賢い犬リリエンタール

恋愛(以上+未満)=恋愛以外

およそ男女の色事というのに縁遠い生活を送っていたので、久し振りの感情に戸惑いがあったことを認めないわけにはいかなかった。どう扱えばいいのか解らない、まさしく持て余しているような状況で、アキラは再び没収されてしまった銃の代わりに両手にダンベルを持ち、トレーニングも兼ねて上げ下げしていた。
少し重めのダンベルに、筋肉がぐっと締まって伸びる、その感覚が気持ちいい。単純な繰り返しの作業、適度に疲労していく感覚、その気持ち良さに夢中になりかけたとき、はっと当初の自身の課題を思い出した。
アキラの年齢を考えれば、まだまだ恋愛ごとに現を抜かしてもいい時期でもあった。酒も煙草も法的に認められない年齢ではあるが、恋愛とやらに法的制限はない。青臭い恋愛とつまらない勉強と、アルバイトだので毎日を満たすのも、きっと悪くない日々なのだろうとアキラ自身も思っていた。
だが、そういった日々は悪くはないが面白くもないものとして彼の眼には映った。アキラが求めていたのは、映画のような派手で退屈とは無縁な、刺激に溢れた日々だった。銃弾の雨の中を颯爽と駆け抜ける――まではいかなくとも、自分の手に銃があることを考えるだけで、アキラの心身の緊張は一気に高まった。
子どもじみた興奮だと言われてしまえばそれまでだったが、掌に感じる鉄の重みには玩具には感じない重厚さを感じ、引鉄を引いた時の指の引っ掛かりには確かにこれは人の命を奪うこともできる、そういう道具なのだと知らしめられた。
――これはあくまで使われる道具であり、使う側である自分自身の意思が全てを決定するのだ、と。それはアキラの心を強く縛るものになった。自分は常人には持ち得ない物を持つことができている、だからこその銃の重みを素直に感じていた。
基礎訓練を経て、組織の日本支部に配属されたまさにその日、アキラは生まれて初めて銃を手にした。そのときに感じたのは、銃本体の重みだけではなかった。一言でいえば冷えた鉄の塊に過ぎないそれは、銃を貰える嬉しさに浮ついていた心をずん、と深く沈ませた。思っていたよりも軽かったにもかかわらず、初めて目にし、手にした凶器は、興奮以上にアキラに沈静をもたらした。
これが、この両の掌に収まるような物がずっと自分は欲しかったはずなのに、現実に手にすると、本当にこれで映画の中のように人を傷付けられるのだろうか。にわかに信じられず、だから正しく言えば沈静ではなく、興奮が過ぎて認識と感情が剥離してしまったような状態に陥ってしまっていたのだった。
その剥離した心で、けして玩具ではない重みを幾度か握り込んで確かめ、本当に自分はこれを撃てるのだろうか。さぁと血の気が引いた。本当にこれを、おれは人に向けることができるんだろうか。興奮が遠くにある中で、冷静な認識能力だけが働いていた。この銃というものは、対象が何であれ、破壊するために作られている。そして組織にいる限り、その対象が人であるだろうことは疑いようもなかった。
――銃が欲しかった。憧れていた。銃自体に、銃を持つことに、憧れていた。酷く単純な思いだった。だが果たして、自分はその銃口を誰に向けていたのだろう。世界に仇なす悪者か、弱者を蹂躙する強者か。今の自分は、まさしくそちらの立場じゃないのか。
手狭な部屋の中、同期と横並びに整列していた。次々に渡されていった銃を手に、皆の意気が昂揚しているのが解った。だがその中で一人、銃を手にしたまま棒を飲まされたように立ち尽くすアキラを見て、皆に銃を手渡し終えた男が近寄って来て小さく呟いた。
『怖いか?』
非合法の仕事から汚い仕事まで、あらゆる仕事を請け負う組織の人間にかけるには、随分と小馬鹿にした言葉であったのは事実だった。いつもだったらすぐにでも反論しただろう。他の同期への見栄もある。だが、彼のその言い方があまりにも柔らかく穏やかな声だったので、抗いすら考えずにこくり、頷いてしまっていた。
『……そうか』
伸ばされた長い指が自分の掌に置かれた銃の把手を取り、ゆっくりと引鉄に指をかけ、そして――額にひんやりとした硬さを感じた。
周囲の人間がはっと息を飲むのが解った。部屋の中の熱くなりかけていた空気が一転、緊張に満ちた。
『……怖いか』
銃口を額に突きつけたまま、その上司はアキラに問うてきた。引鉄にかかっている指は脅しなのか本気なのか、アキラには判別つかなかった。唯、自分を見る男の眼が作り物のように真直ぐにしか自分を映さず、この人は何を思っているのだろう。場違いなことを思った。この人は何を思って、今この銃口をおれに向けているんだろう。
『怖いか』
アキラ以外をその眼に映さないまま繰り返された問いは、しかし変わらずに穏やかで、おそらく問われていることに正答はないだろう。だが、それが彼の気に入らない答えだった場合、この指は躊躇いなく引鉄を引くのだろうか。解らなかった。だからアキラは答えた。
『――解りません』
怖いのかどうかなど、解らなかった。自分の感情よりも、余程眼の前の男の行動が解らなかった。銃を撃つ気などないことは少し考えれば解ることだったが、それにもかかわらず銃口を向けてきた男は、自分にどのような答えを期待していたというのだろう。
その答えが彼の満足するものだったか、それは傍目には解らなかった。唯それまで射抜くようにアキラを見ていた目許が和らいで、次いで口元が僅かに緩んだのをアキラは見逃さなかった。銃が下ろされ、再びそれはアキラの手に戻された。
『――いいか、銃は常に携帯しろ』
解けた緊張の糸が完全にばらけるより先に、張りのある声が室内に響いた。その声にアキラを含め全員が佇まいを改め、前に立つ男を見つめた。
『いつ、何があるか解らない。そのときに――撃てませんなんてことのないように、訓練も欠かすな。そして』
そこで一度言葉を区切った。
『――銃に使われないようにしろ』
それができないのなら銃は持つな、と続けた後、上司は短く解散、と言った。
『後は各々割り当てられた部署で説明を受けろ』
横一列、綺麗に頭を下げて部屋を後にする。当然のようにアキラも先の人間に倣い、一礼の後に退室をしたが、廊下に出た直後に一気に囲まれた。
『――お前、よくシュバインさんにあんなふざけた答えできたなぁ』
多分に呆れも含んだ同期たちの声と表情も、普段だったら噛み付く対象になった。だがアキラはそうしなかった。そうか、あの上司の名はシュバインと言ったのだったか。それを今更思い出したのだった。部屋に入り一列に並ばされた直後、確か自己紹介をしていたはずだったが、銃を貰えるという興奮状態にあったのですっかり失念していた。
『シュバインさん、か』
その名を口にしたとき、脳裏に先程の彼の視線の躊躇いのなさが浮かび、続いてそれが緩んだ様が再生された。
『――どうしたんだアキラ、今更びびったのか?』
『そんなんじゃねぇよ!』
同期の揶揄に、アキラはと声を荒げ大股で歩き出した。置き去りにされた同期たちの笑い声が耳に届いたが、それを気にする余裕がなかった。顔が、頬が、躰が熱かった。それはまるで遅れてきた興奮のようだった。本当ならば銃を手にしたときにやってくるはずだったそれが、今更アキラの躰にやってきた。そう思った。思っていたのだった。
一過性であるはずのその熱が、その後も残り続けていることに気付き、うろたえ始めることになるのにさほど時間は要らなかった。


正直訓練期間というか、仮採用期間に射撃訓練はしっかり受けていると思います。が、捏造。
また、アキラはしょっちゅう銃を没収されているというのも捏造です。そこまで…できない子じゃないはずだ…。
(20100304)

BACK