賢い犬リリエンタール

何処かの人の物語

血というのは温かいんだな、と思うだけの余裕があった。
それから、夢でも温かさを感じるんだな、と判ずるだけの理性があった。
その後、あぁこれは俺の昔の再現じゃないか、と気付くだけの罪悪があった。


一個の人間にとってもっとも恐ろしいのは、
気がつかないということです。


今は朝なのか夜なのか、自分は何処にいるのか。普段なら目覚めると同時に把握しているそれらの情報を完全に見失い、シュバインは反射的に腕時計を見た。長針は真東に、短針は南南西。その僅かな時間に、眠りに落ちる前に猫が夕飯だといってきゅうりを食していた記憶を引き出しておいた。時間にしてせいぜい十五分程度、取れるときに取っておこうと思っての仮眠だった。
「……」
意味はないと解っていた。それでも部屋の中を一瞥し、背後の水の揺らめきが室内の表情をゆらりゆらりと変えている様を見て、あぁこれは確かに今だ。そう確認した。確認してしまった。そういう無駄な行為に自分を走らせたのは、疑いようもなく先程の夢だった。金属製のシガーケースに触れた指先に感じる、馴染みになった冷たさが酷く身に沁みた。
(……あれは……何年前だったか)
肺を煙で満たし、細く吐き出しながら記憶を掘り返す。自らの意思で奥へ奥へと追い遣ろうとしたわけでもないが、年月を重ねれば重ねるだけ埋もれていく。シュバインは自らの記憶を少し掘り返しただけで真っ赤な土壌が現れるという事実を、久方ぶりに目の当たりにした。
組織の一員である、ということは殺人者集団の一員である、と言い換えることができた。もっとも非合法だの表立ってできないだの、ということの全てがそれに繋がるわけでもなかったが、シュバインが最初に、そして一番永くいた部署は他の部署と異なり、同じ組織の人間からも「汚い」と言われるような仕事を受け持っていた。
政治家のだらしがない下半身が汚した女の後始末もしかり、慎ましやかに暮らしていた一家を離散させた挙句、母娘には春を鬻がせるように仕向ける仕事もしかり、仕事だと割り切ろうとしても、必ずあまりがでてしまう、そういう類の仕事にシュバインは十代の半分を費やした。
無闇に、そして無意味に人を殺したことは一度もない。しかし一体それの何が褒められることか。殺される方からしてみれば意味があろうとなかろうと同じことだ。何の慰みにもならない。残された者にとっても何の足しにもならない。かえってそんな殊勝な態度を見せられた日には、死人は墓場から這い出てきてシュバインの足首を掴み、土中に引き摺り込むだろう。
そういう仕事ばかりをしてきたことに、辟易しなかったと言えば嘘になった。だが、そういう仕事もあることを承知でこの世界に身を投じた。結局は全て自身の選択だった。選ばされたものさえも、自身で選んだものだった。
だが、とここでシュバインは想い起こさずにいられなかった。組織には随分と色々な人間がいて、シュバインさえも眉を顰めるような人種もいれば、何故この組織に入ったのか――入れたのか――というような人種もいた。
後者の筆頭は紳士組のあの二人だった。紳士を貫こうとするのならこの組織にいること自体が既に紳士的ではないとシュバインなぞは思うのだが、それを口にしたところでウィルバーがまともな、そしてシュバインが納得できる回答をするとは思えない。
あの二人に関しては、組織の他の面々もどこか諦めたような素振りを見せることがある。行動基準が解らないと愚痴を零していたのはヨーロッパ支部時代の同期だったか。――確かに、シュバインにも未だもって解らない。解らないが、ウィルバー曰くその全ては「紳士的である」ことで共通しているらしいので、恐らくそういうことなのだろう。
解らないと言えば、アキラも何故この組織に入れたのか解らなかった。入ろうと思ったわけは以前聞いたことがある。思いがけない問いだったのだろう、それで彼の本音が出た。
『銃が持ちたくて』――その一言を聞いたとき、組織はこれを使い捨てる用に取ったのかと考えた。だが、すぐにそれは捨てた。日本のヤクザや極道といった世界では鉄砲玉と言うらしいが、この組織にも似たような存在を飼う習慣がある。だがそれはあくまで『飼う』のであって、組織の一員として働かせることはほとんどなかった。だから、アキラはそれなりに素質を見込まれて入ったのだということになる。
それでもシュバインには想像できなかった。銃が持ちたくて入った、とまるで子どものような理由を述べたあれが、可哀想な女の心臓を打ち抜く様を、母子を路頭に彷徨わせるよう画策する様を、どうして想像できるのだろう。
解りやすく、相手も同じように真っ黒な腹で真っ赤な手で、歯を真っ黄色にしているような、そういった類の人間を殺すことならば、アキラもさほど罪悪感も抱かないかもしれない。だが、そういった仕事ばかりではなく、むしろそれの方が例外と言ってもよかった。大半の仕事は、隣の幸せな家庭を壊すものでしかない。 ――アキラに、果たしてそういう仕事を任せられるか。
そこに考えを到らせたとき、煙草を咥えた口の端を僅かに歪めた。無理だ、と思った理由は、一つに達成率が低そうだから、更にはその後使いものになるかならなくなるか予想がつかないから、だった。引鉄を引く寸前ぎりぎりまで躊躇うような顔を見せるだろうアキラを想像するのは簡単で、その後に使いものにならなくなったらを考えると話にならなかった。――あれはまだ、汚れ仕事をするには脆すぎる。
それが単純な甘やかしであるのか、今後の成長を見据えた上での判断なのかを自問自答せずとも、前者であることは解りきっていた。そうだ、シュバインはまだアキラの手を幼い子どもの血で、罪のない女の血で汚したくはない。いつか来るだろうその日を、明日にする気はなかった。だがそれも、あれを少しずつそういった仕事に慣らしていく、ということの言い換えでしかなかった。それが、この組織にいるということだ。
(それでも、いつかの話だ)
いつかの話を、今ここで考えなくてもいい。雑念を断つように煙草を灰皿に押し付ける。仮眠で頭をすっきりさせたかったのだが、とんだ逆効果だったようだ。閉じていたパソコンを開くと、仮眠の間に届いたメールにざっと眼を通して振り分け、仮眠前に行っていた作業の続きに入る。
その最中にふと、アキラも仮眠の間に過去に魘されるようになるのだろうか。そんなことに思った。アキラも、血の温かさを確かめるような夢を見ることになるのだろうか。
「……因果な、仕事だな」
誰にともなく、シュバインは呟く。自分と同じような体験をする人間を増やしていくだけの未来を、自分を、初めて疎んだ。


一個の人間にとってもっとも恐ろしいのは、気がつかないということです。
気がついてしまえば、救う方法はあるものです。


十代半ばから組織にいたらしいシュバインさんの過去が気になりますが、アキラがどうやって組織に入ったのかも気になります。
郭松若『歴史小話』岩波書店より引用・抜粋
(20100318)

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