彼は眠る、抱くは不眠症の猫
アキラは眠っている。猫はそれを確かめた後そろりと部屋の外へ出た。
夜中の廊下は、ぽつぽつと申し訳ない程度の蛍光灯の光で照らされているだけで、他に灯りという灯りもなかったが、関係なかった。猫と呼ばれる身には闇は馴染むものでしかなく、また幾つかの能力も持ち合わせている身としては壁もあってもなきが如し、するりするりと抜け、恐らく最短距離でその部屋に辿り着いた。
「――まだ、起きてらっしゃるんですね」
シュバインさん、と呼びかけた相手は、手にしていた書類から顔を上げた。口の端に加えた煙草の短さに、あぁずっと起きているのだなこの人は。猫は思った。手元の灰皿の吸殻の量と、開かれた何冊もの書物、山になった書類も認めて、むしろこの人が眠ることなどあるのだろうか。もしかしたら眠ることを勿体無いと思ってすらいるかもしれない。猫は、年齢にしては落ち着いた物腰の男のワーカホリック的な側面を垣間見た気になった。
「ネコさんか」
久し振りだな、と続いた言葉と僅かに上下した眉は、この時間帯に自分が現れたことに対しての驚きを表すと同時に、何故ここにやって来たのか、その理由を言外に問うていた。
唯でさえこの部屋は照明に乏しく、彼の手元にあるノートパソコンの画面の明かりよりは背後に据えられた壁一面の水槽内の照明の方が多少なりとも部屋全体を明るくすることに貢献していた。その所為で逆光になるシュバインのその表情は大仰な動きを見せない分、益々常人にとっては読取りにくいものになる。光を背負うことで表情を見えにくくするというのは、シュバインの一つの支配の方法なのだろうか。――猫である身には、やはり関係なかったのだが。
「……理由と言う、理由はないのですが」
とことこと彼の机の前にあるソファの前で、「座っても宜しいですか?」と尋ねるとシュバインは眼を細めた。
「断りなんぞ不要だが――どうぞ」
シュバインの言葉に礼を返し、ソファに腰掛ける。その一連の動きを、彼が資料を見る傍らで追っていたのを猫自身感じていたが、再びシュバインに視線を向けたときには既に書類だけを見ていた。
何枚かでまとめられていたその書類を捲る速さは読む速さと直結しており、手元に開かれている数冊の厚い書物も同じような速度でページが捲られていく様を見て、全ての情報を同時に処理しているのだろうと見当をつける。常人には真似できないだろう情報処理の方法と速度に、猫はやはり違うな、と内心頷いた。
(アキラは、一極集中型だから)
自身の飼い主である青年が、一つの物事にしか集中できないタイプであることは明らかで、シュバインのこの要領の良さも憧れの一要因になっているのだろう。だが、アキラがシュバインのように書類仕事をこなす様がどうしても想像できずに、猫は眼を瞬かせた。どちらかというと、てんやわんやになってショート寸前になっているアキラの姿が簡単に想像できてしまい、小さく息を吐く。
アキラはとても良い飼い主だと思うが、如何せん少々短絡的で要領が悪いところが玉に瑕だった。聞くところによると、「銃があるとないとでは大違い」なのだそうだが、残念ながら自分は銃を持っていないアキラしか知らない。更に言えば、彼の十二分に眠る幸せを満喫しているかような――この組織にいることを考えると、緊張感に欠けたと言った方が正しいのかもしれないが――まだ幼さの残る寝顔を見ていると、そもそも本当に銃を持っていたのかどうかすら疑わしく思えた。
(世の中には本当に様々な人間がいるものです)
誕生して間もない自分の、さして広くはない世界の中でも多様な人間がいることに猫は素直に感心した。人間というのは本当に、面白い生き物だと思う。
(たとえば、この人も)
とても面白いと思う。事務方の仕事を迅速にこなす有能な仕事振りしか見ていないが、恐らく彼とて以前は実地に赴いて仕事をこなしていたのだろう。文武両道、という言葉が妥当なものかどうか微妙なところだったが、この組織もシュバインの才は十分認めているのだろう。二十六という歳に見合わない地位を得ている事実がそれを裏付けている。
色々な人間がいるものだ、とそっと猫はシュバインに視線を戻した。そのとき、寝る間も惜しむかのように仕事をこなす男の、眼の下にうっすらとできた隈を見つけて、猫は何度か瞬いた。隈ができるということは、眠っていないということだ。まさしく現状を見れば理解できるそれが、何故だか猫は引っ掛かった。
確かにシュバインは有能な人物だと思う。だからこそ、自身の体調が万全ではないことを悟らせるようなことはけしてしないだろう。それは隙を作るということだ。昼はもしかしたら何かしらを塗って隠しているのかもしれなかったが、そういうもののにおいならば自分にはすぐ解るはずだった。
ならば、この隈は自分が暫くアキラと共に――当然姿を透明にした状態で――このアジトを離れている間に作られたということだろう。流石に人も来ないだろう夜まで、それを隠す必要性を感じなかったのか。
(もしかしたら)
「……シュバインさんは、眠らないのではなく、眠れないのですか」
猫が口にした一言に、シュバインは眼と手、両方をすっと止めた。それからゆっくりと上げられた顔には、猫も意外だったが、笑みが浮かんでいた。
「……ネコさんがそういうことを言うとは、意外だったな」
その笑みの作り方は、見ようによっては大人が子どもに見せる苦笑のようなものだったかもしれない。しかし人相手ならば逆光で誤魔化せるだろう、影の中の僅かな陰りをその笑顔に感じて、猫はざわり総毛だった。自身はあくまでRD-1に創られた身、それにも関わらずまるで獣のような部分で猫はシュバインの細められた眼に、何もかもを沈み込ませるような黒の眼の奥にある何かに、慄いた。
「シュバインさん」
「……そんな声を出されると困るな」
別に脅かすつもりはなかったんだがという声には陰りはなく、唯本当に困ったように笑うシュバインの切り替えの早さに猫は驚いた。再度彼の名を呼ぼうと開きかけた口をそのまま閉じる。既に何事もなかったように男は作業の続きに戻っていて、先程見たあの薄暗い笑みは一体何だったのだろうか。猫はじぃとその大きな眼を更に開いてシュバインを凝視した。
(――本当に)
本当に、この人は眠れないのではないだろうか。思いつきだけで言っただけだったが、それは的を射ているような気がした。眠れないというのならば、それを解消できる術を猫は持っている。容易く人を眠らせることができる、そういう光線を出すことができるのだから。シュバインが一言言えば済む。後に残るのはぐっすり眠りに落ちた彼だけだった。
だが、自分からそれを口にすることは躊躇われた。シュバインとて己の能力は知っているだろうに、彼は何も言わなかった。公私の区別を明確につける性格ゆえか、部下の飼い猫に物を頼むのを良しとしなかったのか、理由は様々に考えられたが、結論としてシュバインは自分に何も言わなかった。ならばここで自身がそれを口にするのは差し出がましいと言えるだろう。――唯でさえ思いつきで物を言ってしまった直後だけに、猫は一層慎重になった。
「ネコさん」
窺うような視線に気付いたのか、シュバインは顔を上げないまま口にした。
「もう眠った方がいいだろう。あんまり子どもが夜更かしするもんじゃない」
生まれてから――創られてから、まだ一年も経過していない猫に対しての言葉は優しく、まるで親のそれだった。猫は「親」を知らなかったが、言い含めるような口振りと落ち着いた声音に、猫はこっくりと承諾の意を込めて頷いた。
アキラが猫に話しかけるときの声に似て、優しさを多分に含んだ声は心地良かった。耳や肌に馴染み、ふわっと胸の辺りが温かくなる、そういう声だった。その声に抗い意地を張ってここに居続ける理由はなかった。そもそもが理由もなく来たのだから尚更だった。そっとソファを降り、相手には見えないだろうが軽く頭を下げる。
「お仕事中に、失礼しました」
ぺらり……、と紙を捲る音が止まった。
「……良い夢を、ネコさん」
優しく返された言葉に、もう一度猫は礼をしてそっと壁に向かう。心の中で、貴方も良い夢を、そう呟きながら全身を壁に溶け込ませた。室内から完全に姿を消す、その最後に耳にしたのは、止まることなく紙を捲る音だった。
アキラの寝顔は子どもみたいですよねそうだな、なんて台詞を書きたくて書き始めたはずだったのに何故だ。
(20100324)