カレル・チャペックと犬のように
こうさ、大切なもんを幾つか数えたりなんかして指折り数えようにもさ、一本の指も折れない時の絶望感ったらないのな。
あぁ、俺はお前の指好きだよ、お前はちゃんと指折って大切なものを数えられるか?
――止めろ筑紫、俺の前では数えるな、それは見せ付けられているみたいで嫌だから。
珍しく我が儘言うんですねなんて、お前どんだけ太陽浴びてたらそんな風に前向きに考えられるんだ。
そうじゃないだろう、――いや、何も言うな。言われても困るんだって。
くそ、人の指を噛むな。食いもんじゃないんだから。
そんなんだから犬みたいだって言われんだろ筑紫、やめろ、首を噛むな――……ほら、痕付いたじゃないか、キスマークだって内出血なんだから、傷害罪に問おうと思えば問えるって習わなかったのか?
そうやって尻尾振って人懐こい顔して寄ってくるから、ああやって簡単に切り捨てられそうになるんだろ。
もっと疑えよ、人を俺を自分自身すら疑って生きて見せろよ。
疑う事もしないくせに裏切られたなんて言うなよ、疑うってつらい事をしないで安易に信じる道を選んで、それで裏切られたなんて泣くなよ。
それでお前は命を落としそうで怖いよ。筑紫、
傷つくのはいつだって自分一人でいいのだと言った君の弱さを知っていたくせに、僕は自分自身を優先して君の弱さを知らない振りして君を傷つけた。自覚しているくせに自嘲する気にはならないのもこの矮小な自分を全身全霊で肯定する否定的な前向きの性格の賜物だろうね。ねぇ、僕は今でも信じてなんか居ないよ、君が傷つくのは自分だけでいいと言った言葉を。君は本当はとても臆病で、生まれたての仔犬のように耳と尻尾を垂れて何かに怯えて、母親の腸に頭を突っ込んで初めて安心していたんだ。弱さとは別に、君は唯臆病だった。自分の二本の足で立てるかどうか不安で仕方がないのだと、この地面が揺れる事なく沈む事なく自分を支えてくれるかどうか保証がなくて怖いのだとその眼はいつだって訴えていた。まるで世界が君を殺す為だけに世界を形作っているかのように君は考えていたのだろうか。誰にでもなく誰かに乞うような眼をしていたのを僕は知っている。その誰かが僕ではない事は承知の上だったよ。臆病それ自体は別に恥じる事なんかではないのだけれど、それを君は弱さと捉えていた事に少なからず僕は驚いた。だってそれは弱さなんかではなかったのだから。君の弱さは弱さじゃないものを弱さと名付け、恥じて捨て去ろうとする行為そのものに内在していた。そう思い続けていたのだけど、遂にそれを君に告げる事はなかった。君は元いた社会に戻ってしまった。
君は結局は殺し屋以外の何者にもなれなかったんだね、
笹塚さんをね、俺という人間はきっと殺したかったんでしょう。莫迦な事を言うって笑いますか? 普段笑う事を知らないみたいな顔している貴方を笑わせられるような冗談は一つも知らないから、鼻で笑い飛ばされるような本音を言ってみようかなと思ったんですよ。貴方は嘘や空の言葉で心動かされない人だから、真実なら笑ってくれるだろうかと。本当に、笑ってもらいたくて言ったんですけどね。嘲笑ではなく、唯もう呆れて莫迦な子供見るみたいにどうしようもないなぁって、無邪気に不可能な事をのたまってみせる子供の可愛さを多分貴方も知っていると思ったから。自分がそういう、子供みたいになってみようとは考えませんでしたけどね、ものの喩えで、そう思った。――あぁ、そう、そういう、風に。笑ってもらいたかった。俺は貴方に笑ってもらいたかった。この網膜に焼き付いてそれ以外の画なんて見えなくなっても構わないと、一瞬の気の迷いでもそう思ってしまうような笑った顔を見せてもらいたかったんです。その一瞬の気の迷いが、永遠の後悔に繋がっていると解っていても、その刹那に百パーセント満たされてしまえば、きっと永劫続く後悔は、何処かで言い訳をするでしょう。「だって貴方の笑った顔を見れたんだから」 その画だけでその事実だけで、この身が沈む重く黒く濁った世界は浄化されてしまうんです。この躰は泥の枷を解かれて空気を得る事が出来る。たった一滴涙みたいな透明な雫を墨の海にに垂らしたとしても、傍目には全く変わりはないのに、それでも俺にはその一滴が大事だったんです。大事だったんです。
パラレル世界