賢い犬リリエンタール

君はそれを恋だと知らない

疲れただろう、と差し出されたのは渋い中年男性の顔が目印の缶コーヒーだった。
「あ、ありがとうございます!」
だらしなく開いていた脚をびしぃっと折り目がつかんばかりにきっちり揃えて閉じると、お前は妙なところで真面目だな、上司の男は子どもを見るように柔らかく眼を細めた。
「いえ、そんな」
上司の前ということもあり、途端にかしこまったアキラを前に、もっと気楽でいいぞ、シュバインは軽く左右に手を振った。「おれも一息吐きたかったんでな」 振られた手とは反対の手にはアキラのものと同じものがあった。端に寄って広めに開けたスペースに、当然のようにシュバインは腰を下ろした。
「シュバインさんも、ここのところ帰っていないんでしょう」
あの例の犬の件で上がやたらと騒いでいる。それのみならず、どうやら外部の者も動き始めたという風の噂がアキラの耳にも届いていた。ならば当然、耳敏いシュバインがそれを知らないはずがないだろう。
「おれみたいな中間職は何はなくとも上より先に布団に入るな、ってのが至上命令みたいなもんだからな」
でもそこら辺は適度にやってるしな、と缶コーヒーを開けて飲む。それを見て、ぷしゅっとアキラもプルタブを開けた。口の中には熱いコーヒーの苦味と微かな甘味が広がり、疲れた脳と体には丁度いいと思った。
一口飲んだ後、ふぅと息を吐いたアキラを見てシュバインは「やっぱりお前は真面目だな、アキラ」 そう言って笑った。
「別におれが飲むのを待たなくたっていいんだぞ」
「いえ、買ってきて頂いた上にそんな……それに、おれはそんな真面目でも」
「まぁ、そうだな」
謙遜から出た言葉でもなかったが、あっさり首肯されてしまうとそれはそれで悲しい。その、落胆した表情を表に出すまいと意識を働かせる前に、シュバインの苦笑いが聞こえた。「そんな顔するなよ」 そんな悪い意味で言ってるわけでもない。続けられた言葉に、それはそうだろうと心の中で口を尖らせた。
シュバインの言葉に悪意が込められていることはほとんどない。たとえ脅迫めいた言葉を口にしようとも、それは暴力の行使の予告に過ぎない。悪意ではなく、幾つかある未来の内の一つを告げているだけに過ぎず、だからこそそれは明確な形を持って相手の心に刷り込まれる。
そういった悪意のない暴力の予告ほど空恐ろしいものはなく、それを思うと同時にシュバインという男が垣間見せる情のようなものは何なのだろうとアキラは考えることがある。たとえば、今のように部下をさりげなく労う様を見た後だと。
(よく、解らない人だ)
この上司は根っからの悪人ではない。自分のように銃を持ちたくて組織に入ったわけでもないだろうに、彼の背景を考え出すとキリがなかった。
こくりと再度コーヒーを啜る。カフェインは即効性ではないから、唯口の中に感じる刺激だけで当面の眠気を振り払う。それでも糖分一切なしのブラックでは胃に響いただろうから、シュバインが砂糖入りのものを選んでくれたことは有難かった。
緊張が緩んだのが解ったのか、シュバインは眼だけで笑って言った。「……お前はちょっと、無駄に動きすぎだな」
もう少し落ち着いて動けば、あんまり疲れをためることもないだろうにと言う彼の顔は呆れているのではなく、唯不思議そうなそれだったので、アキラは軽く視線を落とした。
「……おれは、あまり頭を使うことは得意じゃないので」
使えるものは己の有り余った体力程度だったので、そう素直に答えた。もっと頭を使って行動すれば、たとえばあの犬の捕獲もすんなり成功したのかもしれなかった。そうなるよう努力することも当然だが、それは正直叶いそうにもない。犬の件もしかり、あの妙な猫を連れて帰ってきてしまった件もしかり、アキラはどうも全力で動いて全力で空回ることが多かった。
「――まぁ、元気なのはいいことでもあるがな」
シュバインは一気に缶コーヒーを呷ると、そのまま立ち上がる。
「シュバインさん、もう行かれるんですか」
慌てて半分以上残っていた中身を飲み干そうと缶を傾けた途端、立ち上がったシュバインは留めるように掌をアキラに向けた。「一本分くらいは、その躰休めてやってもいいだろう」 笑ってふっと身を翻らせる。
「それじゃ、また後でな」
それだけ言い残して去った上司の背中を見ながら、アキラはおれは多分あの人の下にずっといる気がする、そんな風に思った。呷ったコーヒーは、少しだけ温くなって咽喉に優しかった。


アキラ19歳……そして吃驚シュバイン26歳。どういうことだこれ。(20100226)

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