けた桜は、その間ずっと視線をこちらに向けていた。睨むでもなく見つめるでもなく、唯観るその眼と同じ眼をする人が前にいた。そんなことを思い出しかけて、それが誰なのかは思い出せないまま視線を避けるように俯いた。
「そうかもしれないね」
あの子は、だから凄く良い子なんだ。後半の言葉は飲み込んで、口だけで小さく笑った。あんなに優しいものだけでできているような、そんな子だからこそ守らなければならない。彼を狙う者や、彼を傷付ける者から守らなければならないのだ。――この胸の底に沈ませている、薄暗い感情も例外ではなかった。きゅっと手を硬く握り締めた。
「――兄さんは」
桜がゆっくり、そして静かに近付いてくる。
「兄さんは、それでも(あいつ)の自慢の兄貴なんすから、やっぱり笑ってくれてた方がいいす」
横に並んだ桜に少しだけ視線を下げれば、人を射抜くように観ることも知っているはずの眼はそっと伏せられていた。誰とも視線を合わせたくないのだというその意思表示は、しかしけして否定的なものではなかった。
「……うん」
だから小さく頷いて、笑った。桜の不器用さに、ぎゅっと胸を締め付けられるような苦しさを覚えて上手く笑えたかは解らなかったが、ふっと息を吐いたときに口元に浮かんだのは確かに馴染みある笑みの形だった。
「うん」
繰り返した言葉に、桜がそっと握り締めた手に触れてくる。躊躇うように撫でるだけの指先の優しさに、また泣きそうになった。


日野兄弟とさくら。終着点を考えずに書くものではない!
(20100408)

BACK