魔人探偵脳噛ネウロ

ある朝決闘を前にトウェインは

夜がふやけてぶくぶく膨らんでいく合間に笹塚にはやる事が幾つかあった。片手で数え上げられるほど、せいぜい三つの些末事は恐らく空がすっかり藍色に変色する頃合に終えられるだろう。それは楽観的な憶測だったけれども、大体笹塚の予想は外れなかった。とんでもなく調子っ外れの天災でも起こらない限り、万事はそれなりに上手くいくだろう。
しかしこの夜という奴は時々気紛れにこうした人の予想を裏切る曲者で、少し気を抜いてNHKのニュースなど聞いていようものならあっという間に空を覆ってしまうのだ。突付けばぶよぶよ、弛んだ脂肪のように揺れて、大半は無駄なものが詰まっているのだが、暑苦しく笹塚の身を圧迫してくるのだった。硬ければそれなりに片手で押しやる事も出来たが、生憎と夜は女の腹のように柔らかく押す手を呑み込んでしまうのが常だった。全く忌々しい、ゼラチン質の蕩ける柔らかさが今は憎たらしかった。
笹塚はこれからすべき事をさっと頭の中に陳列し整理した。一番効率良く全ての作業を終えられる順序を弾き出していく。手の中に収めた馴染んだナイフをくるりくるり、鉛筆でも回すように指先だけで回し弄びながら、ひゅっと空を切る音で凝り固まった思考の塊を一つ一つ切り分けていく。これ以外にも方法はあるだろうが、これ以上の方法はない、その確認をする事だけが笹塚の仕事の際の唯一の習慣であり儀式でもあった。
笹塚の、信念というには大分草臥れてしまってはいるが、自身に課している事で絶対にこちらの仕事では一切の金銭は受領しない、というものがある。まともな世界でまともに働いてまともに生活していれば事足りるくらいの量で、それで日々の糧として十分、その代わりに死体の腸に詰められた情報に鼻を突っ込み顔と躰を汚しながらも貪欲に漁っては食ってを繰り返していた。
特定の情報ばかり欲しがる事に意味を持たせようとした依頼人には依頼の拒否という形で絶縁状を突きつけた。なかなかこの絶縁状は効き、大抵次からは相手も腰を低くし互いの不可侵領域を弁えた大人の交渉を進めていけるようになるのだ。
さて、これから先ず向かうべきはこちらの仕事の斡旋所。携帯電話やメール等ではやり取りする事が出来ない類の情報を定期的に受け取りに行くのは面倒であっても億劫ではなかった。普段仕事以外で出歩かない笹塚にとって、少しばかりの遠出は多少なりとも運動になったのでなるべく車は使わないで出向いていた。メールや電話を使わないなんて白黒映画の中にしか見られないくらいに時代遅れだと自身も相手も笑うが、一番確実なものを選ぶという点でのみ――その一点こそが唯一絶対条件であり、互いを結ぶ蜘蛛の糸だったのだが――性格が合致した。だからこそ、こうして笹塚はいつものように相手のところへ出向いた。
一つ歩を進めゼリー状の足元不安定な夜の中を歩いて行く事が、即ちこの地球上に居る誰かの命を少しずつ硬化していく、否定しようもなく逃れる事の出来ない死へと向かわせているのだと思うと何だかバランスを崩しそうで迂闊に脚を運べなかった。自然慎重に一歩一歩を確かめるように綱渡りをしている新人のサーカス団員のように歩いていたのはもう記憶の底に沈んで久しい時分の話。
一歩踏み外せばまっ逆さまに奈落行きの幻覚を怖れ、夜に溶け込んだように骨も臓腑も抜けていた昔と違い、灰色アスファルトの上に辛うじて咲いた健気な花をも踏み躙りながら歩く自分はもう救えないなと笑いながら、笹塚は今日も誰かの柔らかな死の核を硬化させ現実にする為に存在していたのだった。


パラレル世界

(20060831)